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2026年3月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教/棕櫚の主日
●聖書 イザヤ書53章11〜12
ルカによる福音書23章32〜38
●説教 「引き換えの命」小宮山剛牧師
次の日曜日はイースターです。先日、CSのイースターのグッズを買うために百円ショップに行きました。するとそこにイースターグッズのコーナーがちゃんとありました。そこには玉子のケースとか、ウサギやひよこの人形や、イースターカードまで置いてありました。そして棚の上のほうには、ご丁寧にも「2026年のイースターは4月5日です」とまで書かれていました。毎年イースターの日が変わるので、教会がいわなくても百円ショップがちゃんと教えていてくれます。
日本ではクリスマスは昔から祝われていますが、イースターもだんだん浸透してきたことが分かります。そうすると、イースターって何の日?‥‥ということも、教会が説明しなくても、他の人たちが説明してくれるということになります。たしかに死んだ方がよみがえる、というのはまことに縁起がいい、ということになり、もっと広まっていくだろうと思います。
しかしよみがえり、すなわちイエスさまの復活は、単に死んだ人がよみがえった、よかったね!ということではない。復活の前には、受難ということがありました。「受難」という言葉は、日本語では、災難という意味で使われることが多いので、注意が必要ですが、イエスさまの十字架は、たまたま災難に遭ってしまった、ということではありません。避けられないことでありました。いや、むしろその十字架こそが、イエスさまの人の子としての地上の目的地だったのです。そして復活は、むしろその十字架の結果なのです。
そんなことを思いつつ、本日は、ルカによる福音書の十字架の場面から主の恵みを分かちあいたいと思います。
棕櫚の主日
ところで本日は、教会の暦で「棕櫚の主日」です。イエスさまが弟子たちと共に、エルサレムの町に入られた日です。イエスさまを抹殺しようとしているユダヤ人当局の待っているエルサレムに、イエスさまはロバの子に乗って入られました。「棕櫚の主日」という名前は、そのとき群衆が、手に手に棕櫚の葉(正確にはなつめやしの葉)をもってイエスさまを歓迎したことからその名前がつきました。イエスさまこそメシア、すなわち神さまが遣わした本当の王であると信じたのです。イエスさまの弟子たちも、同じように信じていました。これからいよいよイエスさまがメシアとして、王座に就くのであると。そう思って、弟子たちは意気揚々とエルサレムの都に乗り込みました。だれも、まさかこの一週間のうちに、イエスさまが捕らえられて十字架という死刑台にはりつけにされるなどとは思っていませんでした。
当教会の教会報「ぶどうの木」に、ヴィアドロローサのことを書きました。ヴィアドロローサ、それはラテン語で「苦しみの道」とか「悲しみの道」という意味です。「十字架の道行き」とも呼びます。ローマ総督ポンテオ・ピラトによって十字架刑の判決が出され、イエスさまが十字架を背負って死刑場へと向かって行く道です。しかしそのヴィア・ドロローサは、もうこの棕櫚の主日から始まっているんです。いや、もっと言えば、イエスさまがこの地上にお出でになった時から、十字架へ向かう道行き、ヴィア・ドロローサは始まっているんです。すなわち、イエスさまがこの世に来られた目的そのものが、十字架の受難であるということです。実は、最初から十字架の道行きなんです。たまたま運悪く十字架にかけられてしまった、ということではないんです。
エルサレムの都に入られたのが日曜日。その週の木曜日の夜に最後の晩餐がなされます。そしてそのあと、満月の中、エルサレムの郊外のゲッセマネの園に、祈るために行かれました。そこで、弟子の一人であったイスカリオテのユダの手引きでやって来た、ユダヤ人当局の下役たちによって捕らえられました。その時弟子たちは皆イエスさまを見捨てて逃げてしまいました。そして大祭司の邸宅に連れて行かれ、真夜中の裁判が始まりました。裁判といっても、最初からイエスさまを死刑にすることが決まっている裁判でした。そしてイエスさまを死刑にする決定がなされました。大祭司の邸宅に、弟子のペトロがこっそり入っていました。しかしまわりの人から、「あなたもイエスの仲間だね」と言われて、「そんな人は知らない」ということを3度も言って、イエスさまのことを否認しました。
