2026年5月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩篇2編7〜12
    マルコによる福音書1章9〜13
●説教 「見えるもの見えないもの」小宮山剛牧師
 
 福音書とは、イエスさまの地上における歩みの記録です。分かりやすくいえば、イエス・キリストの歩みの記録です。なぜ私たちは礼拝でイエス・キリストのできごとを読むのか?‥‥それはなにか昔話を読むということではありません。あるいは歴史を学ぶということでもありません。私たちが福音書を読むのは、今生きておられ、私たちと共に歩んでくださるイエスさまという方が、どういう方なのかを知ることにあります。そしてまさにこの場で、御言葉と聖霊を通して、生きておられるイエスさまと出会うために読んでいます。そういう生き生きとした現実のできごとが起きる。新約聖書のヘブライ人への手紙に、次のように書かれています。
(ヘブライ 13:8)"イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。"
 福音書の中のイエスさまは、今も同じであるということです。また、福音書の「福音」という言葉は、喜ばしい知らせという意味です。主イエスと共に歩む、喜ばしい知らせの中に生きるために読むということでもあります。
 
   イエスの受洗
 
 きょうの聖書箇所でイエスさまが登場します。「ガリラヤのナザレから来て」と書かれています。ガリラヤ地方のナザレの村、そこはイエスさまが育ち、ご家族と共に暮らしていた村です。母や兄弟たちの暮らす村を出て、まずヨルダン川で洗礼を授けていた、洗礼者ヨハネの所に来られました。
 ヨルダン川。それはイスラエルの地を北から南に流れる川です。乾燥した土地が多い中で、豊かな水をたたえています。以前、聖地に行きました時、このヨルダン川で洗礼を授けている光景を見ました。川の中に浸かって、聖職者も洗礼志願者も白い服を着て洗礼が授けられていました。そのように、わざわざイスラエルまで来て洗礼を受ける人がけっこういるのだそうです。どうせ洗礼を受けるのなら、イエスさまが洗礼を受けられたのと同じヨルダン川で受けたい、ということでしょうか。しかし申し上げておきますと、洗礼というものはどこで授かったとしても、また誰から授かったとしても、また形式が全身水に浸かろうが、水を垂らされただけであろうが、少しもその効力は変わることがありません。なぜなら洗礼の効力は、聖霊を受けることにあるからです。洗礼を授ける牧師や水は、そのために用いられる器に過ぎません。
 イエスさまが、世の中の人々に対して神の国の福音を宣べ伝え始める前に、まず洗礼を受けられた。このことが大切なことです。前回の洗礼者ヨハネのことについて書かれていた時、その洗礼について「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」(4節)と書かれていました。
 そうしますと、皆さん思われるのではないでしょうか。イエスさまがその洗礼を受けられたということは、イエスさまには罪があったのか?というふうに。神の子でありながら、人の子としてマリアからお生まれになったイエスさま。そして聖書は人間みな罪人であると書いています。するとイエスさまにもやはり罪があったのか、だから洗礼を受けられたのでしょうか?
 このことについて論じますと全く時間が足りなくなりますので、教会の長い歴史の中で議論されてきた結論だけ申し上げますと、イエスさまだけは罪がなかった、ということです。だからこそ、私たちの罪を代わりに担うことがおできになったのです。しかしイエスさまが罪人ではないとしたら、私たち人間とは違うのではないかという問題が生じます。このことについては、イエスさまは、全く神の子であると同時に全く人でもあるということになります。すなわち、神の子である方が、罪人であるわたしたちの性質も気持ちも十分お分かりになっているということです。
 そしてなによりも、イエスさまは私たちと同じ罪人の一人として歩まれる。それが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたということです。
 
   天が裂けて聖霊
 
 そしてイエスさまが洗礼を受けられて、ヨルダン川の水から上がられるとすぐに、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった(10節)と書かれています。
 天が裂けるというのは、荒々しい表現です。それは真っ二つに裂ける、割れるという意味のギリシャ語です。なにか神が長い間の沈黙を破って、ここで突如として、しかも強烈に姿を現されたように感じます。そして霊が、すなわち聖霊が鳩のように降ってくるのをイエスさまはごらんになった。聖霊は天の父なる神さまのもとから来るはずですから、激しく天が裂けて神の国が隙間から姿を現し、そこから聖霊がイエスさまに降ってこられた。これはたいへん興味深いことです。
 よく、昔の人たちは天国というのは雲の上のほうにあると考えていた、ということを言われます。また、ともすると私たちも、天国とか神の国というのは、死んでから行く、遠くにある場所というふうに思ってしまうことがあります。しかし少なくとも聖書はそうは書いていないことが分かります。天が裂けるということは、遠くから聖霊が来られたのではない。すぐ近くの空間が裂けて、そこから聖霊が降ってこられた。これは天国が雲の上の空のかなたにあるのではなく、次元が異なる世界として、すぐ隣にあるということを表していると思います。イエスさまはおっしゃいました。
(ルカ 17:21)「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」私たちのすぐそばにある。
 聖霊が鳩のように降った。このことから、本来は目に見ることができない聖霊が、鳩の姿でイメージして語られる理由となっています。ただ鳩の姿をしていたとは書かれていません。「鳩のように」です。鳩はこの教会の近所にもいますが、鳩が舞い降りてくる姿は独特ですね。羽をばたつかせる音をさせながら、ゆっくりと降りて来ます。天が激しく二つに裂けるようにして現れながら、そこから鳩が降りるようにゆっくりとイエスさまに聖霊が降りて来た。
 そして天から声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)
 神の声です。イエスさまがヨハネから洗礼を受けられて、私たちと同じ罪人の一人として歩み始められたこと。そして私たちを救うために歩まれるという、神の御心にかなう歩みを始められたイエスさま。そのイエスさまに対して聖霊を与えられ、イエスさまは神の定めた道を歩み始められたのです。
 私たちが受ける洗礼は、ヨハネの洗礼ではなくイエスさまの洗礼です。そしてヨハネは、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(8節)といいました。ですから私たちも洗礼も、悔い改めて罪を赦していただくだけではなく、聖霊を受けるものとなったのです。
 
