2026年2月22日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ホセア書6章2〜3
    ヨハネによる福音書20章19〜23
●説教 「証しの傷」小宮山剛牧師
 
 レント、すなわち受難節に入りました。レントの期間は、典礼色は紫となります。それでこちらの聖書台のカバーも紫色のものに取り替えました。紫は悔い改めを表す色で、クリスマス前のアドベント(待降節)の期間も同じ紫色が使われます。もちろん、悔い改めはそれらの期間だけするものではなく、ルターが言ったようにキリスト者の人生は日々悔い改めであるべきです。また、「悔い改め」という言葉は、世間では反省して行動を改めることを言いますが、聖書では自分の罪を認め、神さまの方を向く、神さまのもとに立ち帰るという意味です。レントの時だけ悔い改めるというのではありませんが、キリストのご受難を憶えつつ、私たちの信仰生活を省みる。そして復活を待ち望む気持ちで、御言葉に親しみ、祈りの生活に励みたいと思います。
 
   鍵をかけていた
 
 さて、ヨハネによる福音書ですが、十字架にかけられて死なれ、墓に葬られたイエスさまがよみがえられた。すなわち復活されました。そして墓の前でマグダラのマリアにその姿を現された、というのが前回です。前回はそのように、マグダラのマリアという一人の人に、一対一で出会ってくださるキリストの姿でした。そして今日の箇所では、弟子たちが集まっているところに復活されたイエスさまが現れます。集まっているところに、です。ここにやはり意味があると思います。
 何か久しぶりに弟子たちの集団が登場します。イエスさまのお母様であるマリアと共に十字架のもとにいた弟子、おそらくこの福音書を書いたヨハネを除いては、本当に久しぶりです。時間的には木曜日の夜から日曜日の夜までですから、3日間のことに過ぎません。しかしその間にイエスさまは十字架につけられ、死なれ、墓に葬られるというできごとがありました。時間的な長さよりも、その間に起こった出来事を考えると、やはり久しぶりの登場と言えるでしょう。
 その間、弟子たちはどうしていたか?‥‥自分たちのいる家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたというのです。どうしてそのようにしていたかというと、ユダヤ人を恐れてのことだと書かれています。イエスさまを十字架に追いやったユダヤ当局が、今度は自分たちを捕まえにくると思っていたというわけです。なんという情けない弟子たち!自分たちの主であり、師である方が十字架で死なれるという一大事が起きたというのに、この有様です。もう愛想も尽きようというものです。
 しかもこの日の朝、墓に行った婦人の弟子たちから、イエスさまの墓が空っぽになっていたことを聞かされていました。そしてペトロともう一人の弟子が墓に駆けつけてそのことを確認しました。そしてさらにそのあと、マグダラのマリアから、イエスさまがよみがえったということと、イエスさまからのメッセージを聞かされていた。にもかかわらず、このように鍵をかけて閉じこもっている。恐怖に震えている。信じられなかったんです。
 しかし私たちは、この弟子たちの姿を笑うことはできません。私たちも聖書から常にイエスさまのメッセージを聴いています。力強い御言葉もいただいています。しかしやはりこの世の現実を生きていると、現実に振り回されてしまう。不安や心配でいっぱいになってしまう。弟子たちと同じように弱い自分がいる。そう思うと、この弟子たちの姿は、私たちの姿でもあると思います。
 弟子たちが閉じこもっていた理由は、ユダヤ人当局を恐れてと書かれていますが、他にも理由があったと思います。それはイエスさまを見捨てたことヘの罪責感です。イエスさまのためなら命を捨てると言った弟子たち。その自分たち自身の言葉を裏切った。そしてイエスさまを見捨てた。そのことへの罪責感です。自分自身の罪に打ちのめされている。自分に対する絶望です。そしてすべてを恐れ、閉じこもっている。マグダラのマリアが告げた、イエスさまが復活され出会ったといったメッセージは、とうてい信じがたいものと思えた。上の空です。
 
