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2026年5月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記20章4〜6
マタイによる福音書4章8〜11
●説教 「天地無用(十戒2)」小宮山剛牧師
神が直接語られた十戒
毎月第2主日のこの礼拝では「十戒」を読み始めています。この「十戒」は、主なる神がモーセに語った言葉です。
聖書には預言者がたくさん登場しますし、それらの預言者は神さまの言葉を聞いた人たちです。しかしその中でもモーセは特別だと言えます。出エジプト記33:11に次のように書かれています。「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」‥‥これは神さまの顔を見ることができたということではなくて、面と向かってというほどに親しく、まさにそこに神さまご自身がおられることが分かるような形で、神さまが語って下さったということだと思います。
主なる神さまは、そのようにしてこの十戒をはじめとした言葉をお語りになりました。そして十戒は、単にイスラエルの民だけに語られたのではなく、神を信じようとする人すべてに対して語られたものです。しかもそれは神が私たちを愛するがゆえに語られた言葉です。きょうは「母の日」ですが、我が子を愛する親ならば、我が子がどう育ってもよいとは思いません。善悪をきちんとわきまえる子に育ってほしいと思うでしょう。そういう親心にも似た神の愛から出た教えが十戒です。
第2戒と第1戒
さて、本日は十戒の第二戒となります。「あなたはいかなる像も造ってはならない」と冒頭に書かれていることから、この第二戒は偶像礼拝の禁止と言われています。ここで「像」というのは、人間が造った、あるいは彫刻した像のことですが、何か芸術として像を造ることを禁止しているわけではありません。5節に「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と言われているように、人間がそれを神として拝むための像を造ることを禁止しています。
そうすると、先に学びました第一戒との違いはどこにあるのでしょうか?第一戒は次のようになっていました。
(3節)「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
これは、聖書に記されている天地万物の創造主である神だけを神として拝みなさい、ということです。そうすると、本日の第二戒の偶像礼拝の禁止は、偶像は真の神ではないわけですから、結局第一戒と同じことを言っているようにも聞こえます。第一戒と第二戒はどこが違うのか?そのように思えるかもしれません。
しかし実は違いがあるのです。それは第一戒は、この世の中に「神」と呼ばれるものは数多くあるけれども、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われています。つまり、あなたは聖書に証しされている天地創造の神だけを拝みなさいと。そして第二戒のほうは、何かほかの神々のことを言っているというよりも、真の神である主を、彫刻された像のように形にしてはならない、と言われているのです。もう少していねいに言うと、この第二戒は、@私たちの神を形にしてはならない、ということ。A自分で神のイメージを勝手に作ってはならない、ということの二つが言われているのです。
@神を形にしてはならない
ヨーロッパの国々に行きますと、驚くことのうちの一つに、町の中のあちこちに英雄の像が建っているということが挙げられると思います。国王の像だとか、戦争に勝利をもたらした英雄の像とか、著名な人の像であるとか、街角のあちこちに建っています。これは日本ではあまり見かけない景色です。ヨーロッパの大半はキリスト教国であり、十戒を知っているはずなのに、そのような像がたくさん建っている。これは不思議に思えます。しかし、先ほど申し上げたように、十戒の第二戒は拝むための像を造ることを禁じていますので、問題ないということになります。
本日の偶像の禁止の戒めは、拝むための像を造ることを禁じています。それはイスラエルの礼拝所であった幕屋を見れば分かります。ただいま読んでおります出エジプト記では、後半で、神さまがモーセに命じて幕屋を造らせます。その幕屋の本体の中は二つに分かれていて、手前が聖所、そして垂れ幕の奥が至聖所と言われ、幕屋の中で最も神聖な場所です。神社で言えば拝殿と本殿のうちの本殿にあたります。それはもっとも神聖な場所であり、一般の人は入ることができず、人々の代表として大祭司だけが入ることのできる場所です。そしてその至聖所には、もっとも神聖な聖具である、契約の箱が安置されていました。その契約の箱の中には「十戒」が刻まれた2枚の石の板が納められていました。そしてその契約の箱の上が贖いの座と呼ばれ、金で覆われたケルビムという天使の像が2体、向き合って置かれました。これは人間が勝手に作って置いたのではなく、神さまご自身がそのようにするように命じられたのです。偶像を禁止された神さまが、もっとも神聖な場所に、金のケルビムの像を造って置くようにおっしゃったのです。不思議な感じがしますが、その像は神さまを証しするものであって、その像自体を拝むのではないんです。そして神さまは、その二つのケルビムの像の間から、大祭司にお会いになるということがこの出エジプト記の25章22節で書かれています。
ケルビムの像からではなく、その間の空間ですね。何もない空間からです。空間には形がありません。新約聖書でも、次のように書かれています。
「いまだかつて、神を見た者はいない」(ヨハネ福音書 1:18)
「人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」(1テモテ6:16)
その神さまを像という形にしてはならない。このことをプロテスタント教会はかなり厳密に考えています。ローマ・カトリック教会では、教会にイエスさまの彫像やマリア様の彫像がありますが、プロテスタント教会の中にはそれがないというのも、この戒めを厳密に考えているからです。
A神のイメージを勝手に作ってはならない
