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2026年3月22日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ダニエル書12章8〜13
ヨハネによる福音書21章20〜25
●説教 「神の国への歩み」小宮山剛牧師
ただ今私たちはレント、受難節を過ごしておりますが、次週はいよいよ受難週ということになります。その受難週を前に、本日をもってヨハネによる福音書の連続講解説教を終えることになります。これは既に申し上げましたように、ちょうどそうなるように計算してこうなったのではありません。偶然というと神を信じない人の言い方になってしまいますから、主のお導きであると言う他はありません。
振り返ってみますと、この礼拝でヨハネによる福音書の連続講解説教を始めたのは、2023年の9月3日でした。それから2年半で今日の最終回を迎えることになります。そしてヨハネ福音書は、「はじめに言があった」という書き出しで始まっていました。世界が造られた真相を語ることから始まっていました。この世界は無機質に、偶然に始まったのではない。創造主なる神さまと、言葉と言われるイエスさまによって愛をもって造られた。そのように世界の成り立ちを語ることから始まっていました。
そして神が、独り子なる神、すなわちイエスさまをこの世にお遣わしになった。それは神に対して罪を犯し、死が入り込んでしまった人間を救うために。その救いの物語としてイエスさまの歩みを語り始めました。そして十字架の死と復活を経て、永遠の命を与える方として、私たちの所に近づいて来てくださる。どこか天の高いところから地上の私たちのことをながめておられる、というのではありません。「さあ、朝の食事をしなさい」と言って食卓を整え、私たちの生活の中にまで入り込んできてくださる。そういう方であることをこの福音書は書き記しました。
ペトロの問い
そうして弟子たちとの食事を終えられた後、イエスさまはどこかへ歩き始められたようです。ペトロに対して「わたしに従いなさい」とおっしゃり、歩き始められた。「わたしに従いなさい」と言われたので、イエスさまに従って行ったようです。そしてペトロが後ろを振り向くと、「イエスの愛しておられた弟子」がついてくるのが見えた。名前を出していません。その代わりにその弟子が、「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人」だと書かれています。さらに今日の聖書箇所の最後の所、24節で、その弟子とは、この福音書を書いた弟子のことだと書かれています。
その弟子とは誰か、ということになるわけですが、これは以前「イエスの愛しておられた者」という言葉が出てきた時にも解説いたしました。結論から言うと、その人はイエスさまの弟子の一人であるヨハネのことだと考えられます。というのは、この福音書では、「ヨハネ」の名前が出てこないんですね。多くの他の弟子の名前は出て来るのに、ヨハネの名前が出てきません。つまり逆にそれがこの福音書を書いたのがヨハネ自身であると考えられる理由にもなっているんです。著者である自分の名前を伏せて、代わりに「イエスの愛しておられた弟子」という表現を使っているんです。
では他の弟子たちは、イエスさまが愛していなかったのか?と思ってしまいますが、そうではありません。この福音書を書いたヨハネは、自分のことを「イエスさまが愛してくださった弟子」と書くことによって、イエスさまに対する感謝を表しているのです。イエスさまはもったいなくも、この私を愛してくださった、と。もちろん、イエスさまは他の弟子たちのことも愛しておられる。そして私たち一人一人のことも愛しておられる。いかがでしょうか? 私たちは、自分のことを「イエスの愛しておられる者」だと言って良いんでしょうか?‥‥いいんです。イエスさまはすべての人を救うために十字架にかかってくださったからです。
ペトロは、イエスの愛しておられた弟子を見てイエスさまに尋ねました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)と。前回の個所になりますが、イエスさまはペトロに対しておっしゃいました。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)。これはペトロの最後についてイエスさまが預言なさったことだと書いています。ペトロは自分の最後のことが予告された。すると後ろに着いてきているヨハネはどうなるのでしょうか?と尋ねたのは、ふつうのことでしょう。他の弟子のことが気になるのは当然です。
一人一人に与えられた道
するとイエスさまはおっしゃいました。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(22節)。
「わたしの来るとき」というのは、世の終わりの時、キリストの再臨の時のことです。その時まで彼ヨハネが生きていることをわたしが望んだとしても、「あなたに何の関係があるか」。‥‥あなたには関係のないことだ、といわれたのです。もちろん、ヨハネのことはあなたと関係ない、他人のことなどかまうな、とおっしゃっているのではありません。ここでは、あなたにはあなたの行くべき道がある、ヨハネにはヨハネの行くべき道がある、ということです。人それぞれに、主が導かれる道がある、与えられた役割がある。その与えられた役割は同じではない。‥‥そういうことです。しかしいずれもイエス・キリストの弟子であり、兄弟姉妹であることには変わりがない。
私たちは主にあって兄弟姉妹です。しかしみなが同じ道を歩むのではありません。それぞれ異なる環境の中で育ち、さまざまな道を通ってキリストに出会った。そしてそのキリストは、またそれぞれ違う道が用意されている。違う役割が与えられている。しかし行き着く所は同じです。それは神の国です。
それにしてもイエスさまはヨハネについては、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても」とおっしゃいました。世の終わりのイエスさまが再び来られるときまでヨハネが生きていることを望まれたのか。つまり長生きすることを望まれたのはなぜか?