   イエスの登場
 
 そこにイエスさまの登場となります。玄関の扉には鍵をかけていたのに、です。扉あるいは壁を通り抜けて入って来られたのか? しかし聖書には、通り抜けてとは書かれていません。ただイエスさまが来たと書かれているだけです。だから前回も申し上げたように、復活とは幽霊ではないんです。この鍵がかかっている家に来られて、弟子たちの真ん中に立たれた。これはイエスさまが神であることの現れとしか言えません。
 鍵がかけていてもイエスさまは来られた。‥‥このことは、私たちが閉じこもっていても、誰も入って来られないような心の中にも、イエスさまは近づいてくることがおできになることを表しています。
 そしておっしゃいました。「あなたがたに平和があるように」(19節)。常々申し上げておりますが、この「平和」は「平安」と訳しても良い言葉です。両方の意味がある、祝福の言葉です。日本語では「あなたがたに平和があるように」と長く訳していますが、実はヘブライ語では単語一つ、「シャローム」です。そしてこれも常々申し上げておりますが、「シャローム」とはユダヤ人のふつうのあいさつの言葉です。朝でもシャローム、昼でもシャローム、夜でもシャロームです。ですからここは単に「こんばんは」と訳してもいいんです。夜だから「こんばんは」。
 弟子たちが閉じこもっている家に現れて、「こんばんは」とおっしゃった。なんだか普通ですね。まるで何事もなかったかのように、あいさつの言葉をおっしゃった。続けてイエスさまは、手と脇腹を弟子たちにお見せになりました。
 手と脇腹‥‥両手には、十字架につけられたときの釘の穴が開いていました。脇腹には、イエスさまが死んだかどうかを確かめるためにローマ兵が槍で刺した痕が開いていました。まるで、「ほら、見てごらん。たしかに私だろ?」と親しみを込めておっしゃっているかのようです。笑顔と共に「大丈夫だよ」とでもおっしゃるイエス・キリストを想像できます。
 ただ、その十字架の傷跡は何のためであったのかを、無言のうちに弟子たちに示しておられる。そして、弟子たちの前に現れたイエスさまは、ひとことも弟子たちを責めていません。「お前たちはよくも私を見捨てて逃げたな」などとおっしゃっていない。ひとことも責めておられないんです。完全に赦されている。そもそもそのような弱い弟子たちであることを、あらかじめご存じであられた。その弱さを抱えた弟子たちであることをご存じでありつつ、赦してくださっていることが明らかとなっています。復活のイエスさまにお会いしたことによって、そのことが明らかになっています。
 
   聖霊と罪の赦しの権威の付与
 
 そしてイエスさまはもう一度あいさつの言葉を言われました。「あなたがたに平和があるように」。シャロームを二度言われたことになります。そうするとここのシャロームは、「こんばんは」と訳すよりも、言葉本来の意味である「平和があるように」あるいは「平安あれ」と訳したほうがよいでしょう。儀礼的なあいさつの言葉ではなく、本来の言葉の意味が、復活のキリストによって現実となったのです。
 続けておっしゃいました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。父なる神さまがイエスさまをこの世にお遣わしになった。この世の人々を救うためです。それと同じように、今度はイエスさまが弟子たちを遣わすとおっしゃいました。この世を救うためです。この弱い弟子たちにそんなことができるとおっしゃるのか?
 すると次の節が続きます。(22〜23節)そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 弟子たちを、ただ世界に向かって遣わされるのではない。聖霊を与えた上で遣わされる。しかし聖霊が与えられたのは、イエスさまの昇天のあとのこと、使徒言行録2章のペンテコステの時のことではなかったでしょうか? だとすれば、今日の聖書箇所でイエスさまがおっしゃった「聖霊を受けなさい」という言葉は、その予言であると言えるでしょう。すなわち聖霊は、十字架にかかって死なれ、復活されたイエス・キリストによって与えられるということを示しておられるのです。
 聖霊は、イエスさまの十字架なくしては与えられない。神の子にして人の子であるイエスさまが、その尊い命を十字架で献げられたことによって、聖霊なる神さまがイエスさまによって救われた者に与えられる。そのことがはっきりいたします。
 そしてここでイエスさまは罪の赦しの権威をお与えになりました。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。
 この罪の赦しの権威は教会に与えられたものです。天国の扉を開ける権威です。個人に与えられたものではありません。たとえば、イエスさまはマタイによる福音書で、次のようにおっしゃっています。
(マタイ 16:18〜19)「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
 イエスさまのことを生ける神の子キリストです、と告白したペトロに対してこのようにおっしゃいました。イエスを神の子キリストであるという信仰告白の上に教会を建てられました。その教会が、罪の赦しの権威を与えられたのです。そしてその教会に天国の鍵を与えられたのです。具体的には、キリストを信じると告白した人に洗礼を授ける。それは罪の赦しです。救いの宣言です。天国への扉を開けるのです。
 
