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2026年2月15日(日)受難節前主日 逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩篇16編10〜11
ヨハネによる福音書20章11〜18
●説教 「振り向けば主」 小宮山剛牧師
テレビではイタリアでの冬のオリンピックたけなわで盛り上がっていますけれども、教会の暦では本日が「受難節前主日」、今週水曜日からレントに入ります。日本語でのレントの呼び方はいろいろありますが、プロテスタント教会ではおもに「四旬節」とか「受難節」と言っています。主イエスのご受難を覚える季節です。
しかし私たちの逗子教会では、ヨハネによる福音書をずっと読み続けてきて、ちょうどイエスさまの復活の場面になっています。ですから受難節の時に復活の聖書箇所を読んでいくことになります。なにかズレているように思う方もおられるかも知れません。しかし、キリストの復活がなければ、イエスさまの生涯は、せいぜい単なる英雄物語にすぎません。本棚に並ぶ伝記本の一冊にもならないかもしれません。「昔そんな人がいた」という程度のエピソードで終わってしまうことになります。
しかし私たちが今読んでいるように、聖書が聖書であるのは、イエスさまの復活があるからです。そしてその復活からさかのぼって見たときに、初めてイエスさまの十字架が意味を持ちます。反対に未来に目を向ければ、イエスさまの復活があるからこそ、永遠の神の国、天国に至るからです。いずれにしろ、この復活に私たちの救いのすべてがかかっているんです。
前回申しましたように、イエスさまの十字架の死によって、いったん幕が降りました。イエス・キリストの物語は終わったように見えた。しかしその幕が再び開いた。それがこの20章です。
死の方を向いているマリア
イエスさまが葬られたはずの墓が空になっていた。そしてヨハネによる福音書は、マグダラのマリアという人に焦点をあてます。マリアという名前はたくさん出て来ます。イエスさまのお母様もマリアです。他にも福音書には多くのマリアが出てきます。ここではマグダラのマリアのことです。
イエスさまの遺体がない。驚いたマリアは、弟子たちが集まっていた家に行って、そのことを告げました。するとペトロとヨハネの二人が墓に駆けつけました。そして墓が空っぽであることを確認しました。しかし、二人は、キリストであるイエスさまが復活するという聖書の預言を悟ることができませんでした。
マリアはまた墓に戻ってきました。なぜまた墓に戻ってきたのでしょうか?‥‥今日の箇所を読むと、「マリアは墓の外に立って泣いていた」(11節)と書かれています。イエスさまの遺体を失って、途方に暮れているように見えます。しかし他に行き場所がないようです。かつてイエスさまによって七つの悪霊を追い出してもらったマリア。大きな苦しみと深い絶望の中で、多くの罪を赦していただいたマリア。せめてイエスさまの遺体を捜さなくては、との思いから墓に戻ってきたのでしょうか。しかし、かといってどこをどう捜したらいいのかまったく分からない。
遺体は、イエスさまが生きて存在していたという唯一の証しです。なぜならイエスさまは無一物だったので、遺品というものがない。もちろん写真もない時代です。生きていた唯一の痕跡である遺体がなくなってしまったら、何もなくなってしまう‥‥。それで途方に暮れている。そういう涙ではなかったでしょうか。
そしてあらためて墓の中をのぞくと、白い衣を着た二人の天使が見えた。天使の登場です。しかしマリアは驚いているようではない。この天使ですが、他の福音書ではどうなっているかというと、マタイ福音書でも「天使」となっていますが、マルコ福音書では「若者」となっています。ルカ福音書では「二人の人」となっています。おそらく若い人が二人見えた。しかしあとになってから、あれは天使だったと気がついた、ということでしょう。見た目には、ふつう天使も人間も変わらないからです。
その天使がマリアに語りかけました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。「なぜ泣いているのか?」と語りかけていますが、マリアが悲しくて泣いているのは分かっていたと思います。ですから「なぜ泣いているのか」というのは、泣いている理由を尋ねているのではなくて、「もう泣く必要はないではないか」という意味で語りかけているんです。
しかしマリアのほうは理解できなかった。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(13節)と、単純に答えています。
