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2026年4月12日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 出エジプト記20章1〜3
ヨハネの黙示録22章1〜5
●説教 「十戒の神」
説教予定
ヨハネによる福音書の連続講解説教が受難週前に終わりました。そしてこれからは、毎月第1と第3と第5主日が福音書、第2主日に旧約聖書、第4主日が使徒書、というローテーションで読んでいきたいと思います。そして福音書はマルコによる福音書、旧約聖書は主エジプト記の「十戒」、使徒書はコリントの信徒への第一の手紙を読んで、恵みを分かち合いたいと思います。
そういうわけで、本日は旧約聖書の出エジプト記の20章に書かれています、いわゆる「十戒」に入ります。
十戒について
なぜ「十戒」かと言いますと、キリスト教会の三要文(さんようもん)のうち、まだ十戒だけこの礼拝で扱っていないからです。三要文とは「使徒信条」と「主の祈り」と「十戒」のことです。これは教会がたいせつにしてきた文章なので、三要文と言っています。ちょうど今年度はCSでも三要文を扱っています。
このうち「十戒」は旧約聖書の中の言葉です。そしてこれはイスラエルの民に対して語られた神の戒めです。なのに、どうしてキリスト教会が大事にするのか?‥‥それは、この教えが道徳と律法の土台になっているからです。
十戒はヘブライ語では「十の言葉」となっています。それが旧約聖書の律法の中でも根幹であり、大切なものだということは聖書を見ても分かります。まずこれはこの出エジプト記の中に書かれていることでもありますが、この十の言葉=十戒は、2枚の石の板に神さまが直接文字を刻まれました。そのようなものは他にありません。そしてその十戒が刻まれた石の板は、イスラエルの民の最も神聖なものである神の箱(契約の箱)の中に収められました。そういう意味でこの十戒は特別なものであることがわかります。
さらに十戒の教えは、イエスさまもしばしば引用されています。つまり「十戒」は、単にイスラエルの民に対して語られた教えではなく、その後イエスさまを通して誕生した神の民、すなわち教会の民に対しても語られているのです。さらにこれは教会にとどまらず、人類すべてが守るべき普遍的な教えであるからです。
そういうわけで、教会はこの十戒を使徒信条、主の祈りと共にたいせつにしてきました。この主の言葉に耳を傾けていきたいと思います。
第一戒
さっそく今日はその十戒の第一戒から恵みを得たいと思います。1節を見ますと、主なる神が直接これらの言葉を語られたと書かれています。2節の言葉は前書きのようなものです。そして3節が最初の戒めとなります。すなわち第一戒です。
その第一戒を説明する前に、十戒の数え方に触れておきます。というのは、十の言葉とは、この出エジプト記20章の中のどれとどれを指すのか?ということです。そしてその数え方が、教派によって若干の違いがあるんです。今回のこの説教では、東方教会、聖公会、そしてルーテル教会を除くプロテスタント教会の数え方で進めていきたいと思います。ちなみにローマ・カトリック教会とルーテル教会では、3節だけではなく4節も第一戒に含めています。しかし内容的には、どう数えようともあまり違いはありません。
あなたの神(2節)
さて、先ほど2節は前書きのようなものだと申し上げました。主なる神が十戒を語られる前におっしゃった言葉です。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
そのように主はイスラエルの民に対して言われました。皆さん、十戒と聞きますと、なにか厳しい戒律を課すという印象を受けないでしょうか。お前たちはこれを守れ、でないと罰を与えるぞ、と脅かされているように思うかもしれません。そして新約聖書に出てくるファリサイ派のように、掟にがんじがらめに縛られて生きるようなことを想像するかもしれません。
しかし十戒はそういったものではありません。この二節の主の言葉をよく御覧下さい。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
あなたを奴隷の家から導き出した、と主はおっしゃっています。まず主が、イスラエルの民を奴隷から解放されたことを語っておられるんです。自由を与えてくださったんです。いきなり戒めが与えられているのではありません。まず神さまの恵みを思い起こすようにおっしゃっているんです。恵みが先行しているんです。
そこで、ここに至るまでのイスラエルの歩みを簡単に振り返ってみます。
かつてイスラエルは、エジプトの国に移住しました。そしてそこでイスラエルの民は増えました。そうするとエジプトの王ファラオが、イスラエルの民を迫害し、奴隷にしました。そこに、主なる神がイスラエルの指導者とっしてお立てになったのがモーセでした。モーセはファラオに対して、イスラエルの民を解放するよう要求しました。しかしファラオは聞き入れません。それで主なる神は、モーセの杖を通して10の災いをエジプトに与えました。それで最後にはファラオが音を上げて、イスラエルの民の出国を許しました。ところがファラオはイスラエルという奴隷労働力が惜しくなり、取り戻そうとして軍隊を率いて追いかけてきました。イスラエルの民は、前は海、後ろからはエジプトの軍隊という絶体絶命の危機に直面しました。そのとき主はモーセに杖を海の上に差し伸べるように命じられました。そうすると海が二つに分かれ、イスラエルの民は海の中に表れた乾いた道を通って、対岸に渡っていくことができました。あとを追ったファラオの軍隊は、海の水がもとに戻って海中に没しました。
そして主なる神は人々を導いて、シナイ半島のシナイ山の麓まで連れて来ました。そして今、この十戒を与えられたのです。そしておっしゃったのがこの2節の言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
そのように主なる神が、恵みによって奴隷から解放してくださった。そして神の民とされる。そのように救ってくださった神の恵みが先にあるのです。だからその主の言葉を聞きなさい、という順序です。
しかしこのことはイスラエルの民に対してだけ関係あることではありません。私たちにも同じことが言えるんです。私たちは奴隷になっていませんでしたか?‥‥私たちもかつては奴隷になっていたはずです。気がつかないうちに。罪の奴隷になっていたはずです。しかしイエスさまによって、その奴隷状態から救われたんです。ですからこの2節の言葉の「エジプトの国」というのを、「罪」と置き換えると、私たちに対しても語られているものとして読むことができます。すなわち、主は言われます。「あなたはわたしが救ったのだ! わたしがあなたを救った神だ」と。
したがって、十戒は、救ってくださった神さまが、救われた我々に対して、愛をもってていねいに語られる教えです。祝福の道を教える言葉です。
人間には戒めは必要ではないのか?