そして夜が明けて、イエスさまはローマ帝国のユダヤ総督、ポンテオ・ピラトのところに連れて行かれました。そしてユダヤ人指導者たちは、イエスさまを十字架につけるようピラトに求めました。ピラトはイエスさまがローマ法に照らして死刑に該当しないことを認めていて、釈放しようとしましたが、ユダヤ人指導者たちが群衆を扇動して「十字架につけろ」と叫びました。それで暴動になりそうなことを恐れて、イエスさまを十字架につけるために、彼らに引き渡しました。
そうしてイエスさまは自ら十字架を担いで行かれました。このルカによる福音書では、シモンというキレネ人を捕まえてイエスさまの十字架を担がせたと書かれています。ヨハネ福音書ではイエスさまが自ら担いでいったと書かれています。これはどちらかが間違っているのではなく、最初はヨハネ福音書が書いているとおり、イエスさまが担いでいった。しかしひどい鞭打ちを受けた後ですから、体は傷だらけ、あばら骨もおそらく折れている状態です。ですから途中で、これ以上は無理だとローマ兵も思って、たまたま道端で見物していた屈強そうな男、つまりキレネ人シモンを捕まえて無理に担がせた‥‥そういうことです。
しかし本当なら、その時イエスさまに代わって十字架を担ぐのは、イエスさまの弟子たちのはずです。しかし弟子たちはここにいない。これまで最もイエスさまのそばにいたはずの弟子たちはもはやここにはいない。イエスさまを見捨てたんです。そのことを、この福音書を書いたルカは言いたかったのではないかと思います。
されこうべにて
そして今日の聖書箇所になります。32節では「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った」と書かれています。この二人の犯罪人は、この朝イエスさまと同じ裁判で死刑が決まったのではなく、すでに死刑が決まっていて監獄に入れられていたのでしょう。そしてイエスさまの十字架刑に合わせて、一緒に死刑場に向かったのでしょう。何の犯罪だったかということは、マタイとマルコの福音書が「強盗」と書いています。弟子たちはイエスさまに同行していない。代わりに強盗である死刑囚が、一緒に引かれていったのです。
ヴィア・ドロローサは、上り坂です。そして「されこうべ」と呼ばれる場所に着いた。そこが死刑場です。「されこうべ」、ドクロですね。恐ろしい名前です。これがヘブライ語ではゴルゴタとなり、ラテン語ではカルバリとなります。そしてイエスさまが十字架につけられる。そのイエスさまの十字架の左右にも、強盗が十字架につけられました。真ん中がイエスさま。まるでイエスさまが強盗の頭であるかのようです。
罵る人々
35節から38節をもう一度読んでみます。
"民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。"
議員とは、昨晩、真夜中の大祭司の邸宅でおこなわれた裁判で、イエスさまを死刑にする決定をした人たちです。彼らは言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
ユダヤ人はメシアを待っていました。彼らにとってのメシアとは、力づくで自分たちの国をローマ帝国から救ってくれる新しい王でした。英雄です。なのに、そのメシアであると思われたイエスが十字架という死刑台につけられ、死につつある。そのように十字架で処刑される無力なメシアはありえない。しかし、彼ら議員たちにとっては、万が一イエスがメシアだったらどうしよう、と不安に思った人もいたでしょう。ところが、何も抵抗することなく十字架にかけられ、死につつあるイエスさまを見て、「本当にメシアではなかった」と思ってホッと胸をなで下ろしたことでしょう。それが、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と、彼らがイエスさまに浴びせた罵声にも表れています。
さらに死刑執行人であるローマの兵士たちも、罵声を浴びせました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」こうして無力な十字架上のイエスさまの姿を見て、やはり彼はメシアではなかったと思って罵声を浴びせている。ユダヤ人指導者たちも、ローマ兵たちもです。
