|
2026年4月19日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編32編5
マルコによる福音書1章1〜8
●説教 「幕開け」
はじめ
本日から毎月第1、第3、そして第5日曜日があるときは第5日曜日にも、マルコによる福音書をとおして神さまの恵みを分かちあいたいと思います。
マルコによる福音書の書き出しは、こうなっています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。日本語ではこのようになっていますが、原文のギリシャ語では「はじめ」という単語がはじめにきています。つまり「はじめ」という言葉で始まっています。
聖書には、ほかにも「はじめ」という単語で始まる書物があります。それは全聖書のはじめである創世記です。創世記は、「初めに神は天地を創造された」という言葉で始まっています。ちなみにヨハネによる福音書も「初めに言があった」という記述で始まっていますが、ヨハネによる福音書は創世記が語り始める天地創造のことについて、その奥義について述べているわけですから、やはり創世記と同じ天地創造のことを語っています。そして、その天地創造から、かなりの時間が経過してイエス・キリストのできごとを書き始めるマルコによる福音書もまた「はじめ」という言葉で始まっている。
なぜそのように、聖書に二つの「はじめ」が存在するのか? 神は創世記に書かれている最初の「はじめ」で、極めて良い世界をお造りになったのではなかったのか? では二番目の「はじめ」、つまりマルコによる福音書の「はじめ」はなんなのか? その最初の「はじめ」と二番目の「はじめ」の間に何があったのか?
最初の「はじめ」によって神がお造りになった極めて良い世界が、悪くなった、そのいきさつを創世記は同時に書きます。それは創世記第3章に書き記されています。それは人間の罪によるのだと書きます。その罪とは、何か犯罪を犯したということではなく、人間に入り込んだ根本の罪を描きます。神を信じなくなったことによって入り込んだ罪であり、悪です。造り主である神と、造られた自分を等しいものにした罪です。命の源である神から離れたので、命を失いました。死が入り込みました。そして人間の社会は、ソドムとゴモラの町に見られるように悪が増幅されていきました。
現在も、その延長線上にあります。各地で勃発する戦争、内戦、民族対立。弱肉強食の世の中。身近には、憎しみ、誹謗中傷、いじめ、貧困、暴力、犯罪、そして人間不信。「神がいるのなら、なぜこんな世の中なのか?」という問いが発せられることがあります。しかしそれらのものは神が起こしたものではありません。人間の罪から生じたものです。神を信じない、従おうとしない、愛を失った世界です。神の意図したところとは、正反対の世の中です。
ではなぜ神は、すべてを破壊し、消滅させて、もう一度世界を最初から作り直すことをされなかったのか?
マルコによる福音書が書き始める「はじめ」は、人間社会を滅ぼして消滅するところから始めるのではなく、まさにこの罪の世の中で新たに「はじめ」られる。それが「神の子イエス・キリストの福音」であると語っています。
私たち自身に通じる
このことはこの世の中だけではなく、私たち一人一人にも通じることに違いありません。私たちは、生まれた時は赤ん坊です。イエスさまはおさなごを指しておっしゃいました。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)。神を無垢に信じて受け入れるおさなご。それは、神の国の住人だと言われました。
しかしそのおさなごも、この人間の世の中を生きて行く、すなわちまさに人間の罪の世の中を歩んで行くことになります。そして神への素直さを失い、離れ、悪くなっていく。そういう環境の中で育つから当然です。
しかし神は、その私たちをそのまま裁いて滅ぼすのではなく、やり直す道、生まれかわる道を用意してくださっている。創世記の記す最初の「はじめ」が私たちが生まれた時であるとすれば、第二の「はじめ」は私たちがイエスさまと出会ったときであると言えます。
預言
聖書のできごとはすべて言葉から始まります。創世記の最初、神は光をお造りになりました。神が「光あれ」とおっしゃった。すると光が生まれました。そのように神はすべてのものを言葉によってお造りになりました。
また神は御使いや預言者を通して言葉を語られました。まず神のメッセージ、預言という言葉が語られ、そしてその通りになるという順序です。まず言葉が語られたんです。イエスさまの復活の時もそうでした。いきなりイエスさまの復活がなされるのではなく、天使が神のメッセージを語り、それから復活のイエスさまが実際に現れました。そのように神のメッセージ、言葉がまず告げられます。
このことは、神の言葉がどんなに真実であるか、大切であるかということを私たちに教えています。人間の言葉は確実なものではありません。しかし神の言葉は確実であることを教えています。私たちは神の言葉、聖書を通して語られる神の言葉を、本当にそのようなものとして聞こうとしているでしょうか。
バプテスマのヨハネ
そうしてマルコは、洗礼者ヨハネが活動を開始したできごとから書き始めます。ちなみにマタイやルカの福音書は、イエスさまの誕生にまつわるできごとから書き始めますが、マルコはそれを省略します。そして、いきなりイエスさまが世に出て神の国の福音を宣べ伝え始める。それに関することから書き始めます。
