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2026年3月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編27編4
ヨハネによる福音書21章1〜14
●説教 「舟の右側」小宮山剛牧師
いよいよヨハネによる福音書の連続講解説教も、今日と来週を残すのみとなりました。前回の20章の最後のところでは、復活されたイエスさまが再び弟子たちの前に現れ、トマスに対して「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とおっしゃった言葉がありました。それに対してトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と応答した言葉がありました。ここにヨハネによる福音書のクライマックスがありました。
ヨハネによる福音書は、その最初の1章で、イエスさまのことを「父のふところにいる独り子なる神」(1:18)と書きました。そしてなぜイエスさまが天の父なる神の独り子なる神であるか、ということを事実によって証ししてきました。そして十字架にかけられて死なれたイエスさまが、よみがえられた、つまり復活された。その復活のイエスさまが近づいて来てくださったとき、トマスは自分の罪を赦してくださる神の姿をそこに見た。十字架に表れた愛と赦しのキリスト。そのキリスト・イエスさまがよみがえられて、私のところに来てくださった、イエスさまを裏切り見捨てたこの私のところに。その時トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と告白しました。こうしてヨハネによる福音書は、イエスさまが神であることを証言し、いったん終わったかのように思われました。なぜなら前回の20章の最後に、「本書の目的」というものが書かれていたからです。
しかしそれでヨハネ福音書は終わらず、またきょうの聖書箇所、つまり21章に続いています。20章では、イエスさまがなぜ独り子なる神であるかを証言する物語が終わったということです。そしてこの21章という新たな章が続く。ではヨハネはこの上に何を書こうというのか? その目的は何か?‥‥と言うことを謎解きのようにして読むのもまた楽しみです。
ただ、聖書は単に歴史上のノンフィクションの読み物を書いているのではありません。そのよみがえられたイエスさまが、聖霊によって、私たちの間で今も生きておられることを伝えたいわけです。ですから、私たちも聖書を読むときに、何か昔話を読んでいるのではなく、今生きて近づきたもうキリストが、私たちにどのように関わってくださるか、というメッセージ聞こうとして読むのがふさわしいのです。そういう姿勢で、今日の箇所からもまた神の恵みをいただきたいと思います。
ガリラヤに戻った弟子たち
弟子たちは皆、イスラエル北部のガリラヤ地方の出身であると思われます。そして今日はそのガリラヤが舞台になっています。1節にティベリアス湖畔と書かれていますが、このティベリアス湖というのはガリラヤ湖のことです。
ガリラヤは、弟子たちがイエスさまに従って行くまで生活していた場所でした。彼らは、そのガリラヤに戻ってきたことになります。なぜガリラヤに戻ったのでしょうか?イエスさまの弟子となる前の生活に戻ったということでしょうか?
実はヨハネによる福音書には書かれていませんでしたが、マタイ福音書とマルコ福音書に書かれていることがあるんです。それは、イエスさまが復活された日曜日の朝の墓場にて、天使が婦人の弟子たちに言った言葉があるんです。
(マタイ28:5〜7)"天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」"
天使の告げた言葉は、神さまのメッセージです。つまり、神さまが婦人の弟子たちに、伝言を託したのです。ガリラヤに行くように、と。実際にはすでにイエスさまは、復活の最初の日曜日と、次の日曜日と2週続けて弟子たちに復活の姿を現されました。ですからそのあとに天使のメッセージに従ってガリラヤに行ったということになります。
そして弟子たちは何をしたか? 今日のところに書かれているとおり、湖に船を浮かべて漁をしに行きました。そしてシモン・ペトロやトマスの名前が挙げられています。漁に出たのは全部で7人でした。ゼベダイの子たち、というのは、ヤコブとヨハネです。ヨハネはこの福音書を書いたと思われる人ですが、ここでも自分の名前をあえて伏せています。ペトロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネは少なくとも漁師でした。この時一緒に漁に出た弟子たちも漁師だったのかも知れません。漁師だから漁に行った、というのは当たり前のことのように思えます。
さて、ここで私たちは、「はてな?」と思う。と言いますのは、彼らはかつて網を捨てて、つまり漁師であることをやめてイエスさまに従って行ったのではなかったか?ということです。たとえばルカによる福音書には次のように書かれています。
(ルカ 5:4〜11)"話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。"
あのとき、彼らはイエスさまがただならぬ方であることを知りました。そして全てを捨ててイエスさまに従って行きました。しかし今また、イエスさまに出会う前の漁師に戻ってしまうのか?