イエスの現れ
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった(14節)。
ヨハネによる福音書では、前回の個所では空っぽになっていた墓について書くだけで、よみがえったイエスさまは現れていません。しかしここでついに、よみがえられたイエスさまが現れます。しかしはじめマリアはそれがイエスさまだとは分からなかった。まるでルカ福音書のエマオへの道のイエスさまのようです。あのときも、いつの間にか二人の弟子と共に歩いている人がイエスさまだとは分からなかった。そしてこの箇所でも、マリアは最初それがイエスさまだとは分からなかった。
これはいったいどういうことでしょうか?‥‥復活のイエスさまが、以前とは少し見かけが違っているという考え方もあります。あるいはまた、よもや十字架で無残な姿で死んでしまわれたイエスさまが、よみがえるということなどあろうはずがないという先入観で、それがイエスさまだとは分からなかった、と考えることもできます。
よみがえられた復活のイエスさまはマリアに言葉をおかけになります。「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」(15節)。天使がかけた言葉と同じです。もはや泣く必要もないのだよ、捜す必要もないのだよ、と。しかしマリアは、それがイエスさまだとは分からず、園丁だと思った(15節)。
園丁、つまり庭師ですね。こちらは17世紀の有名な画家レンブラントが描いた、この場面の絵です。レンブラントはこの場面を他にも描いていますが、こちらのほうがおもしろい。おもしろいというのは、拡大して見ると分かりますが、こちらのイエスさまは麦わら帽子をかぶり、手にはシャベルを持っています。つまり本当に園丁の格好をしている。つい今まで、本当に園丁の仕事をしていたかのようです。これはレンブラントのユーモアかも知れません。
しかし私はこの絵を見ながら、ふと思いました。つまり、イエスさまはこの日の朝よみがえられてから、マリアに姿を見せるまで何をなさっていたのかな?‥‥と。皆さんは気になりませんか?‥‥その辺を散歩されていたのか。あるいはどこかに隠れておられたのか。‥‥そう考えると、マリアが園丁だと思ったと書かれていることから、もしかしたら本当にこの園の手入れをなさっていたのかも知れないな、と思いました。
園丁というと、創世記の最初に出てくるエデンの園を思い出します。まだ人間が罪を犯す前、神さまが造られたエデンの園で人は生活していました。そしてこう書かれているんです。(創世記2:15)「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」
皆さん、天国では暇だと思っていませんか?永遠に。もちろん、ヨハネの黙示録に書かれていますように、天国では直接神さまイエスさまの前で礼拝していることは分かります。しかし四六時中礼拝しているようでもない。あとは暇なのか?‥‥そうすると、人間が罪を犯す前のこのエデンの園について書かれていることが参考になります。神さまは、ご自分がお作りになった人間をエデンの園に置かれましたが、その園を耕すようにして働くという役目を与えられました。天国は暇を持て余すところではありません。礼拝の他にも、することがあるんです。イエスさまと共に働くということが。
マリアは復活されたイエスさまを見て、園丁だと勘違いした。案外それは天国を予言的に表しているのかもしれません。
ともかく、マリアはその人がイエスさまであることが分からない。つまりそれぐらい、復活ということは信じがたいこと、ありえないことだということです。そのリアルさ、実際にそうだったということが、ここによく表れています。マリアは続けて言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(15節)。つまり、あの方イエスさまの遺体を私のもとに返してくださいと。
一対一
そのときイエスさまがおっしゃいました。「マリア」と。マリアの名前を呼ばれたのです。私たちが人の名前を呼ぶときはどんな時でしょうか? それはその人に言いたいことや、用事があるときですね。誰でもいいんのではない。名を呼んだその人、あなたに言う、という時です。
例えば学校の授業中、学生がおしゃべりしたり騒いだりしているときに、「静かにしなさい!」と大きな声で言っても静かにならないことが多い。けれども、おしゃべりをしているその震源地である中心人物を見つけ、その学生の名前を呼ぶ。そして授業内容についての質問をしたり、聖書を読ませたりする。そうすると静かになるんです。「みんな」ではダメなんです。けれども名前を呼ぶと、「私のこと」だということが分かる。
