2026年5月31日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 コヘレトの言葉3章1
    マルコによる福音書1章14〜15
●説教 「時が満ちる」小宮山剛牧師
     
 
   マルコ福音書
 
 マルコによる福音書の連続講解説教の3回目となります。私が伝道者として遣わされた最初の任地である輪島教会で、初めて取り組んだ連続講解説教は、マルコによる福音書でした。なぜマルコ福音書から始めたかと言いますと、私の神学生時代の恩師である三鷹教会の清水恵三牧師が牧師になった時、最初に説教したのがマルコ福音書であったと聞いていたからです。
 その清水恵三牧師は、『手さぐり聖書入門』という本を出しています。マルコ福音書の黙想をつづった本です。その本のあとがきで、マルコ福音書について次のように書いています。「簡潔で荒削りな文体であるだけでなく、人間の宗教的な甘えや願望を拒否する猛々しさがあるように思う。どういうわけかわたしはマルコ福音書に魅かれてきた。」
 私も同じような印象を持っています。今回、私は最初の任地である輪島教会以来、約35年ぶりにマルコによる福音書に取り組んでいるわけですが、あのかけ出しの頃の熱い思いを持って恵みを分かち合っていきたいと思っております。
 
   第一声
 
 本日の箇所で、ついにイエスさまの言葉が書き記されています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。これがマルコ福音書が記す、イエスさまの第一声です。たいへん短い言葉です。清水先生がマルコは「簡潔で荒削り」とおっしゃいましたが、まさにその通りです。先に読み続けたヨハネ福音書や、マタイ福音書とは対照的です。マタイ福音書は、イエスさまが山上の説教という最初の教えを説いたことを書きます。それは3章にわたるまとまった教えでした。ヨハネ福音書は、弟子たちとの対話やニコデモとの対話など、やはりイエスさまの語られた言葉に重きをおいています。しかしマルコ福音書は、他の福音書に比べると、イエスさまの語られた言葉は短い。しかしその代わりに、イエスさまの行動を書くことによって悟らせようというところがあります。
 マルコは、イエスさまの宣教の第一声をひと言で書き留めました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。短い。しかしこの最初の第一声に、福音書の伝えたいことすべてが凝縮されている。そのように思います。
 
   時
 
 まず、「時は満ちた」とおっしゃった。というものがある。私たちは時間の流れの中で生きています。私たちが生きているということは、時間の中にいることだと言ってよいでしょう。私たちにはそれぞれ生まれた時、というものがあります。みなそれぞれ異なった時に生まれます。その時というものを、私たちはどうすることもできません。私はイエスさまが地上を歩まれた時に生まれたかった、と思ったことがありますが、どうすることもできません。戦国時代に生まれたかったと思ったこともありますが、どうすることもできません。今の若い人の中には、日本の高度成長時代に生まれたかったという人がいるようですが、どうすることもできません。私たちは、「時」というものをどうすることもできないのです。永遠の昔から、永遠の未来に向かって刻み続ける時間。
 鎌倉時代に鴨長明によって書かれた『方丈記』の書き出しは有名です。‥‥「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」‥‥仏教的無常観を表現したものといわれています。
 しかし聖書では、ただ無機質に時が流れているのではありません。今水曜日の聖書を学び祈る会では「コヘレトの言葉」を学んでいますが、その3章1節〜11節にはこう書かれています。‥‥「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
 すなわち、時間は冷酷かつ無機質に流れているというのではない。人間の罪によってさまざまなことが起こるけれども、それでもなお神が時を支配しておられるのです。ここに一筋の光が差し込んできます。時の流れに身を任せるしかない、そして空しく世を去って行くと思っていた私たちに対して、神という方が大きく示されています。そうすると、いまこの現代という時に生きている私たちも、「生きている」のではなく「生かされている」のであり、私が今を生きているという意味も与えられることになります。
 
   「時は満ちた」
 
 イエスさまは最初に「時は満ちた」とおっしゃいました。時が満ちる。時が満ちるとはどういうことでしょうか?‥‥日本ではよく「時が来た」と言います。それに近いと思いますが、聖書の「満ちた」という言葉には「成就した」という意味があります。つまり準備された期間が終わって、次の段階に移る時が来たというような意味です。あるいは預言者が預言していたことが成就したという意味にもなります。
 言ってみれば「満を持して」ということに近いと思います。すなわち、神さまが準備なさり、ご計画なさった時が来た、ということです。
 それは、洗礼者ヨハネが逮捕された時でした。洗礼者ヨハネは、この章の3節に書かれていましたが、「主の道を整え」(3節)るために神さまによって遣わされた預言者でした。そのヨハネが捕らえられてしまった。そのときです。
 ではこれまではイエスさまは何をなさっていたのでしょうか? ルカによる福音書2章51節にはこのように書かれています。(ルカ 2:51)"それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。"
 これはイエスさまが12歳の時に、両親と共にエルサレムに行って帰られた時のことです。そのあとナザレの村で、ご両親に仕えてお暮らしになった。父のヨセフは園を早くになくなったと考えられますので、母と弟・妹たちの生活を支えるために仕えられたと思われます。そして今日の聖書箇所でイエスさまが宣教の第一声を発せられたのが、およそ30歳と言われています。30歳と言えば今の時代は若いということになりますが、当時は平均寿命が40歳ほどの時代です。決して若いとは言えない年齢です。
 人間的に考えると、神さまから与えられた使命のために、早く世に出なければ‥‥という焦りの気持ちもあったのではないか、などと思ってしまいます。しかしもちろんイエスさまには、焦りの気持ちなどなかったでしょう。父なる神さまに全面的に信頼をされておられたイエスさまですから、いつ世に出るかというようなことは、すべて神さまにゆだねておられたに違いありません。
 そしてイエスさまのさきがけとして働いたヨハネが捕らえられて、時が満ちたと言われた。神さまの定められた時が満ちたのです。
 
