2026年3月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章5
    ヨハネによる福音書20章24〜31
●説教 「信じる者になる」小宮山剛牧師
 
   不信仰なトマス?
 
 きょうのメインの登場人物は、12弟子の一人のトマスです。トマスと言いますと、よく「不信仰なトマス」と言われます。『讃美歌21』197番(『讃美歌』243番)「ああ主の瞳」の3節の歌詞は次のようになっています。
  ああ主のひとみ まなざしよ うたがいまどう トマスにも
  み傷しめして  信ぜよと  招くはたれぞ  主ならずや
 十字架にかかられ死なれたイエスさま。墓に葬られてから3日目によみがえられました。天の父なる神がよみがえらせたのです。そのイエスさまの復活が日曜日の朝。そしてその晩、弟子たちが閉じこもっていた家に、復活のイエスさまが姿を現されたというのが、前回の個所19〜23節です。その時トマスはいませんでした。どこかに出かけていたようです。
 そして今日の聖書箇所に続きます。他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」(24節)とトマスに言いました。「見た」というのは「会った」と言ってもいいです。するとトマスが答えました。(25節)「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 これが「不信仰なトマス」と言われる理由です。しかし私は「不信仰なトマス」という言われ方は、ちょっとトマスがかわいそうに思うんです。不信仰というならば、他の弟子たちも同じように不信仰のはずですし、私たちも同じように不信仰のはずです。
 そもそもトマスはなぜイエスさまの復活を聞かされたとき疑ったのか?‥‥たしかに、他の弟子たちが復活のイエスさまに出会ったと言ったときに、「えっ?本当に?」と、半信半疑に反応するというのが普通かも知れません。しかしトマスは、イエスさまの手に開いた十字架の釘の痕に自分の指を入れてみなければ信じない、さらに十字架上でローマ兵に槍で刺されてい開いた槍の痕に自分の手を入れてみなければ信じない‥‥と、そこまで言っているんです。
 トマスは、死人がよみがえるということが科学的に信じられなかったのでしょうか?‥‥そうではないと思うんです。実は、そのことについて、ヨハネはちゃんとヒントを出してくれているんです。
 
   挫折したトマス
 
 それは、トマスが以前、イエスさまと一緒に死のうと言ったことがあるんです。それは、イエスさまと親しかったラザロが死んだときのことです。ラザロが死んだとき、イエスさまと弟子たちは別の場所にいました。そしてイエスさまは弟子たちに対しておっしゃいました。「さあ、彼の所に行こう」。それを聞いてトマスは、仲間の弟子たちにこう言ったんです。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)
 死んだラザロの所に行こう、とイエスさまがおっしゃった。ふつうに考えれば死んだ人の霊魂は陰府(よみ)に行く。それでトマスは、死んだラザロの霊が行った陰府に行こうとイエスさまはおっしゃったのだ、つまり死にに行くのだとおっしゃったと勘違いしたんです。これは無理もありません。誰もこのあとイエスさまがラザロを生き返らせるなどと思いませんでしたから。ですからトマスが勘違いして、「私たちも一緒にいって、イエスさまと共に死のうではないか」と言ったということは、そこまでイエスさまに従っていく決心でいたということになります。
 そんなにイエスさまに対する忠誠心が強かったトマス。ところが、そのイエスさまが最後の晩餐のあとでかけていったゲッセマネの園で逮捕されたとき、どうだったでしょうか?
 (マルコ14:50)弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
 真夜中のゲッセマネの園で、祭司長たちが遣わした下役たちが、イエスさまを捕らえようとした。そのとき、ペトロが剣を抜いて相手に切りつけました。するとイエスさまはペトロにおっしゃいました。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は飲むべきではないか」(18:11)。剣をさやに納めろとイエスさまに言われて、どうしたらよいかも分からなくなった。無抵抗のままではこちらが捕らえられてしまう。それでおそらく反射的に、イエスさまを見捨てて逃げた‥‥そういうことでしょう。
 「イエスさまと一緒に死のう」と言ったトマスも逃げたんです。つまりトマスは、あのとき、自分自身の言葉を裏切ったのです。あの、イエスさまと一緒に死のうと言った勇敢な決意表明が、一瞬にして崩壊した。自分の口にした言葉を自分自身が裏切って、イエスさまを見捨てた。‥‥このことを皆さんに考えてほしいんです。いざとなると、自分の命のほうが大事だった。逃げてしまった後、トマスは自分自身に対して絶望したに違いないと思います。自分に対する絶望です。そして、自分がイエスさまを十字架に追いやったのだと、自分を責めて責めて責め抜いてここまで来たのではなかったか。そういう闇の中にいた。
 ところが、そこに他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言って、イエスさまが復活したことを告げた。深い罪責感と絶望の中にいたトマスは、とうてい信じられなかった。それが25節の言葉になっていると思います。(25節)「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 ですからこの言葉は、死んだ人がよみがえったということが科学的に信じられないという言葉ではありません。自分のあやまち、罪は到底ゆるされるはずもないという、絶望の中から出た言葉に違いないと思います。‥‥「俺がイエスさまを殺したようなものだ。イエスさまを死に追いやった一人だ。主は、イエスさまはもう死んでしまわれたのだ‥‥俺の罪はもう永遠にゆるされることはないのだ。お前たち、調子いいことを言うな!」‥‥そういう深い深い絶望と罪責感の中から出た言葉です。「わたしは決して信じない」私は赦されないのだ、と。
 