さて、第二戒は、私たちの神を、目に見える彫刻の像で作ってはならないということだけを言っているのではありません。4節は、私たちが使っている新共同訳聖書では「あなたはいかなる像も造ってはならない」と日本語に訳されていますが、以前の口語訳聖書では「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」となっています。つまり「自分のために」という言葉が本当は入っているんです。
自分のために。これは言い換えると、自分好みの像、イメージを作ってはならないということです。それは、私たちの神さまについて、彫刻という目に見える像を造ってはならないということだけではありません。私たちの神さまのイメージを勝手に作ってはならないということでもあるのです。もっと分かりやすく言えば、自分好みの神さまを考え出してはならないということです。
たとえば、世界では戦争が絶えることはありませんが、その中でキリスト教国と言われる国同士が戦争をしていることがあります。どうしてキリスト教徒同士が戦争をするのか?イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)とおっしゃいました。なのになぜ戦争になるのか?敵どころか、本来は兄弟であるはずなのにです。‥‥その理由の中の一つには、やはり神さまを自分好みの神さまにしてしまっているということがあるのではないか。ちゃんとみことばを聞いていない。
旧約聖書のサムエル記上4章に書かれていることですが、あるときイスラエルが隣の国のペリシテ人と戦争になりました。ペリシテ人は海洋民族で、強い戦力を持っていました。それでイスラエルの人々は、先ほど述べたもっとも神聖な神の契約の箱を戦場に持ち出しました。その箱の中には十戒が刻まれた石の板が納められていました。ですからこれは神さまがおられることを証しする箱でした。イスラエルは、ただではペリシテ人に勝てそうもないので、この契約の箱を持ち出したのです。彼らは神さまを持ち出したつもりでした。そうすれば勝てると思ったのです。利用したのです。ところが結果はペリシテ人が勝利し、イスラエルは惨敗し、多くの兵士が倒されました。そしてあろうことか、その契約の箱が奪われてしまったのでした。
何が間違っていたのでしょうか?‥‥彼らは神さまの御心を聞こうとしませんでした。そして、自分たちを戦争に勝たせてもらうという目的のために担ぎ出しました。神さまが何をおっしゃるのかを聞こうともせずに、勝手に神の箱を担ぎ出したのです。これはまさに私たちの創造主である神さまを、見ることも聞くことも動くこともできない偶像のように扱ったということになります。
御言葉の神
聖書に証しされている真の神さまの特徴は、みことばを語る神です。何も語ることのできない偶像の神ではないんです。聖書を通して、また預言者を通して語られる神です。この十戒のように、私たちを教えられる神です。私たちはその神の言葉に聴くことが求められているんです。その神さまがきょうの4節で「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」とおっしゃいました。この世の中にあるものを神として作ってはならないとおっしゃいました。
人間は神さまのことが分かりませんから、この世にあるものを用いて神さまを作ろうとします。想像します。イメージします。「神さまはこうしてくれるはずだ」「神さまならば、この私の願い通りにしてくれるはずだ」「憎い相手をやっつけてくれる方だ」‥‥などと勝手に想像します。そうやって勝手に神さまをイメージします。神さまのお考えを聞くこともなく、自分好みの神さまを作り上げます。
しかし聖書に証しされている真の神さまは、私たちに語られる神さまです。みことばの神です。「神はこうしてくれるはずだ」という私たちの範疇に収まらない神。ですから、神の言葉に聴く、ということがなければならないのです。
旧約聖書のヨブ記を思い出してください。ヨブは神さまを信じ、従ってきた人でした。ところがそのヨブにたいへんな試練が襲います。すべての財産が失われ、子どもたちも皆死んでしまいます。さらに自分の健康も失い、妻からも神を呪って死になさいと言われる始末です。すべてを失ったヨブ。なぜ神を信じてきた自分がこのような目に遭わなければならないのか?‥‥この疑問がヨブを苦しめました。
遠方から友だち3人がヨブを慰めるためにやってきました。しかしその友だちも、ヨブが何か神さまに対して罪を犯したからこんな不幸が臨んだのだということを言うばかり。ヨブの気持ちを理解しない。それどころか傷に塩を塗るようなことばかり言う。ますますヨブを苦しめることとなります。
ヨブは神さまが分からなくなります。この神さまが「分からない」というところ。つまり、本当の神さまは、私たちの手のひらに収まるような方ではないのです。しかし、感謝すべきことには、神は愛です。ヨブを放置していたわけではありませんでした。苦悩の果てに、神は言葉をもってヨブの前に現れます。姿はありません。みことばです。それはヨブに苦難の答えを与える言葉ではありませんでした。しかしヨブは神の言葉を聞くことができて、納得しました。言葉を通して神に出会い、納得したのです。そして神さまは、祝福を返してくださいました。失ったものを与えてくださり、ヨブの終わりを始めよりも祝福してくださいました。神が愛であることを示されました。
そのように、人間は神さまを捕らえきることはできません。神さまのことが全部分かるのではありません。神は永遠であり無限であるのに対して、人間は有限だからです。しかしその神さまは、愛をもって言葉を語られる。そのみことばを聞いて、神に従って歩んで行くところに祝福があると聖書は語ります。プロテスタント教会の礼拝堂が殺風景なのは、みことばに目を向けさせるためです。
5節6節で主はこう言われます。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及び慈しみを与える。」‥‥これは主なる神さまを否定する者には、三代先、四代先まで罪の罰を与えるという意味ではありません。慈しみは千代先までと言われていますから、罰よりも赦し、呪いよりも祝福のほうがまさっているということです。
私たちが勝手に神を作り上げるのではありません。神さまが私たちを導かれるのです。神の形と言われるイエスさまを通して導かれるのです。そうして神の深い愛を一つ一つ知っていくのです。そのように私たちが歩んで行くことを、私たちの神さまは願っておられます。
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