2026年3月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ダニエル書12章8〜13
    ヨハネによる福音書21章15〜19
●説教 「イエスの羊」小宮山剛牧師
 
   復活と食事
 
 前回の箇所からガリラヤ湖、ヨハネ福音書ではティベリアス湖となっていますが、そこが舞台となっています。舟を出して徹夜で漁をしたけれども、何も捕れなかった弟子たち。岸辺から呼びかける声に従って網を降ろしたところ、大量の魚が捕れた。そして復活のイエスさまが用意された朝の食事をいただく。食事というのは生きるためにいただくわけです。すなわちイエスさまは、弟子たちが生きるように励まされたと言えます。
 なお、イエスさまはこの食事を一緒に食べられたのだろうか?と、ふと思われた方もいるのではないでしょうか。これはたとえばルカ福音書の復活の記事などを読みますと、イエスさまが魚をムシャムシャと召し上がったと言うことが書かれていますから、ここでも一緒に食べられたのでしょう。
 このことは、私たちにとってたいせつな問題を含んでいると思います。つまり、よみがえったイエスさまが食事をとられたということは、それは幽霊ではなく体があるということです。コリント書でパウロが言うところの「霊の体」です。それは朽ちることがないと言われています。しかし食べることがないかと言えば、そうではないということです。つまり天国の永遠の命の世界でも、食べる楽しみがあるということです。たしかにヨハネの黙示録の最後の章に書かれている、神の都について次のような描写があります。
(黙示録22:2)「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」
 これもまた、ヨハネによる福音書が書いてきた永遠の命というものが、ちゃんと食べるという行為のある実体のあるものだということを教えていると思います。
 
   愛について
 
 さて、今日の箇所はその朝の食事が終わったところから始まっています。そしてイエスさまが弟子のシモン・ペトロに対して、「わたしを愛しているか?」と3回お尋ねになったことについて書き留めています。
 「わたしを愛しているか」‥‥この「愛」がもちろん恋愛の愛ではないことは、皆さんもよくお分かりのことでしょう。しかし一方で日本人としては、師匠が弟子に「愛しているか」と尋ね、弟子が師匠に「愛している」と答えるというのは、少し戸惑ってしまう違和感があるのもまた事実です。そこでこの「愛」という言葉について少し考えてみたいと思います。
 現在では「愛」という言葉は、恋愛の愛だけではなく、積極的に広く受け入れる心として受け取られています。しかし、江戸時代までの日本ではそれとは少し違う使われ方をしていたようです。たとえば、江戸時代の終わりごろ、初めて聖書が日本語に翻訳されました。それは宣教師のギュツラフによるもので、ギュツラフ訳聖書と呼ばれます。実際には直接ギュツラフが訳したのではなくて、漂流してアメリカにたどり着いた3人の日本人の手を借りたものです。その聖書はヨハネによる福音書でした。それを見ると、やはり「愛」という言葉、英語では LOVE をどう日本語に訳すかについて苦労しています。
 たとえば15節のペトロに対するイエスさまの問いは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」ですが、ギュツラフ訳では「アノヒトビトヨリ、オマエハワシヲカワイガルカ」となっています。つまり「愛しているか」が、「可愛がるか」になっています。16節も同様です。そして17節の「愛しているか」は「カバウカ」(庇うか)になっています。「可愛がる」と「庇う」、この違いは原語のギリシャ語で15節16節と、17節が違う単語になっているからなんですが、両方とも現代では「愛」と訳しています。その「愛」を、「可愛がる」と「庇う」という日本語に訳している。ずいぶん印象が違いますね。
 では「愛」という漢字はもともとどういう意味なのか?‥‥気になって調べてみました。そこで日本の漢字研究の第一人者と言える白川静(しらかわ・しずか)の漢和辞典「字通」を見てみました。すると、「愛」という漢字は、後ろを顧みて立つという形に心を加えたもの、だそうです。そして愛とは、「顧みて憂えるさまで、もどかしく不安定な心情をいう」ということでした。つまり漢字の「愛」とは、「ハッピー!好きです!あなたを愛します!」というウキウキしたのとはやや違うんです。
 このことを踏まえて今日の聖書箇所の「愛」というものを見ると、どうでしょうか?「憂い」というのとは違うかも知れませんが、人間の弱さに気がつくと共に、背景に赦しが重なっているのが今日の箇所です。そうしますと、きょうの聖書の「愛」は、漢字本来の意味を取り戻しているように思えます。
 ヨハネによる福音書は、3章16節で有名な言葉を記していました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」‥‥その愛というものが、どういうものであるか。ヨハネ福音書は、イエスさまが神であることを証言すると共に、その愛というものが何であるかを証言している書物であるということもできます。
 