   トマスの告白
 
 そうして迎えた次の日曜日が今日の聖書箇所のできごとです。「八日の後」とありますが、これは私たち日本人が考える「8日後」のことではありません。今日を1として数えるので、私たちからしたら「一週間後」ということです。つまり日曜日の一週間後なので、また日曜日です。「日曜日」!このことを覚えておいてください。
 再び弟子たちが同じ家に集まっていました。そこに再びイエスさまが現れられました。ここを読みますと、何かトマス一人のために来てくださったように読めます。先週いなかったトマスのために。弟子たち一人も漏らさずというように。そしておっしゃいました。(27節)「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 これは、科学的にたしかによみがえったのだ、ということを証明するために、イエスさまは手や脇腹の穴をお見せになったのでしょうか?‥‥先ほど考えてみましたように、自分自身の罪への絶望の中にいるトマス、自分がイエスさまを十字架の死に追いやったのだと、暗闇の絶望と罪責感の中にいるトマスです。それに対してこの復活のイエスさまの言葉は、あたかもこうおっしゃっているかのようです。‥‥「この十字架の痕は、あなたを裁くために開いたのではない。あなたを赦すために開いたのだ。私はあなたの罪のせいで死んだのではない。あなたの罪も、皆の罪も私が背負うために死んだのだ。あなたの罪はたしかに私が負ったのだ。そして父なる神は、その私をよみがえらせてくださったのだ。あなたの罪は赦されたのだ。さあ、喜びなさい!喜んでいいのだよ!」‥‥
 そしてトマスは答えて言いました。(28節)「わたしの主、わたしの神よ」
 
   イエスは神
 
 トマスはその時、イエスを「神」と呼びました。実を言いますと、聖書ではイエスさまのことを「神の子」と読んでいる箇所は多くありますが、直接「神」と呼んでいる記述は少ないんです。しかしこのヨハネ福音書では、2箇所でイエスさまのことを直接「神」と呼んでいるんです。
(1:18)"いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。"
 「独り子である神」、すなわちイエスが神であると述べています。そして洗礼者ヨハネから始まるイエスさまの物語を書き始めているのが、このヨハネによる福音書です。そして次にイエスさまが神であるという言葉が出てくるのが、今日の箇所です。トマスの口を通して語られています。
 (20:28)"トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。"
 そのようにヨハネ福音書は、イエスが神の独り子である神であると書いて、イエスさまの働きの物語を始めた。そして十字架と復活を経て、再びイエスが神であると書いているのです。すなわち、この福音書は、イエスさまが神であることを証しする書物であるということです。そのことが31節にも述べられています。
(31節)これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
 イエス・キリストを信じて、命、永遠の命を受けるためである。
 
   イエスが神であるということ
 
 イエスさまが神であるということは、日本人にとってはあまりふしぎではないかもしれません。なにしろ八百万の神の国です。人間が神になったケースはいくつもあります。明治天皇も神となって祀られているのが明治神宮。平安時代の菅原道真が祀られているのが天満宮とか天神様で、学問の神として受験生がお参りします。明治時代の将軍、乃木希典が神となったのが乃木神社‥‥という具合です。昭和天皇は戦争中は「現人神」と呼ばれましたが、戦後になって「人間宣言」をしました。このように、誰でも神さまになり得るのが日本ですから、イエスさまも神であると言っても多くの人は、「そういうこともあるだろう」で終わりでしょう。不思議とは思わない。
 これは、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていったギリシャ、ローマ世界も同じです。ローマ帝国では、まさに皇帝が現人神になりました。事情は同じです。
 しかし「神」と言っても、その「神」の中身が違う。聖書が言う神は超越者です。天地宇宙万物を造られた神、全能者、創造者である方を神と呼んでいるからです。そのことをこのヨハネの福音書の冒頭、1章1節から書き始めていたことを思いだしてください。
(ヨハネ 1:1〜3)初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 この「言」と書かれた者がイエスさまのことを指していたことを思い出してください。父なる神と共に天地宇宙全てのものを造られた方、独り子なる神である方、それがイエスさまであるということ。そのことを、観念的に語ったのではありません。イエスさまが何を語り、なにをされたか、それをヨハネ福音書はずっと書いてきた。イエスさまの足取りを追ってきました。そして十字架にかかられた。そして復活された。そのすべてのイエスさまの働きを通して、トマスはイエスさまのことを「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。
 イエスさまはトマスにおっしゃいました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)
 私たちは、実際にイエスさまを見た弟子たちをうらやましいと思います。幸いだなあ、と思います。しかしイエスさまは、見ないのに信じる人は幸いだとおっしゃいました。つまり実際のイエスさまのお姿を見ないで信じる、この私たちのほうが幸いだとおっしゃったのです。そのイエスさまは、日曜日のこの礼拝に、見えませんけれどもたしかに共にいてくださる。このあと聖餐式をいたしますが、私はイエスさまの代理として聖餐の司式をするに過ぎません。実際にはイエスさまが聖餐式において、その食卓に招いてくださるんです。ご自分の命を受け取って生きるようにと。そのことを信じることができます。


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