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2026年4月5日(日)逗子教会 復活祭主日礼拝説教/復活祭
●聖書 エレミヤ書30章21〜22
ルカによる福音書24章36〜43
●説教 「よみがえりの主」小宮山剛牧師
復活祭おめでとう
イースターおめでとうございます。あらためて、主の御復活の恵みを分かちあいたいと思います。
「キリスト教ではクリスマスよりもイースターのほうが大事だと聞きましたが、そうなんですか?」という質問を受けることがあります。これは難しい質問です。たしかにイエスさまがよみがえられたことによって永遠の命が示されたわけですから、イースターのほうが大事だとも言えますが、しかしイエスさまがお生まれにならなければイースターもなかったわけですから、クリスマスが大事とも言えますし。これは卵が先か、ニワトリが先かという昔ながらの問題にもつながりますので、どちらが大事ということは言えません。どちらも大事ということになるでしょう。
しかし、少なくともキリスト教が復活から始まったことだけはたしかです。なぜなら、もし復活がなかったとすれば、福音書に書かれているイエスさまの物語は十字架の死と葬りで終わりということになります。それは悲劇で終わりということになってしまいます。福音ではなくなります。また、復活がなければ、教会は生まれませんでした。ということは今ここで私たちが礼拝しているこの教会もなかったということです。イエスさまの弟子たちは、イエスさまが死んでしまって絶望のまま解散、ということになります。
復活があったから、絶望から希望へ、死から命への道が開かれました。そのインパクトたるやすさまじいもので、旧約聖書以来、安息日は土曜日だったのが、教会が一日ずらして日曜日にしたほどです。すなわち、イエスさまがよみがえられたから安息日を変更してでも礼拝しているんです。ですから、そもそも教会が日曜日に礼拝しているのは、毎週復活を祝っているということになります。また、明治以来、日本でも日曜日が休日ということになりました。これもまたイエスさまがよみがえらなかったとしたら、休みではないということになります。
弟子たちの絶望
さて、イエスさまが十字架で死なれました。弟子たちは絶望のどん底の中にありました。一つには、自分たちが神の子メシアだと信じていたイエスさまが十字架刑にされて死んでしまわれたことです。もう一つは、イエスさまを見捨てたという自分たちの罪、弱さを知って絶望していました。それでヨハネによる福音書に書かれているとおり、一つの家に閉じこもって鍵をかけていました。そこには、イエスさまを処刑したユダヤ人たちへの恐れもありました。
復活のイエスの登場
十字架から3日目の日曜日の夜、弟子たちが集まっていたその家でのことです。「こういうことを話していると」(36節)と書かれています。「こういうこと」というのは、その前に書かれている出来事のことで、エルサレムからエマオという村へ帰っていった二人の弟子が、その道中で復活されたイエスさまと一緒に歩いたという出来事です。最初一緒に歩き始めた人がイエスさまだとは分からなかった。しかし家に招き入れて、いっしょに食事を取ろうとした時に分かった。それでイエスさまがよみがえられたことを知り、そのことを知らせるために、このエルサレムの弟子たちが集まっている家に戻ってきて、その話をしたのです。そして36節の「こういうことを話していると」に続きます。
イエスさまご自身が、彼らの真ん中に立たれた。ここは、ヨハネによる福音書の復活の日曜日の夜と同じ出来事です。(36節)「あなたがたに平和があるように」。イエスさまのあいさつの言葉です。「あなたがたに平和があるように」というのは直訳でして、実際はユダヤ人のあいさつの言葉である「シャローム」と言われたのでしょう。「平安あれ」でもいいです。もっと言えば、「皆さん、こんばんは」と挨拶されたのです。何事もなかったように、ふつうの挨拶をされた。
しかし弟子たちは普通ではありませんでした。恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったんです。恐れおののいた、というのは正直すぎるぐらい正直です。弟子たちは、すでにイエスさまがよみがえられたという報告を聞いていたんです。朝、イエスさまの墓場に行ったマグダラのマリアなどの婦人たちから、そしてペトロからも聞いていた。なのに実際にイエスさまが目の前に現れると、幽霊だと思って恐れおののいた。人間、やはり聞いたことと実際に見ることとは違うんですね。たいへんリアルな描写です。
生きていることを証明するイエス
ヨハネは、弟子たちが主を見て喜んだと、結果だけを書いていましたが、このルカ福音書のほうでは、そのように弟子たちが最初は恐れおののいたことを書いています。それでイエスさまがおっしゃいます。(38節)「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」‥‥すなわち、私が十字架で死んだあとに復活することは、以前予告していたではないか。なぜそれを信じないのか?ということです。
しかし無理もないと言えば無理もないでしょう。死んだ人がよみがえった話は聞いたことがないからです。
もしかしたら十字架で死んだと思ったイエスさまは、仮死状態だったのか?‥‥しかし目の前のイエスは死に損なったような状態ではない。散々鞭で打たれ、十字架が途中で担げなくなるほど弱り切り、さらに十字架に釘で打ちつけられ、6時間にわたって苦しみ、衰弱して死ぬ。それが実は死んだのではなく、仮に仮死状態だったのだとしたら、こんなに生き生きとしているはずもないことはすぐに分かります。
あるいは目の前のイエスさまは、幽霊か?幻覚か?‥‥
それでイエスさまは、弟子たちを具体的に納得させようとなさいます。「不信仰者め!」と一喝なさってもよさそうなものですが、幽霊ではないことを証明しようとして、ご自分の体をお見せになるんです。
(39〜40節)"わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。"