   荒れ野
 
 さて、洗礼を受けられたイエスさまは、次にいよいよ世の中に出ていって伝道を始められたかと言えば、そうではありませんでした。12節に「それから、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した」と書かれています。イエスさまに宿られた聖霊は、イエスさまを荒れ野に連れて行ったのです。実は12節には省略されていますが、原文のギリシャ語では「それからすぐに」という言葉が入っています。すなわち、洗礼を受けられたあとすぐに宣教活動をされたのではなく、聖霊なる神はイエスさまをすぐに荒れ野へ連れて行ったのです。つまりこのことは、イエスさまが世の中に福音を宣べ伝える前に、荒れ野に行く必要があったということです。
 荒れ野という場所は日本にはありません。雨がほとんど降らず、人も住んでいない、草木も茂らない、荒涼とした場所、殺伐とした世界です。旧約聖書では、しばしば荒廃のシンボルとして描かれます。水もないし食べるものもない。激しく乾く場所です。
 しかし考えてみれば、私たちの生きているこの世の中も、荒れ野のようではないでしょうか。時々そのように思うことがあります。たしかに多くの人が住んでいるし、にぎやかでもある。しかしこの人間社会で生きて行くと、しばしば魂が激しく渇くことがあります。まるで荒れ野にいるように、孤独を感じることがあります。神さまは、神の国の福音を宣べ伝える前に、イエスさまを荒れ野へと導かれた。そしてそこで実に40日間も過ごされました。
 これは今日伝道者になる時も同じようなことがあります。献身して伝道者になるためには、神学校に行きます。そして、これは私が神学生の時に言われたことですが、「神学校は荒れ野だ」とよく言われました。これは神学校が殺伐としているという意味ではありません。神学生としての生活がそうだという意味です。いっけん伝道とは関係のないように見える神学の学び。ときにつまずきそうになる。そして神学生の訓練としての多くの奉仕。一方で収入もアルバイト以外あまりないギリギリの生活。私もしばしば、生活の危機を迎えました。だれが養ってくれるのか?‥‥しかしそれをただ神にのみ訴え、祈り、期待する。中には途中でやめてしまう神学生もいました。ときにささやくような思いが浮かんでくる。「それでもあなたは伝道者の道を歩むのか?」「本当に荒れ野で生ける神を見いだせるのか?」
 こんなことを言うと、伝道者になるために献身するのをやめようと思う人もいるかも知れませんが、念のために申し上げておくと、それは同時に神さまの助けをもっとも良く体験できる時でもありました。その奇跡をよく見ることができる時でした。それが何ものにも代えがたい喜びでした。
 
   誘惑
 
 荒れ野に導かれたイエスさま。イエスさまはそこに40日間もとどまり、サタンから誘惑を受けられたと書かれています。
 イエスさまが誘惑を受けられたと聞くと、「イエスさまでも誘惑されるのか?」と思う方がおられますが、この誘惑というのは、いわゆるこの世の誘惑とは違います。聖書で言う誘惑というのは、神さまを信じられないようにしようとするサタンの試みのことです。サタンは霊的な存在です。だから目に見えません。そしてサタンという言葉は、第一には「敵対するもの」という意味です。神さまに敵対するんです。しかしサタンは、神さまに敵対しても無駄なことは分かっているんです。神さまが圧倒的に全能者であることをよく知っているからです。ですからサタンは、神さまではなく、神さまを信じる者をつまずかせようとします。神を信じ、神に従うことをやめさせようとする。旧約聖書のヨブ記がそれをよく描いています。
 ここでサタンはイエスさまが父なる神さまに従っていくことを曲げようとしたのです。このできごとは、マタイ福音書とルカ福音書にも書かれていて、そちらではサタンがイエスさまに三つの誘惑の言葉を語ったことが書かれています。しかしこのマルコ福音書では、サタンが何を言ったかは何も書かれていません。ただサタンがイエスさまを誘惑しようとしたことが書かれているだけです。
 じりじりと日が照りつける、荒涼とした荒れ野。そこには野獣もいた。危険があったのです。他に誰もいない。マタイとルカの福音書では、40日間断食されたと書かれています。断食して、ただ神に祈る。食べ物はない。そういう極限の状態にいるときに、サタンが神に従うことをやめさせようとしてきた。
 私たちも、まるで荒れ野の中にいるかのような状態に追い込まれるときがあります。誰も助けることができないように思えるときがあります。孤独を経験します。
 しかしマルコは書きます。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節)。天使もまた霊的な存在です。通常は見えません。そして天使とは、神の使いです。聖書を読んでいると、天の父なる神さまが直接現れるということはめったにありません。しかし代わりに天使、すなわち御使いを送られます。イエスさまは内側には聖霊を宿され、外からは天使が助けていた。
 このことはイエスさまを信じる者にも言えることです。イエスさまを信じて洗礼を受けて聖霊をいただく。そして荒れ野の中を行くようなときも、野獣のような危険が同時にあるときも、目には見えないけれども、神が天使を遣わしてサポートしてくださる。励ましを与えてくださる。天使のおもな役割は、神さまのメッセージを伝えることです。私たちにとっては、聖書の言葉を思い出すように助けてくれる。その聖書の神の言葉が力を持って助けてくれるのです。
 今週も主と共に歩む日々でありますように。


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