先日、ペトロがローマ皇帝のネロによる迫害で、殉教したことを申し上げました。それは西暦60年代のことでした。そして12人の使徒のうち、ペトロをはじめ11人が殉教しました。ヨハネの兄弟ヤコブは使徒言行録12章に書かれているように、ヘロデ・アグリッパ王によって殺されました。はじめイエスさまの復活を信じなかったトマスは、インドまで伝道に行って殉教しました。フィリポはギリシャや小アジアで伝道して殉教したと伝えられています。そのように、ヨハネ以外の使徒、すなわち12弟子はみな殉教しました。そしてヨハネだけが高齢になるまで生き残りました。そして、このヨハネによる福音書を書きました。すなわち主イエスさまは、ヨハネには最後にこの福音書を書くという使命をお与えになったのだと言うことができます。このいのちあふれるキリストを証言し、書き残すためにです。
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ペトロよ、あなたにはあなたの行く道がある。ヨハネにはヨハネの道がある。あなたはあなたでわたしに従いなさい。‥‥そういう言葉です。
ダニエル書と私
今日もう一箇所読んだ聖書は、旧約聖書のダニエル書の中の一節です。ダニエルと言えば、昔ユダの国がバビロン帝国の侵略を受けたときに、捕らえられて、バビロンに連れて行かれた人です。そしてバビロンのネブカドネツァル王の見た夢を解き明かし、外国人でありながら一気に国の重要なポストにつけられました。さらに、バビロン帝国が倒れて、メディアの国になってからも取り立てられました。それでダニエルの出世をねたむ者たちからワナにはめられ、ライオンの洞窟に投げ込まれました。しかし主がライオンの口をふさいで、助けてくださった。そういう奇跡が起きた、主を信じる信仰の人です。
そのダニエルが、ある日、世の終わりに関する幻を神さまによって見せられました。それは理解することが難しい幻でした。それでダニエルは尋ねました。「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか。」するとその人は答えました。9節です。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。」
実はこれは私の献身の聖句です。クリスチャンの社長が起業した零細企業に、ただひとりの社員として手伝って働いていて、信仰に導かれた私でした。そしてイエス・キリストが生きておられる方だということを体験しました。わたしはうれしくて、うれしくて、このキリストを宣べ伝える人になりたい、つまり牧師になりたいと思いました。しかし一方では、せっかく私を拾ってくれた社長と起こしたこの事業を放り出すようで、すまない思いがしました。また、生活はどうするのかとか、いろいろな不安や思い悩むことがありました。それでどうしたら良いか、神さまに聞くことにしました。具体的には、聖書を最初から読み始めて神さまの答えを聞くことにしたのです。創世記から読み始めました。順番に読んでいきました。しかし読んでも読んでも、答えのようなものは与えられませんでした。そうして数ヶ月が過ぎました。私はあきらめかけました。
そうしてその日、ちょうどダニエル書を読み進めていました。そして12章に入りました。そしてこの9節まで読んだとき、それが神さまが私に語りかけた言葉のように聞こえたのです。その時は口語訳聖書でした。新共同訳聖書では先ほど読んだように「ダニエルよ、もう行きなさい」となっていますが、口語訳聖書では次のようになっていました。「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。」 ‥‥それは聖書に書かれた文字でした。しかしその文字を通して、主が私に対して語りかけたように感じました。背中をドン、と押されたように感じました。その瞬間、すばらしい平安が来て、すべての悩みや思い煩いが消えました。主は私に、「何を迷っている。すべてを私に任せて行きなさい」と言われているように思われました。そしてそこに神がおられることが分かり、感動で涙があふれました。そして私はすべてを主にお任せして献身したのです。
「あなたの道」‥‥それは主が導かれる道です。そして主は、実は一人一人全員に対して、道を用意してくださっている。その道を行きなさい、私を信じて行きなさいと、招かれている。
今日のヨハネ福音書で、イエスさまがペトロに対しておっしゃった言葉も同じです。
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
それぞれ違う道が用意されている。それは決して同じ道ではない。あなたにはあなたの道がある。その道を私が導く。だからあなたは私に従って来なさい。‥‥そのように主は言われます。
著者と本書(24・25節)
最後24節と25節にあとがきのようなことが書かれているのも、この福音書の特徴です。25節に「世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」と書かれています。
たしかにイエスさまのなさったことはたくさんあるでしょうし、福音書の限られたスペースでは書き切れないことでしょう。だから私たちは、もっと書いてほしかった、イエスさまが何をして何をおっしゃったのか、もっともっと知りたいと思います。しかしヨハネは、またヨハネだけではなく他の福音書を書いた、マタイも、マルコも、ルカも、イエスさまがキリストであることを信じるためには、これで十分だと思って出来事を選んで書いたのに違いありません。
しかしそれにしても、「世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」というのは、いくらなんでも、ちょっと大げさすぎやしないか、とも思います。しかしこのことを黙想していて、私はハッとしました。大げさではないと。というのは、復活されたイエスさまは、今も生きておられる方です。聖霊と共にいてくださる方です。そして私たちのうちで働いてくださっている。いまもイエスさまがさまざまなことをしてくださっているのです。世界中で。しかも毎日。‥‥そうすると、たしかに世界もその書かれた書物を収めきれないに違いありません。主は生きて、今も働いてくださっているからです。ですからこの福音書の続きを書くのは、私たち一人一人でもあります。
ヨハネによる福音書の最後は、イエスさまのあとをペトロやヨハネが従っていくところで終わっています。どこに行ったとは書かれていません。イエスさまと共に歩んでいる途中で終わっています。この歩みの行き着く先はどこでしょうか?‥‥そうです。神の国です。永遠の神の国。私たちも主とともに、そこに向かって歩んで行きます。多くの人を招きながらです。
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