幽霊じゃないということを証明するために、十字架の釘の跡のついた手をお見せになり、さらに裾をまくり上げて足をお見せになる。‥‥しかしイエスさまがそのようになさるのを想像すると、なんだか不謹慎ながらも、コメディのように思えてきて、滑稽に感じてしまうのは私だけでしょうか。
さらにそれにとどまりません。弟子たちは、「喜びのあまりまだ信じられず不思議がっているので」(41節)と。「喜びのあまりまだ信じられず」というのは、嬉しすぎて信じられない、まさか!本当に?!という半信半疑の状態。それでイエスさまは今度は、「ここに何か食べるものがあるか?」(41節)とおっしゃる。そこで弟子たちが焼いた魚を一切れ差し出した。この焼き魚は、干物を焼いたものでしょう。それをみんなの前で食べられた。食べ物を食べるというのは、生きているから食べるわけで、これ以上に生きていることを証しする行為はないでしょう。
ここを読んでいると、イエスさまという方のイメージが、多くの人が思っていたのとは違うかもしれません。実は本当は、イエスさまは楽しい方なのだと、私は思います。
椎名麟三の場合
私が時々引用する椎名麟三。終戦後に活躍し、一世を風靡した小説家です。椎名麟三は、この聖書箇所で本当に回心した人です。椎名はここに「本当の自由」を見ています。
昭和31年に『婦人公論』という雑誌に寄せた「神のユーモア」というエッセイの中でこう語っています。
「キリストは‥‥自分が自分であることを証明するために、自分の手や足を出して見せる。それだけならいいが、あわれにも焼いた魚さえ食って見せなければならなかったのである。キリストが魚を真剣な顔でムシャムシャやっているところを想像して下さい。全くその様子たるや、滑稽でもあるが、涙ぐましくもあるではないか。」 ‥‥しかし、このことが椎名に「強いショックを与えた」のでした。「つまり私は、「ほんとう」の自由なるものを見たからである」と彼は書いています。
椎名麟三は戦争中に、生きることに苦しみ、絶望していました。戦争が終わってからもです。絶望のあげく、ただ一つ残された救いとしてすがりついてみた聖書から見事に跳ね出されてしまった、といいます。しかし、笑いものになるのを覚悟で、クリスマスに上原教会の赤岩栄牧師から洗礼を受けたけれども、何事も起こらなかった。しかしどうしても生きたかった。ほんとうに生き生きと生きたかった。
そしてこう書いています。‥‥「その日、生きたいあまりに仕方なく自分にとっての無力な聖書を読んでいたのである。」 何度も読んでいたので退屈極まりない読書。聖書の一番馬鹿らしい場所、つまり復活の箇所を拾い読み始めた。そしてマタイ、マルコ福音書の復活の箇所を読んでいった。しかし椎名にとってはどうでもいいことが書かれているように読めた。そして3番目の福音書であるルカ福音書の復活のくだりを開いた。エマオという村へ二人の弟子が歩いて行って復活したイエスに出会う。そして今日の聖書箇所を読んだ。
「ふむ、自分は霊じゃない、ウソだと思うなら、自分の手や足を見てくれ、さわって見てくれ、霊に肉や骨はないが、わたしにはあるのだって?‥‥よろしい、イエス君、そんなに言うのなら見てあげよう」。‥‥そして椎名は弟子やその仲間へ向ってさかんに毛腫を出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いた。ひどく滑稽だった。だが、次の瞬間、そのイエスを思いうかべていた椎名は、どういうわけか何かドキンとした。 それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラ揺れるとともに、急にやさしく見えはじめたのである。彼は、その自分が信じられなかった。あまり思いつめていたので自分が変になったのかも知れないと思い、あわてて立ち上って鏡へ自分の顔をうつして見た。だが、それはまるで酔っぱらったように真赤にかがやいていて、何かの宝くじにでもあたったような実に喜びにあふれた顔をしているのであった。‥‥これが椎名の回心体験です。これはもう聖霊によって復活が信じさせられたと言うべきでしょう。
椎名は、このイエスさまの姿に、本当の自由を見たと言います。死んでいるけれども生きている。生きている事実を信じさせようとして、真剣な顔で焼き魚をムシャムシャ食べて見せている姿は、実にこっけいである。しかし椎名にとっては、そのイエスにイエスの深い愛を感ずると同時に、神のユーモアを感ぜずにはおれなかったのです。
椎名は、こっけいとユーモアは違うと言います。たとえばコップの中に入れられた蠅。コップから出ようと真剣に動けば動くほど、それはこっけいであり、同時に悲惨でもあります。蠅は出ることができないから、滑稽でもあり悲惨でもあると、椎名は言います。
しかしイエスは、死んでいるけれども生きている。死というコップの外に出ているわけです。制約されていない。そこにユーモアを見たんです。そして椎名は、ユーモアについては愛が条件であると述べています。
復活によって変わる世界
キリストの復活によって、世界は変わります。私たちにとってです。コップの外に出ている。死という壁が取り払われているからです。たしかに死んだけれども、たしかに生きているイエス・キリスト。そこに本当の自由があります。
そうすると、試練をも感謝するということが可能になる。あのテサロニケの信徒への第一の手紙5章の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」‥‥というみことばも、キリストの復活によって可能となる。そのように思います。
キリストによってもたらされる永遠の命。永遠の命と言われても、弟子たちが復活のイエスさまを見ても幽霊だと思って恐れおののいたように、なかなか信じられないかも知れない。しかしそのような私たちに対しても、「ほら、私の手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」と言われ、それがたしかであることをわからせようとなさる。
そういうイエスさまであることに感謝します。
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