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2026年5月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教/ペンテコステ
●聖書 ヨエル書3章1
使徒言行録10章40〜48
●説教 「聖霊による救い」小宮山剛牧師
2度目のペンテコステ
ペンテコステおめでとうございます。本日の聖書箇所は、ペンテコステの日の聖霊降臨のできごとが書かれている使徒言行録の2章ではなく、10章の中から選びました。
使徒言行録2章では、ペンテコステの祝日に、最初の聖霊降臨のできごとが起きて、教会が誕生しました。そしてきょうの10章に書かれていることは、その時のできごとによく似ています。いわば第2のペンテコステとも言うべきできごとです。
聖霊が降(くだ)るというのは神さまがなさることです。ではなぜ神さまは、この第二のペンテコステのできごとをなさったのか?
それはイエス・キリストの救いが、ユダヤ人にとどまらず、全世界の人々のためのものであることを、はっきりとさせるためであったのです。全世界の人々がキリストによって救われるようになることは、もちろんキリストの弟子たちも、教会も、頭では分かっていたでしょう。しかし世界に向かって伝道していくことについて、キリストの弟子たちも教会も、たいへん鈍かったんです。それでにぶい教会を目覚めさせるために、神は、この第二のペンテコステを起こされたのです。
最初のペンテコステは、イエスさまの昇天から10日目のできごとでした。イエスさまのお母様であるマリアと共に集まっていた多くの弟子たち。そこに天から聖霊が降られました。激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌がひとりひとりの上に留まりました。そして弟子たちが、口々に自分たちさえ知らない各地の外国語で神をほめたたえ始めました。‥‥そういう現象が起きました。それは聖霊がたしかに来られたことを人々にも分かるようにされたのです。
そして物音を聞いて、ちょうどユダヤ教のペンテコステの祭日のために海外からエルサレムに来ていた各地のユダヤ人たちが、弟子たちの所に集まって来ました。するとペトロが聖霊に満たされて、その人々に向かって語り始めました。その内容は、今起こっている出来事は、旧約聖書の預言者ヨエルの預言したことが成就したものであること、十字架につけられて殺されたイエスは神が復活させられたこと、そのことは聖書に預言されていること、イエスはあなたがた殺したのであること、しかし神がイエスを復活させたこと、そのイエスこそ主でありメシア、キリストであるということでした。
そしてこれを聞いた群衆は大いに心を打たれ、悔い改めてキリストを信じ、洗礼を受けたのでした。そうして弟子たちの群れに加われ、教会が誕生しました。教会はイエス・キリストによって、神を礼拝するために誕生しました。そしてキリストの福音を世の中に宣べ伝える使命を与えられていました。
しかし、なかなか世界に向かって大きく足を踏み出せないでいました。もちろん、ユダヤ人以外の異教徒、すなわち異邦人もイエス・キリストを信じれば救われることは分かっていましたが、そのためにはまずユダヤ人と同じようにならなければならないと思っていたのです。ユダヤ人と同じように割礼を受け、律法を守る必要がある。その上でイエスさまを信じることが必要だと思っていました。そう考えていたユダヤ人中心の教会に対して、神さまが、はっきりと答えを与えられたのが、きょうのできごとです。
コルネリオスの回心物語
実は、きょうのできごとは10章の最初から始まります。そこに登場するのが、コルネリウスという人です。この人はローマ帝国の軍人で、百人隊長でした。現代流に言えば中隊長といったところでしょうか。コルネリウスは、(2節)"信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。"という人でした。どうしてユダヤ人が拝んでいる神、つまり聖書の神さまを信じるようになったのかは分かりません。けれども、熱心に神を信じる人でした。しかしイエスさまのことは知らなかったようです。
コルネリウスは、その日の午後3時頃、幻を見ました。神の遣わした天使を見たんです。天使は彼に告げました。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」(使徒10:4〜6)。
コルネリウスはペトロという人のことなど聞いたことがありません。しかしコルネリウスは言われたとおり、召使い二人と、信仰心の篤い部下の兵士を一人、ペトロの所に派遣しました。ペトロはヤッファの町の皮なめし職人シモンの家にいました。
いっぽうペトロですが、昼の12時になったとき、ペトロは祈るために屋上に上がりました。すると、ペトロは神によって幻を見せられました。その幻とは、天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて、地上に下りて来る。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。すると声がしました。主の声です。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と。しかし、ペトロは言いました。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」‥‥ユダヤ人には食物規定というものがありました。食物規定とは、穢れた動物や生き物が定められ、それらを食べてはならないというきまりです。旧約聖書の律法に書かれています。だからペトロは子どもの頃からそれを守っていて、食べることはできないと主に答えたのです。すると、主は、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言われました。神が清められた。だからもう穢れたものなどないと神はおっしゃったのです。そしてこのやりとりが3度繰り返されました。3度というのは、それが確実であることを神さまが強調しておられるのです。
すると、ちょうどそこに、コルネリウスが派遣した3人が到着しました。そしてその人たちは、ペトロにこれまでのいきさつを述べました。それでペトロは、翌日、その人たちといっしょに、カイサリアの町のコルネリウスの家に向かいました。コルネリウスの家では、コルネリウスの他に、親類や親しい人たちがおおぜい集まっていました。ペトロの話を聞くために、コルネリウスが呼んできたのです。ペトロが来ると、コルネリウスはひれ伏して迎えました。