「マリア」と呼ばれた。「皆さん」ではないんです。あなたです、あなた。
このことは、イエスさまが私たち一人一人に語りかけ、接してくださる方である方であることを表しています。聖書のイエスさまを見て、「どうせ私は関係ないよね」と思わないでください。イエスさまは「あなた」に近づいてくださっているんです。
マリアは名前を呼ばれて、ハッとして振り向きました。振り向いた。振り向いたということは、今まではお墓のほうを見ていた。死んだイエスさまが葬られていたお墓のほうを。つまり死を見ていたんです。イエスさまが死んだという現実を見ていた。
しかしそのマリアが見ていたのとは180度反対のほうに、よみがえられたイエスさまがおられたんです。言い換えれば、マリアは絶望のほうを見ていた。しかしその反対のほうにイエスさまがいた。絶望から振り向いた反対のほうに。つまり希望のほうにイエスさまがおられた。私たちが思い込んでいるのとは反対のほうにイエスさまがいた。思っても見なかった側に、イエスさまはおられる。そしてそちらを振り向くように、声をかけてくださる。私たちは「これこれこうだから、こうにちがいない」と思い込みますが、それとは反対の側にイエスさまはおられる。
マリアは「ラボニ!」(先生)と言いました。イエスさまはおっしゃいました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。
さて、マリアはイエスさまにすがりついたのでしょうか?‥‥これは、すがりついたと見るべきだと思います。それは「まだ父のもとへ上っていないのだから」という理由の言葉をみると分かります。もうしばらく地上にいるよ、今すぐ天の父なる神のもとに行くのではないよ、と。だいたい、ご婦人にすがりつかれたら、イエスさまだってお困りになるでしょう。ですからここは、「おいおい、気持ちは分かるけど、よしなさい」といった感じではないでしょうか。
しかし、私はこのやりとりを解説するのが目的で言っているのではありません。すがりつくという行為に注目してください。すがりついたんです。つまり復活されたイエスさまには、まぎれもなく体があったんです。幽霊ではないんです。墓が空っぽになっていた。これも体がなかったということです。そしてすがりついた。つまりすがりつく体があった。その体とは、朽ちていく肉の体ではない。使徒パウロが書くように、朽ちることのない霊の体でしょう。しかしとにかく体という実体が伴っている。
このイエスさまの復活、体を伴った復活が、聖書の語る永遠の命というものです。幽霊になるのではない。朽ちることのない新しい霊の体として復活する。以前とは少し姿形も変わっているかも知れないけれども、みずみずしい、新しい生き生きとした命の体です。
弟子たちへの伝言
イエスさまは、マリアに対して弟子たちへの伝言を託しました。弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられます。イエスさまを見捨てて逃げて行った弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と。そしてマリアに託された伝言は、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」ということでした。
イエスさまの父は神さまです。そのイエスさまの父が、「あなたがたの父」と呼ばれています。イエスさまをとおして、創造主なる神さまが、私たちの父となられた。
イエスさまはそのように弟子たちへの伝言をマリアに託しました。イエスさまの言葉をマリアを通して弟子たちに伝えさせたんです。しかしそんな伝言を頼むよりも、イエスさまが直接弟子たちのところに行けばいいのではないでしょうか?
しかしここにもう一つのポイントがあると思います。つまり、まずイエスさまの言葉が語られる。それから実際にイエスさまが現れる、という順序です。私たちも今聖書の言葉を読んでいます。聞いています。まず言葉が語られ、それを聞く。それから事実が起きるという順序です。すなわち、わたしたちが聞いている聖書の言葉、イエスさまの言葉は、次に実際にその通り起きるという言葉なんです。そんな尊い言葉を私たちは読み、そして聞いているんです。すばらしいことだと思いませんか?
みことばを受け入れる者でありたいと思います。
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