   教会
 
 先週のところでイエスさまはマグダラのマリアに復活の栄光の姿を現されました。そして今日は弟子たちが集まっているところに、その姿を現されました。弟子たちが集まっている、それは教会のことです。「教会」という言葉のギリシャ語「エクレシア」は、「集まり」という意味の言葉です。それは単なる集まりではありません。神に呼び出された者たちの集まりです。
 墓の前でマグダラのマリアに復活の姿を現されたイエスさま。それは一対一のお姿です。一人一人を見ておられるイエスさま、「あなた」と「わたし」という一対一の関係で青いくださるイエスさまを表していました。
 そしてきょうは、弟子たちの集まり、すなわち教会の中に現れ、使命を与えるイエスさまの姿です。すなわち、私たち一人一人と出会ってくださるキリストは、その私たちを教会へと導かれ、結びつけられます。そしてそこに聖霊が与えられる。すなわち、生けるキリストが共にいてくださるようになる。一人一人と出会われるキリストは、その私たちを教会へと、すなわちキリストの体へと導かれるのです。
 
 私の尊敬する先輩牧師である軽込先生の証しが、以前「福音主義教会連合紙」に載っていました。それによりますと、先生は子どもの頃、頸椎カリエスのためにほとんど病床で過ごされたそうです。小学校2年生の時から学校生活をしたことがなかったそうです。いつこの病気が治るのか、治ったとしても遅れてしまった学校教育はどうなるのか、考えても答えは見つからない。誰に対してこのいら立ちをぶつけたらよいのか、誰に対して祈ったらいいか分かりませんでした。いろいろな宗教の人がやって来たそうです。しかし心は動かなかった。
 そしてストレプトマイシンという結核の特効薬のおかげで病気が治り、ギプスをつけてではあるけれども学校に戻れました。中学3年に編入し、高校にも進学できたそうです。そのとき18歳になっていました。当初は、病気が治りさえすればすべてがうまくいくように思っていたので、天にも昇るような思いでした。しかし、いろいろな活動ができるようになって、かえって、心の中に何か隙間のようなものが生じてきたそうです。そのような時、クリスチャンの友人から、「これから教会に行くが君も行くかい?」と誘われた。それが私の初めての礼拝出席であり、その礼拝出席が決定的だったそうです。その日は、東京から来た牧師さんの特別伝道礼拝でしたが、話はさっぱり分からなかった。しかし、先生の遍歴はそこで終わったそうです。その礼拝で、私の責任を取ってくれる方に出会った。「私がお前の全責任をとる、私にぶつかって来い」とおっしゃってくださる神に出会ったと述べておられます。洗礼を受けたのは、次の年のイースターですが、先生の中では、最初の礼拝の時、洗礼を受けることは心に決めていたそうです。
 一人の若者に一対一で出会ってくださるキリスト。そのキリストは、教会という弟子たちの群れに結びつけられる方です。
 教会はあってもなくてもどちらでも良いものではありません。なくてはならないものなのです。御子イエスさまが、命を投げ打って救われた。それと引き換えに聖霊を与えてくださり、教会を建てられたのです。その尊い教会で私たちは主を礼拝しています。


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