   3回の問答
 
 今日の箇所で、イエスさまはペトロに対して、「わたしを愛しているか」ということを3度尋ねておられます。次の通りです。
@15節「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」
 →「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
 →「わたしの小羊を飼いなさい」
A16節「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
 →「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」
 →「わたしの羊の世話をしなさい」
B17節「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」
 →「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
 →「わたしの羊を飼いなさい。」
 ペトロ自身も、イエスさまが3度もお尋ねになったので悲しくなったと書かれていますが、なぜ同じ質問を3度もなさったのでしょうか?
 ちなみに3回の言葉は微妙に違っています。「小羊」と「羊」、「飼う」と「世話をする」。聖書を読むと分かりますが、ユダヤ人は同じ言葉を何度も繰り返して使うのは美しくないと考えていただけのことです。だから言葉は微妙に違っても、同じことを言っているんです。さて、イエスさまはなぜ3度も「愛しているか」とお尋ねになったのか?
 3度ということで私たちがすぐに思い出すのは、十字架の前の晩、イエスさまが大祭司の邸宅で裁きを受けている時。ペトロがイエスさまのことを3度も「そんな人は知らない」と言って否認したあの出来事でしょう。イエスさまのためなら命も惜しくはないと言ったペトロが、その舌の根も乾かないうちにイエスさまを見捨てて否認した。あの時も3度でした。
 それゆえ、イエスさまがきょう「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか?」とお問いになったとき、ペトロは、自分が責められていると最初は感じたかも知れません。あるいはイエスさまがペトロのことを疑心暗鬼になって「愛しているのか」と試しておっしゃったのかと思ったかもしれません。つまりペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたとき、イエスさまが「それにしてはお前はわたしを知らないと言ったよな」‥‥と、もしかしたらおっしゃるのではないかと思ったかもしれません。
 しかしそれに対するイエスさまの答えは、意外なものでした。つまりイエスさまは、「わたしの小羊を飼いなさい」とおっしゃったのです。「わたしの小羊」というのは、イエスさまを信じる人々のことです。イエスさまを信じる人々というのは、イエスさまにとって最も大切な人々です。教会のこと、それを、ペトロに託されたのです。大切なものを託された。
 同様のことを3度繰り返された。あのイエスさまが捕らえられた夜、ペトロがイエスさまのことを3度も知らないと言ったあの出来事を、イエスさまが一つ一つ赦し、癒やされるかのようにです。ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなったと書かれています。ペトロは自分の弱さ、罪深さを知って悲しくなった。しかしイエスさまはペトロを悲しませるためにおっしゃったのではない。赦し、大切なものを託すためにおっしゃったのです。
 十字架の赦し。そして弟子にイエスさまの大切なものを託される。そこにペトロ自身が自分の弱さと罪深さを知るという憂いがある。しかしそれも全てイエスさまがご存じで、赦し、愛してくださっている。そういう光景です。
 
   羊の群れを託される
 
 「わたしの羊を飼いなさい」。イエスさまが羊飼いにたとえておられます。羊飼いというのは、昔の言葉で言えば「牧者」です。牧師という言葉はそこから来ています。有名な詩編23編には、主がその羊飼いであることが美しく歌われています。羊飼いは、羊を青草のあるところ、水のあるところに導く。そして野獣から羊を守る。イエスさまは、イエスさまを信じる人々の群れ、すなわち教会を養うように、ペトロを牧者として立てられたのです。つまり伝道するだけではなく、牧師として立てられたのです。
 教会の群れを養う牧者は、食事の世話をするのではありません。霊的な羊飼いです。神の御言葉をもって群れを養います。羊たちがこの世の誘惑から守る術を教えます。御言葉によって、そして聖霊によって、祈ることによってです。
 その時必要なことは、イエスさまを愛しているということです。「わたしを愛するか」と3度もおっしゃったのは、そのことを強調しています。キリストへの愛だけが問われています。自分の弱さを知ったペトロ。失敗したペトロ。しかしそれゆえに、キリストの赦しと愛の深さを知りました。そのようにイエスさまは、強く勇ましいペトロではなく、弱さを知り、キリストの赦しと愛を知ったペトロに群れを託されたのです。自分の罪や弱さを問題にするのではなく、キリストへの愛。それだけが必要であると。
 私の場合はどうだったか。何度も証ししましたように、私は1歳の時死にかけたのを、牧師と両親の祈りによって助けられました。イエスさまによって助けられたんです。ところがやがてそのイエスさまを捨てました。神を忘れて、勝手な道を進みました。そして再び病気で死にかけました。今度は、もう救われる資格はありませんでした。ところがこれもまた救ってくださいました。そして伝道者となるように導かれました。自分の罪深さ、弱さを知った私を主は導かれたのです。
 18節19節を読みます。 "はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。“
 「行きたくない所に連れて行かれる」。ペトロの死に方を予告されたと書かれています。
 シェンキェヴィッチという人が書いた「クォ・ヴァディス」という小説があります。舞台は一世紀のローマ帝国。キリスト教がだんだんとローマ帝国の中に広がっていく。そして皇帝であったネロがキリスト教徒への迫害を始めます。ローマ市での迫害が激しくなり、ローマ市のクリスチャンたちは、教会の指導者のペトロに、ローマから逃げて教会を守るようにと、強く勧めます。それでペトロはローマを脱出します。ところが、ローマの郊外まで来て道を歩いていると、向こうから光の中をこちらに歩いてくるキリストに出会った。イエスさまにお目にかかるのは、復活と昇天以来のことでした。ペトロは驚いて、イエスさまに尋ねます。「主よ、どこに行かれるのですか?」するとイエスさまは答えました、「あなたの捨てたローマに行って、もう一度十字架につくのだ」。‥‥ペトロはしばらくそこに伏していました。そして立ち上がると、ローマへの道を引き返しました。やがてペトロはネロによって十字架につけられて殉教しました。その時ペトロは、「イエスさまと同じ十字架ではもったいない」と言って、自分を十字架に逆さにしてつけるように願い、そのようにして亡くなったと伝えられています。
 
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(17節)。
 教会は、強くて優秀な人の集まりではありません。こんな私だけれども、それでも私は主を愛しているという人の集まりです。それを主イエスは喜んでくださり、十字架の釘の跡が空いた手を広げて迎えてくださる。「わたしの羊」と、私たちのことを呼んでくださる。あなたは私が十字架で贖った、かけがえのない羊であると。
 牧者は、牧師のことだけを指すのではありません。私たちはみな牧者です。イエスさまが大牧者、わたしたちが小牧者です。家族のこと、隣人のこと、そして私たちお互いのことを祈りをもって導く。主の栄光が現れるようにと。そのように用いてくださいます。


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