ちなみに、その前に洗礼者ヨハネのことに触れるのは、新約聖書の4つの福音書すべてに共通しています。これも洗礼者ヨハネという人が、イエスさまのことを言葉によって証ししたということを重んじているんです。そしてその洗礼者ヨハネ自身が、旧約聖書の預言者が預言していたことの成就であると述べています。ここでも神の言葉がまず挙げられ、そしてそれがその通りなったと述べています。神の言葉が確実であることを証言しているんです。
2節で、「預言者イザヤの書にこう書いてある」と述べます。この引用文、最初の2行「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」は、実はイザヤ書ではなく、旧約聖書最後の預言書であるマラキ書の3章1節の言葉です。マラキ書も予言しているイザヤ書の言葉、という意味でしょう。そして続く3節の言葉「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」これはイザヤ書40章3節の言葉です。そしてその予言の通り現れたのが、洗礼者ヨハネであったと言っているんです。預言者を通して語られた神の言葉は、たしかに実現したと。
私たちも聖書を通して神の言葉を聞いています。その神の言葉は確かなものだ、期待して良い、信じて良いものであると語りかけています。
洗礼者ヨハネは、荒れ野に現れて、罪の赦しを得させる悔い改めのバブテスマ(洗礼)を授け始めたといいます。なお、新共同訳聖書には「洗礼」と書いてふりがなに〔〕をした上で「バプテスマ」と振っていますが、なぜこういう書き方をしているかと申しますと、プロテスタントの教派の中には「洗礼」とは言わない教派があるからです。バプテスト派などですが、「浸礼」と言ったり「バプテスマ」と言ったりします。それで「洗礼(せんれい)」と読んでもいいですよ、「バプテスマ」と読んでもいいですよ、と言うことでそういう表記になっているんです。
さて、洗礼者ヨハネの姿は、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていたと言いいます。これは旧約聖書の有名な預言者、エリヤをほうふつとさせる姿です。野人のような、もう神の言葉を告げることだけに徹しているような姿です。この世の地位も名誉も富も、まったく無関係で、ただ神の言葉を告げるためだけに生きている。そして自分の後から来る方、すなわちイエスさまを指し示す。それだけに生きている。そういう人が本当に現れたのです。神さまが用いたのです。
それは「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」という旧約聖書の予言の成就だという。
ヨハネはイエスさまの名前を出さずに、「私よりもすぐれた方があとから来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」(7節)と語りました。それはイエスさまのことを指していました。救い主キリストが来るための準備をするためにヨハネは悔い改めのバプテスマを授けているんです。
この時代のローマ帝国ではローマの偉い役人が来る前には、先触れの人が来て人々にそのことを告知しました。そして準備をさせました。
私が小学生のころ、天皇陛下が町に来られて国道をお通りになるということで、国旗を手に持って歓迎のために国道沿いに並ぶように事前に指示がなされました。それと同じように、ローマ帝国内では、ローマの高官が来るときにはあらかじめ告知する人が来て、準備をさせました。
ましてや、メシア、キリスト、救い主、神の子が来られるためにはどうやって準備すれば良いのか?‥‥国旗を振ることか? 洗濯物を取り込んでおくことか?‥‥
神さまがヨハネに準備させたのは、悔い改めのバプテスマでした。バプテスマは、その人の罪を水で洗い流すしるしです。ですから、悔い改める、ということが救い主キリストをお迎えする準備であったのです。
荒れ野での悔い改め
人間、なかなか悔い改めるということをしないものです。悪いのは世の中であり、他の人たちであり、自分は悪くないと思うのがふつうです。だから悔い改めません。悔い改めるというのは、聖書では、自分には救いが必要だと気がつくことです。そして神さまを求めること、救いを求めることです。
ヨハネが悔い改めの洗礼を始めたころ、その地方の人々は続々と荒れ野で活動しているヨハネのもとに来て、洗礼を受けたと書かれています。人々の心が飢え渇いていたんです。そういう時が来たのです。
日本でも、そういう時が来たことがありました。逗子教会が建てられたころがそうです。終戦後、多くの人々が救いの道を求め始めました。自分たちが教えられてきたことが間違っていた。戦争に負けたことによって、そのことが分かった。すると何を頼りに生きていっていいのか分からなくなった。そうして教会の門を叩いた人がおおぜいいました。荒れ野の中をさまよって、魂が飢え渇いた状態になっていたのです。
今はどうでしょうか?‥‥今もこの世の中は荒れ野のような状態ではないでしょうか。洗礼者ヨハネの声は現在も聖書を通して語りかけています。
そしてヨハネは言いました。「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
洗礼というギリシャ語は、浸すという意味があります。ヨハネよりあとに来る方、すなわちイエス・キリストは、聖霊で浸される。聖霊は神の霊です。神が共にいて下さるようにして下さる。どっぷりと神のものにして下さる。主とともに歩む、全く新しい歩みです。悔い改めて主イエスのもとに来るように、私たちも招かれています。
|