民衆は立って見ていたと書かれています。しかし誰が見ても、十字架という死刑台の上のイエスは、もはやメシア、救い主などではないと見えたでしょう。イエスは失敗した者であり、メシアだと期待した自分たちがバカだった。そのような思いだったでしょう。ですから、だれ一人として、まさかこの時に神の救いの大きな出来事が起こっているとは思わなかったに違いありません。
イエスのとりなしの祈り(34節)
そこで34節のイエスさまの言葉が浮き上がって参ります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
父なる神さまへの祈りを口にされたのです。「彼らをおゆるしください」の「彼ら」とは誰のことでしょうか?‥‥イエスさまをののしっているユダヤ人指導者たち、そして同じくローマ兵のことも含むでしょう。立って見物している民衆のことも含むでしょう。そしてこの場にはいないけれども、逃げてしまった弟子たちも含まれるでしょう。しかし、それだけではないでしょう。私たちのことも含まれていると思います。なぜなら、イエスさまはすべての人が救われるために十字架にかかられたからです。
イエスさまは、十字架にかけた者たちのことを呪ったのではありません。裁きの言葉を語られたのでもありません。父なる神に、彼らを赦してくださるように、とりなしの祈りをなさったのです。「赦す」というのは、罪の赦しのことです。そしてこの祈りこそが、イエスさまが十字架にかかられた意味を証言しているのです。すなわち、私たちすべての人間の罪の赦しを願って、十字架にかかられたということです。そしてその十字架上で死なれたのです。
すなわち、イエスさまがこの世に来られたのは、このためであったのです。私たちの罪が神によって赦されるためにです。
私たちは、私たちの「罪」ということを、あまり深く考えないのかも知れません。罪という問題が、そんなに大きなこととは考えられないのではないでしょうか。交通違反を見逃してもらったぐらいにしか考えないかもしれない。しかし罪ということが私たちの本質に関わることなのです。神の子が人の子としてこの世に来られて、十字架への道を歩き続け、その十字架で私たちの代わりに命を捨てなければならないほどの大きな問題であることが、なかなか分からないのです。私たちを罪(悪)から救うために、神の子が自らを犠牲にする。それは大げさすぎないかと思われるでしょう。ですからこのときイエスさまがとりなしの祈りをされた、その意味も分からなかったでしょう。
しかし神さまから見たら、人間の罪というものが、それほどまでに重大なことであるということです。神の御子が命を捨てなければ償えないものである。人類の命運がこの十字架にかかっている。イエスさまの十字架なしには、人は恐ろしい結末を迎えることを、イエスさまはご存じである。だからこそ我が身を呈して十字架にかかられ、父なる神に対して必死にとりなしをしておられる。このことに気がつきなさい、とルカは言いたいのだと思います。今はイエスさまをののしり、あるいは見物している人々、逃げた人々、無関心な人々‥‥その中に私たちもいた。その私たちも、この十字架のイエスさまの身を挺してのとりなしの祈りによって、赦されている。
今日の旧約聖書は、イザヤ書53章11〜12節を読んでいただきました。イザヤ書53章は、旧約聖書の中で最もストレートにイエスさまの十字架を予言している箇所です。その11節をもう一度読みますと、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」とあります。「彼」とは、イエスさまのことを指しています。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」‥‥イエスさまの苦しみの実とはなんでしょうか?‥‥それこそ、イエスさまの十字架によって、私たちが救われるということ。それが苦しみの実です。
すなわちイエスさまは、ご自分の死によって私たちが救われることを見て、満足なさると。その尊い十字架。イエスさまの愛の結晶です。
このことをあらためて黙想しつつ、復活祭の準備としたいと思います。
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