しかしこれは、そういうことではないと思います。ガリラヤに戻ったとき、彼らは生活をしていかなければならなかったのです。生活の糧を得なければなりませんでした。働かなくては食べていけません。ガリラヤでイエスさまにお目にかかれると、天使が告げたので、戻った。そして生きて行くために漁に出たのです。
イエスさまに従って行ったときはどうやって食べていたか。それは、婦人の弟子たちが自分の持ち物を出し合ってイエスさま一行を支えていたということが他の所に書かれています。(ルカ8:3)。あるいはイエスさまを信じる人たちが献金をしたり、物資を提供したりしたことでしょう。しかし今は、とりあえず自分たちで生活の糧を得なければなりません。そういうことで、夜、舟を出して漁に出ました。
ところがどうしたことか、その夜は何も捕れませんでした。素人が魚釣りに出かけたのではないんです。プロの漁師が一晩中網を打っても何も捕れなかったんです。そうして何も捕れないまま夜が明けました。
湖畔のイエス
すると、岸から声が聞こえた。岸から舟までの距離は約2百ペキスとありますから、90メートルほど。大声で呼びかけたでしょう。「子たちよ、何か食べる物があるか?」と。「子たちよ」というのは、年長者が年下に呼びかける、あるいは師匠が弟子に呼びかけるようなときの言い方です。「何か食べる物があるか」とは、単純に質問しているのではありません。「何か食べる物が捕れたか?捕れなかっただろう?」‥‥というような言い方です。
ちなみに、こちらの映像が(スライド表示)、このときイエスさまが声をかけたと言われるガリラヤ湖畔の場所です。隣に建っている建物は、ペトロの召命教会と呼ばれる教会堂です。その中に、イエスさまが立って呼びかけたときの岩があります。もちろん、本当にそこかどうかは分からないわけですが。続けて声のぬしは叫んで言いました。(6節)「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」すると大量の魚が網にかかって、網を舟に引き上げることもできないほどだった。
このとき弟子たちは思い出したでしょう。前にも同じようなことがあった、ということを!そうです。先ほど呼んだルカ福音書5章の、最初の召命の時のことです。
イエスの愛しておられたあの弟子、が、「主だ」と言いました。「イエスさまだ」と。イエスの愛しておられたあの弟子というのは、ヨハネ福音書でよくでてくる言い方で、これはヨハネが自分自身の名前を出す代わりにこのように書いていると思われます。つまりヨハネが「あれは主だ」と言った。それでそれまで裸同然だったペトロが、服を着て湖に飛びこみました。そして岸へ向かって泳いでいく。‥‥なんだかペトロらしい行動だな、と思いますね。舟をこいでいけばいいのに、と思ったりしますが。一刻も早くイエスさまに会いたかったのでしょう。このへんの行動を見ると、この私もペトロだなあ、と思います。会いたいですよ。イエスさまに。理屈抜きで。あまり考えないで行動する。おっちょこちょいで、失敗も多い。私もペトロです。他の弟子たちは網を引きながら舟で戻ってきた。
イエスの整える食卓
すると炭火がおこしてあった。その上に魚が乗せてあった。焼いていたんです。イエスさまが。パンも用意されていた。イエスさまがおっしゃいました。「今とった魚を何匹か持って来なさい」(10節)。‥‥こうしてイエスさまが用意された魚と、弟子たちがイエスさまの指示によって捕った魚が一緒に炭火で焼かれます。
このことは私たちに深い示唆を与えてくれます。弟子たちは一晩中がんばって漁をしました。しかし人間ががんばるだけでは魚は捕れなかった。ところがイエスさまの指示に従って、舟の右側に網を降ろしたところ、大漁となった。‥‥このことは私たちにたいせつなことを教えてくれていないでしょうか?
人間が自分の考え方だけでやってもダメなんです。人間の考え方だけでは、いくらがんばってもダメなんです。イエスさまの声を聞かなくては、神の言葉を聞こうとしなければダメなんです。実りをもたらさないんです。
先ほどルカ福音書の5章の弟子たちの最初の召命の所を読みました。そのときイエスさまはペトロにこうおっしゃいました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカ5:10)。そのことを思い出します。すなわち、魚を捕ることが、イエス・キリストの福音を伝道するということにたとえられていました。ペトロたちは、これから復活されたイエス・キリストの福音を世界に向かって宣べ伝えていくときに、今日のこの出来事を思い起こしたことでしょう。人間の知恵と力だけでやるのではない。イエスさまの御言葉に従い、イエスさまの力をいただいていくのだ、と。
捕れた魚はみな大きな魚で、153匹入っていました。この153という数字ですが、いろいろな解釈がなされています。その解釈の1つは、当時は魚の獣類が全部で153種類だと考えられていたというものがあります。そうすると153は世界を表すことになります。世界の人々にキリストの福音を宣べ伝えていく。そして多くの人々がキリストを信じるようになる。そのためには、人間の知恵と力でやるのではない。主の言葉に従っていく。そうしたときに、思わぬすばらしいことが起きる。それは奇跡です。イエスさまの奇跡を信じながら歩んで行くのです。これは教会に対しても語られているんです。
朝の食事
イエスさまは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)とおっしゃいました。私はこの言葉が大好きなんです。「さあ、朝ごはん食べろや」とおっしゃった。
夜の仕事をしておられる方は、徹夜の仕事のあとの朝ごはんの感じがお分かりかと思いますが、私も学生時代、ときどき徹夜のアルバイトに行きました。デスクワークではありません。肉体労働です。そうすると明けて学生寮に帰ってくるのが、朝の5時とか6時なんです。寮の朝食は7時半頃からでないと食べられない。でもおなかは減っているし、早く寝たいので、大学の構内のうどんの自動販売機に行くんです。百円だったと思います。百円入れると、1分ほどしてプラスチックの器に入った熱々のうどんが出てくる。それを食べると、なんだか「生きているなあ」という感じがしたものです。ご苦労さんと自分に行ってやりたい気分になりました。
夜の仕事でなくても、普通に朝起きて朝食をいただくことを考えてもまったくかまいません。そうすると、朝ごはんを食べるとき、「今日も生かされているなあ」と感じませんか。「生きよ」と主が言われているんです。
よみがえられて、生きておられるイエスさまは、弟子たちに朝食を用意なさいました。「ごくろうさん」、「さあ私と一緒に生きよう」とおっしゃっているように思います。私たちの主は生きておられます。私たちは、何か自分を頼りに自分の知恵と力で生きて行くのではありません。イエスさまの力に依り頼むことができるんです。主の御言葉をいただきつつ歩むんです。「舟の右側に網を降ろしてみなさい。」私たちが考えもしなかったことが起きるんです。復活の主が共におられるのです。
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