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2026年2月8日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 サムエル記上2章6
ヨハネによる福音書20章1〜10
●説教 「きざし」小宮山剛牧師
納骨式執行
ひそかにイエスさまを信じていたアリマタヤのヨセフとニコデモ。これまでイエスさまを信じながら、そのことを隠していたふたりは、イエスさまが十字架上で亡くなったあと、懺悔をするかのように駆けつけて、手厚く葬ったのでした。
墓に葬る。現代の私たちで言えば、納骨です。私はこれまで多くの納骨式を司ってまいりました。それらの方々のお名前を見ておりまして、お一人お一人のなつかしい思い出もよみがえってきました。そこには、一人一人異なる人生があったことも思いました。
逗子教会のお墓の墓誌には、葬られた方々の名前が刻まれています。最初のほうに刻まれている方々のことは私にはほとんど分かりませんし、ここにいらっしゃる方々の多くも分からないでしょう。そのように、刻まれた名前は刻々と過去に遠ざかっていく。時間の彼方に行ってしまいます。
そして墓はまた、今生きている私たちもやがて行く場所でもあります。命というもののはかなさを思わざるをえない。それが墓という場所です。生物学的には、死をもって命は終わりです。冷酷とも言える現実です。もはや骨となってしまった故人を前にして、納骨式で何を語ることができるでしょうか。しかし私たちは、聖書に記されている力強い出来事、すなわち復活を語ることができます。そしてそれに続く永遠の命を語ることができます。その根拠が、今日の聖書箇所から始まる場面です。
墓へ
イエスさまも死んで墓に葬られました。私たちと同じです。そのように人の子としてこの世におうまれになった神の子が、私たちと同じように死なれた。そして墓に葬られた。このことに、最後まで私たちと共に歩んでくださるイエスさまの姿があります。ふつうであれば、死と葬りの場面をもって、舞台の幕は閉じられるはずでした。そして舞台であれば、カーテンコールとなり、登場した役者たちが勢揃いしておじぎをする、ということになります。
ところがここで再び幕が開きます。なぜ幕が開いたのか?‥‥そういう謎を読者に与えつつ、コトは進行していきます。場所は再び墓場です。
現代の日本であれば、墓では、すでに葬儀の時のような涙はなく、なつかしい思い出だけが浮かんでくる場所です。しかし当時のユダヤでは、亡くなったら遺体の腐敗が始まる前に墓に納めました。ですから埋葬と葬儀が同時進行するような状態です。イエスさまがよみがえらせたラザロが墓に葬られたとき、多くの人々が墓のそばで泣いていたのと同じです。しかし遺体がすでに墓の中に納められていることには違いありません。もう終わったのだ、ということには違いがない。
しかし新しい幕開けが、1節の言葉で始まります。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」 週の初めの日というのは日曜日です。
さてここで、このときイエスさまの墓に行った人は他にもいたのではないかと思った方は聖書をよく読んでいる方です。他の福音書ではどうなっているかと申しますと
(マタイ)マグダラのマリアともう一人のマリア
(マルコ)マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ
(ルカ)マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、他の婦人たち
(ヨハネ)マグダラのマリア‥‥ただし2節に「わたしたち」
となっています。ですからヨハネ福音書でもマグダラのマリアだけが早朝に墓に行ったのではないことが分かります。しかしいずれもマグダラのマリアが墓に行ったことは共通して書いています。そしてその名前を最初に書いている。
このヨハネ福音書でも他に一緒に行った婦人たちがいたことを前提にしつつも、マグダラのマリアという一人の女性に焦点を絞っている。すなわち、一人の人と復活のイエスさまとの出会いに的を絞って書いているんです。それはあたかも、あなたとイエスさまという、一対一の関係の出会いがあるのだと語っているかのようです。マグダラのマリアとイエスさま、あなたとイエスさま、私とイエスさま‥‥ということです。そのように一人一人に出会って下さる復活のイエスさまにクローズアップしています。
マグダラのマリアたちは何をしにこんなに早く墓に行ったのでしょうか?
マルコ福音書やルカ福音書では、イエスさまの遺体に香料を塗るために行ったと書かれています。しかしヨハネ福音書では、理由を書いていません。つまり香料を塗ることよりも、イエスさまの葬られた墓にどうしても行きたい、早く行きたいという彼女の気持ちを前面に出しています。「朝早く、まだ暗いうちに」(1節)という表現が、そのことを表しています。また「まだ暗いうちに」という書き方は、マリア自身が暗闇の中にいたことを暗示しているように読めます。
マグダラのマリア
さて、このマグダラのマリアという女性は、一体どういう人だったのでしょうか?