   「神の国は近づいた」
 
 続いておっしゃった言葉は「神の国は近づいた」という言葉です。これは人によっては、すごくおかしな言い方に聞こえるでしょう。神の国のほうから私たちの所に近づいて来た、とおっしゃっているからです。ふつうは、私たちのほうから神の国に向かっていくものだと思われているのではないでしょうか。宗教とはそういうものだと思われている。私たちのほうが修行し、努力して、神に近づいていくものだと思われています。
 しかしイエスさまは、神の国のほうから近づいて来たとおっしゃいました。どうして神の国のほうからこちらに近づいて来たと言えるのか?‥‥これをおっしゃったのはイエスさまです。すなわち、イエスさまが来られたのと同時に、神の国も来た。そういうことなのです。
 「神の国は近づいた」ということですが、文法的には「神の国が来た」と訳すこともできます。たとえば「電車が来た」「バスが来た」という場合、実際には駅のホームに立っていると、電車があちらのほうから近づいて来るのが見えた。それを「電車が来た」と言いますね。
 イエスさまが来られた。すなわち神の国が来た。そういうことです。イエスさまが近づいて来られた。それはすなわち神の国が近づいて来た。神の国とは神さまのおられる所ですから、神さまが近づいて来られたと言ってもいい。イエスさまと共に神の国がやってきたのです。
 
   「悔い改めなさい」
 
 そして、「悔い改めて福音を信じなさい」と続きます。これは正確には、「悔い改めなさい」ということばと「福音を信じなさい」という言葉に分かれています。
 まず「悔い改めなさい」です。これはギリシャ語では、「メタノイア」という言葉のの動詞形で、「心を変える」とか「心の向きを変える」という意味です。すなわち、今までこの世のことばかりに心が向いていたのを、神の方に向けるということです。このことから、「悔い改める」は「神に立ち帰る」という意味になります。「立ち帰ると言われても、私は神も仏も信じていないので、帰るわけではない」と思う人もいるかもしれませんが、わたしたちは誰であろうとみな神さまによって造られ、命を与えられたのです。だから私たちの造り主のところに立ち帰るんです。
 また、「悔い改める」という言葉は、自分はこのままではいけないということに気がつくことでもあります。つまり自分が罪人(つみびと)であることに気づくことです。ジョン・ウェスレーは、この考え方を重んじています。
 悔い改める、今まで歩んできた道の向きを変える。向きを変えると景色も変わって見えます。この世の景色ばかり見えていたものが、神の国の景色が見えるようになってきます。
 
   「福音を信じなさい」
 
 続けて「福音を信じなさい」と言われました。「福音」という言葉は、「良い知らせ」という意味です。良い知らせなのです。イエスさまと共に神の国が近づいて来た。そしてその神の国の中に生きることができる。イエスさまによって、だれでも神の国、神の世界に生きることができる。この世にいながらにして。そのことを信じなさいと言われます。何か修行しなさい、がんばりなさい、と言われているのではありません。「信じなさい」と言われます。信じることから始まるのだと。そのイエスさまを信じることによって、神の世界に生きることができるのだと。今、自分は神さまから見てふさわしくないとか、関係ありません。今、信じるということです。
 あらためて「時は満ちた」とおっしゃるイエスさまの言葉を思います。私自身について言えば、子どもの頃から教会に通っていたのに、その後教会を辞めました。信仰も捨てました。そしてその後、病気で死にかけました。しかしなぜあの時死ななかったのか?なぜ助けられたのか?‥‥実は神さまは、その後のわたしの救いの時を用意してくださっていた。そのように思います。救われる値打ちなど全くない私であるのに、もったいなくも、救いの時を用意してくださっていたのだと思います。
 「私には救いの時などない」と思う人もいるかもしれません。しかしそうではないのです。今キリストを信じようとするならば、今がその時です。聖書に次のように書かれています。
(Uコリント 6:2)"なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。"
 今が恵みの時です。今日が救いの日となります。いつでも神の国は、イエスさまと共に近づいています。


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