3節では、最初の教えの言葉を語っておられます。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
すなわち、ただ主なる神だけを神とせよと言われます。それが最初の戒めです。
さて、ここで考えてみたいのは、戒めというものなど人間を束縛するだけではないかと考える人が多いのではないでしょうか。自分の人生なんだから、自分の生きたいように生き、やりたいようにする。戒めなど与えられて束縛されるのはごめんだ、と考える人が多いのではないか。たしかに法律という国家の定めたルールがあるのは仕方がない。しかし神さまに縛られたくない。そう思うのではないでしょうか。
かつて若き日の私がそうでした。そうして神さまを離れて、自分のしたいようにし、生きたいように生きました。しかしそれで私は挫折しました。それで再び神さまに出会って、キリストに出会って、分かりました。十戒のような神の戒めは、人間を縛るものではない。むしろ本当の自由を与えるものだということが分かりました。
むしろ逆に、真の神である主を信じないことこそが、縛られて生きることになります。何に縛られるかというと、たとえばお金に縛られます。神さまを信じないと、お金に縛られるんです。あるいは人の評判とか、プライド、名誉欲や権力欲、マウントを取ることに縛られる人もいるでしょう。あるいは自分の中の怒りや憎しみ、ねたみ、不安といったものに縛られます。そういうもろもろのものに縛られます。だから平安がありません。不平不満や文句、他人に対する悪感情に縛られます。最後はあきらめです。
しかしそのようなものから、解放される。奴隷状態から解放してくださるのが、聖書に証しされている神、主です。その神が語られた教えがこの十戒です。だからそれは、私たちに自由をもたらすものです。
私の神・あなたの神
そして最初の戒め、第一戒。3節です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」
世の中にはさまざまな神と呼ばれるものがある。また神のようにして人間があがめるものがある。しかしあなたは、「わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われます。「あなたには」と言われます。この言葉を聞いている私たちのことでもあります。
まずこの言葉は、ただ主なる神だけを神としなさいということですから、私たちの神が唯一なる神であるということです。それゆえキリスト教も一神教だと言われます。しかしキリスト教の一神教は、三位一体の神です。ですから世の中の人が考える一神教とは違います。しかし多神教ではないことだけは確かです。
ですから中には、「日本には日本の神さまがある。八百万の神と言って、多くの神さまがいる。だから聖書の神のような外国の神さまは必要ない」‥‥というようなことを言う人もいます。私はそのような方を批判するつもりはありません。その方が本当の神さまに出会うことができるよう祈ります。しかし一つ申し上げたいことは、聖書で証しされている三位一体の神さまは、外国の神ではないということです。また、多くの神がいるというのは本当だろうか、ということです。
たとえば、こちらは地球から最も近い天体である月から見た地球です。2015年にアメリカの航空宇宙局が公開した写真で、月を回る人工衛星から撮ったものです。(写真1)
地球から見た月とは違って、地球が青い美しい星であることが分かります。しかし地球が天体の一つに過ぎないことが分かります。その地球には、国境は見えません。日本の神さま、アメリカの神さま、というふうな区別が意味があるようには見えません。
さらにこちらは、地球のお隣の惑星、火星から見た地球です。(写真2)お隣の惑星から見ても、地球は小さな点にしか見えません。地球から見た火星と同じ感じです。お隣から見てそうですから、これは太陽系の果てからはもはや肉眼では見えません。さらにその太陽系が数千億個もあるのが銀河系です。そうするともはや、「それは外国の神」などと言っている場合ではありません。太陽系が数千億個も含まれている銀河系が、さらに何十兆、何百兆個もあるとされるのがこの宇宙です。大きすぎて気が遠くなりそうです。しかしその巨大な宇宙の中の天体とすべての物質が同じ法則で動き、存在している。統一した物理法則で存在しているんです。‥‥そういうことを思いますと、その宇宙を造られた神さまが唯一の神であるというのは、むしろ当然であると思います。
その大いなる神が、今度は小さな細胞から分子、原子のミクロの世界までお作りになった。そして私たちに命を与えて生きるようになさった。愛してくださっている。独り子であるイエスさまをお与えになるほどに。
そうするとその神さまに聞き従うのは、ごく当たり前のことのように思います。その神さまが私たちに語りかけられる。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と。このようにして生きなさい、と。そしてそれはついには神の国につながる道です。それでヨハネの黙示録に書かれている神の国の都のところを読みました。ここに向かって行きなさいと、主は語られます。そこに生きる道があると言われます。感謝して、この真の神さまに聞き従って歩んで行きたいと思います。
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