聖書は多くを語っていません。こちらは16世紀、エル・グレコが描いたマグダラのマリアです。「マグダラ」というのはガリラヤ湖のほとりの町です。ですからそこの出身であることは分かります。また、12弟子らと共にイエスさまに従っていたことが分かります。次のように書かれています。
(ルカ8:1-3)「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」
この中で「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と書かれています。悪霊はサタンの側の霊です。そして人間を苦しめます。病気や様々なことを通して苦しめる。それが彼女については「七つの悪霊」と書かれています。「七」は聖書では完全数です。完璧に、というような意味があります。だから彼女は以前は完全に悪霊に支配されていた。これでもかと言うほどの苦しみの中にいたということが想像できます。
彼女については、他にもこの人のことではないかという説があります。それは、ルカ福音書の7章の36節からのところに出てくる「罪深い女」というのがマグダラのマリアであるという説です。そこには名前が出てきません。ただ「一人の罪深い女」と紹介されているだけです。「罪深い女」とは、一般に「娼婦」のことであるとされています。イエスさまがファリサイ派の人の家に招かれて、その人の家で一緒に食事をした。そこにこの女が入ってきました。そして涙を流しながら、香油をイエスさまの足に塗った。ユダヤ教の律法に厳しいファリサイ派の人々はこれを見て、この女性を「罪の女」と決めつけ、見くだしました。それに対してイエスさまは、「多く赦された者が多く愛する」とおっしゃっいました。そして、この女性に罪の赦しを宣言したのです。‥‥この娼婦であった「罪深い女」というのがマグダラのマリアであるという説です。
特にこの娼婦であった女性に対するファリサイ派の先生たちの偏見の目、非難の目をイエスさまが弁護しておっしゃった言葉、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(ルカ7:47)という御言葉に私は注目します。なぜなら、マグダラのマリアは、この「罪深い女」と人々が軽蔑した女性のとった行動とたいへんよく似た行動をとっているからです。
マグダラのマリアは、イエスさまの十字架の前に再び出てきます。彼女はイエスさまが十字架につけられていた時にそばにいた一人として名前が挙げられています。そこに、イエスさまに対する愛を見ることができます。多く赦されたから、多く愛する。‥‥私たちも多く赦されているはずです。マグダラのマリアだけが多く赦されているのではなく、私たちもマグダラのマリアと同じだけ多く赦されているに違いない。しかし、私たちは、多く赦されているのに、「多く赦された」ということがなかなか分からない。だから十字架を見ても感動がない。聖餐式にあずかっても感動が少なくなってしまう。
マグダラのマリアは、多くの罪を赦していただき、多くの恵みを頂いているはずの私たちの代表として墓場に行ったということもできます。
空の墓
すると彼女は、墓から石が取りのけられているのを見た。当然墓の中をのぞいてみたことでしょう。するとイエスさまの遺体がなくなっていた。彼女は驚いてこのことを弟子たちの所に知らせに行きます。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
弟子たちはどこにいたかと言いますと、これはこのあとのほうの18節に書かれているんですが、ユダヤ人当局を恐れてある家の中で玄関の戸に鍵をかけてこもっていたんです。なんとも情けない姿です。
そこにマグダラのマリアらのニュースが飛びこんできた。それで、シモン・ペトロともう一人の弟子(これはおそらくこの福音書を書いたヨハネ自身のことであることは前にも申し上げました)が墓に駆けつけた。そして墓の中にイエスさまの遺体がないことを確認する。イエスさまに巻かれていた亜麻布だけがそこにあった。
信じたのに信じない
その時、もう一人の弟子、つまりヨハネがそれを「見て、信じた」と書かれています。見て信じた。何を信じたんでしょうか?
イエスさまが復活した、つまりよみがえったことを信じたんでしょうか?‥‥それは違います。というのは、その続きの9節に書かれているからです。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」
ヨハネは復活を信じたのではない。では何を信じたのでしょうか?‥‥イエスさまが墓から取り去られた、というマリアの言葉を信じたのでしょうか? それはちょっとおかしいです。そのようなことでわざわざ「信じた」という言葉をこの福音書が使うはずもありません。そうするとヨハネは、イエスさまの遺体を神が取り去られたことを信じたのではないでしょうか。
例えば旧約聖書には次のような記述があります。
(創世記 5:24)"エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。"
(列王記下 2:11)"彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。"
このように書かれていることをもちろんヨハネは知っていたでしょう。だからイエスさまの遺体がなくなったのは、盗まれたのではない。神さまの所に行ったのだと信じたのではないかと思います。ただし、聖書に予言されているように信じたのではない。すなわち復活されたことを信じたのではなかった。まだ聖書の預言を二人は理解していなかった。そこまで聖書を信じることができないでいた。
このことは他人事ではありません。私たちはどうでしょうか? 私たちも聖書を読んでいます。礼拝で聖書のメッセージを聞いています。しかしそれが現実の中で力を持つ言葉として信じているかと言えば、どうでしょうか。
例えば本日の『ローズンゲン』の言葉、くじ引きで選ばれた旧約聖書の言葉は、新しい共同訳の言葉ですが、詩編128編3節の言葉が書かれています。新共同訳聖書の訳とは違っていますが。‥‥「主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。」
私たちは、この言葉が本当に私たちに与えられた言葉と信じているでしょうか。本当に信じているなら、主は私たちに大きな業を成し遂げてくださったんです。そんな気がするとかしないとかいう問題ではない。主は私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちが気がつかないところで。そう信じるということです。今の私には理解できなくても、です。それを信じるのなら、きょうも私たちは喜んでいいのであります。
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