ペトロは、ユダヤ人なので、異邦人は穢れているから異邦人の家を訪問することはダメだと教えられて育ちました。異邦人は律法を守っていない。だから穢れた物を食べるし、穢れた物に触れるから穢れている。そういう教えです。しかし、昨日見た幻で、主は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とおっしゃいました。それでここに来たと説明しました。
そこで今度はコルネリウスが、なぜペトロを招いたかを説明しました。つまり、神の天使が現れて、ヤッファにペトロと呼ばれるシモンという人がいるから招きなさいと告げたことを説明しました。するとペトロは言いました。34節「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」
神は人を分け隔てなさらない。ここでペトロが言っているその意味は、神はユダヤ人も異邦人も分け隔てなさらない、同じように扱われることが、今ようやく分かったということです。国の違い、民族の違いなど神さまには関係ない。そのことが、ようやく分かったのです。
そこでペトロは、キリストの救いについて語り始めました。まずイエスさまがなさったことを語りました。この聖書の箇所では縮めて描かれていますが、実際はペトロはイエスさまのなさったこと、おっしゃったことをつぶさに語ったのだと思います。そしてそのイエスさまを、人々が十字架にかけて殺してしまったことを語りました。しかしそのイエスさまを、神がよみがえらせたことを語りました。まさに福音書のストーリーを語ったのだと思います。そしてイエスさまが、最後の審判をなさる方であること、そしてイエスさまを信じる者は誰でも罪の赦しが受けられることを語りました。
43節「また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
聖霊降臨
するとここで聖霊が降ったのです。(44節)"ペトロがこれらのことをなおも話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った。"
コルネリウスと、彼の家に集まっている人たちに聖霊が降りました。そして異言を語り、神を賛美し始めました。異言とは、あの最初のペンテコステの聖霊降臨の時、弟子たちが自分たちが習ったこともない外国語で神をほめたたえたあの言葉です。まさに最初のペンテコステのできごとの再現です。
(45節)"割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。"
割礼を受けている信者とはユダヤ人です。ユダヤ人キリスト者は、異邦人にも聖霊の賜物が与えられたのを見て、大いに驚いた。「大いに驚いた」という言葉は「驚愕した」という意味の言葉です。腰を抜かさんばかりに驚いたんです。聖霊が与えられたと言うことは、救われたということです。ユダヤ人がする割礼も受けていないのに。律法を守っているわけでもないのに。しかし聖霊の賜物は神さまが与えるわけですから、この人たちを神さまが救われたことは疑いようもない。‥‥それで驚愕したのです。異邦人がイエス・キリストを信じただけで救われたということは、それほど驚くべきことだったのです!
そこでペトロは言いました。「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」(47節)。
洗礼は罪が赦されて救われたしるしです。神さまが聖霊を与えられた。すなわち神さまがコルネリウスたちを救った。神さまが救った人たちに、洗礼を授けないわけにはいきません。こうしてこの人たちは洗礼を受け、教会に加わりました。教会が世界に向かって大きく足を踏み出したのです。
これまでも、異邦人も救われることは頭では分かっていました。そもそもイエスさまが天に昇られる前に、弟子たちにおっしゃいました。
(マルコ16:15)「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
ですからユダヤ人だけではなく全世界の人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることはイエスさまに言われていたんです。しかし分かっていても、子どもの頃からずっと割礼を受けて律法と戒律を守らなければ救われないと先祖から教えられてきた。それが染みついて、足かせになっていました。しかし神さまが直接乗り出して、分からせた。神さまは、私たちの考えることの先を行かれます。そして御言葉の通りになさる。私たちが御言葉をなかなか信じられないでいる。しかし神さまは、確かに語られたとおりになさいます。私たちの思いを超えてです。先に行かれるんです。
そして、コルネリウスは、これまでイエスさまのことを知りませんでしたが、真実に神を求めている人でした。求める者には与えられるのです。
罪の赦し
それにしても、罪の赦しが問題であることがあらためて分かります。ペトロの説教の最後のところ、42〜43節をもう一度読んでみます。
「そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
「生きているものと死んだ者との審判者」。最後の審判というものがあるのです。罪がある者は裁きを受ける。そのままでは滅びます。しかし聖書は、人間みな罪人であると説きます。みな罪がある。だから、みな滅びるしかない。人間には自分の罪をつぐなうことができない。それぐらい大きな罪がある。けれども、イエスさまを信じる者は誰でも罪の赦しが与えられる。イエスさまを信じる者は救われるんです。ここです。
コルネリウスに起こった出来事は劇的なできごとです。しかしそのように目を見張るような劇的なことが起きたか、起きなかったかということが問題なのではありません。そういう劇的な奇跡は私には起きなかった、という人もいるかもしれません。「ああ、もっと目が覚めるような奇跡を体験したかった」という人がいるかもしれません。
しかしそういうことが問題なのではありません。イエスさまを信じる、ということが大切なのです。なぜなら信じる者は誰でも罪が赦されると言われているからです。罪が赦されるとは、救われるということです。罪人である自分が、イエスさまを信じることによって救われる。このことが奇跡なのです。ひとりひとりに奇跡が起きているのです。今イエスさまを信じるのであれば、それは奇跡が起こっているのです。
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