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2026年1月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
■聖書 エゼキエル書47章1〜9
ヨハネによる福音書19章31〜37
■説教 「命の水の源」小宮山剛牧師
慣れと惰性
「逗子に来られてから何年ですか?」と、たまに聞かれることがあります。そうすると頭の中で「ええーと、2011年にこっちに来たんだから、15年目か」と計算して、「15年目になります」と答えます。そう言ってみて、自分でもうそんなにたつのか、と感慨深く思うというのが、この質問をされたときのパターンになっています。
そんなに長くいるのに、私は2年前まで冬になると自動車のタイヤを雪道用のスタッドレスタイヤに換えていました。もちろん自動車屋さんなどで換えてもらうのではなくて、自分で換えます。これも習慣です。そのように冬になるとタイヤを交換するというのが習慣になっていました。しかし一昨年になってようやく「待てよ、こっちは冬は雪がほとんど降らないし、降ったとしても、冬用タイヤに交換していない車が多いだろうから、そういう車がすべってきて事故をもらうことになるから、あぶなくて走れないよな」‥‥ということに気がついて、タイヤ交換をするのをやめました。もっとも、この冬は先月雪のある所に出かける予定があったのでタイヤを換えましたけれども。
習慣というのは身についていますので、何も考えなくていたします。だから習慣は惰性になるとも言えます。そのことを思ったとき、信仰生活は単なる習慣になってしまうと、惰性になってしまうなと思いました。いつも新しい気持ちで神さまの新しい恵みをいただく思いで、礼拝し、聖書を読みたいと思います。
イエスの死の確認
さて、本日の聖書から恵みを分かちあいましょう。先週の聖書箇所で、イエスさまが息を引き取られました。十字架上で亡くなられた。その続きが今日の聖書箇所です。
その日は「準備の日で、翌日は特別の安息日であったので」と書かれています。これはなんの準備の日かといいますと、過越祭の準備の日ということです。過越祭は、イスラエルの三大祭の中でも最も大切な祭儀であると言えます。そして翌日は特別の安息日。過越祭が始まる。過越祭は八日間ほど続くんですね。「翌日」とありますけれども、ユダヤでは日没から翌日が始まります。この時はちょうど春分の日の近くですから、だいたい午後6時から翌日が始まります。
安息日が始まりますと、戒律によって、何も作業ができなくなります。だから日没までに十字架上の死刑囚を取り下ろしたい。そしてたいせつな過越祭を、十字架上に死刑囚がいない状態で迎えたい。なぜならユダヤ人にとって、死は穢れだからです。そういうわけで、ユダヤ人たちは総督であるピラトに、十字架上の死刑囚の足を折って取り降ろすように、総督ピラトに願い出た、書かれています。
ここで、なんで足を折るかということですが、足を折ると死ぬんです。と言いますのは、十字架にかけられた人というのは、十字架に両手と足を釘で打ちつけられて、つるされているわけです。そこで足を折ると、体重が足の釘で支えていたものが、それが支えられなくなって、両手の釘で支えることになる。そうするとすでに弱っていた体ですから、呼吸ができなくなるそうです。具体的には、胸の筋肉が引っ張られて、息を吸うことができなくなるのだそうです。そうして死ぬ。
ですからユダヤ人たちは、十字架上の死刑囚の足を折って、早く殺してくれということを求めことになります。そして、ローマ兵はイエスさまの両側の十字架にかかっていた死刑囚の足を折った。足を折るには大きな木槌、つまり掛け矢のようなもので折る。そしてその二人の死刑囚は、数分で死んだ。そしてローマ兵は次にイエスさまを見た。するとすでに死んでいた。だから足を折らなかったんです。
血と水
代わりに兵士の一人が持っていた槍でイエスさまの脇腹を刺した。本当に死んでいるかどうか、確かめるためです。するとピクリとも動かなかったので、本当に死んでおられたんですが、この福音書を書いたヨハネは、別のことに注目しています。それが、すぐに血と水が流れ出た、ということです。そしてそこに意味を見出しています。
血と水が流れ出た。亡くなって間もないことですから、槍を刺して血が出たというのは分かります。しかし水が流れ出たというのは、実際にあり得ることなのでしょうか?‥‥これを調べましたところ、そういうことはありうるのだそうです。この水は、もちろん文字通りの水ではなく、透明な体液だそうです。1つには「心膜液」というものが考えられるそうです。心膜液とは、心臓と、心臓を覆っている膜の間にある液体のことだそうです。これが流れ出たというのは、兵士が突き刺した槍が心臓に達したことになります。
もう一つは「胸水」というものが考えられるそうです。鞭打ちや十字架の肉体的ストレスによって、肺の中ではなく肺の外側に溜まったのが胸水だそうです。透明、もしくは淡い黄色の液体だそうです。これが流れ出たということが考えられるそうです。
ということは、兵士がイエスさまの脇腹に槍を刺した時に、血だけではなく水も流れ出たのは、医学的に十分あり得るということになります。
しかし福音書を書いたヨハネはそこに目を留めました。そしてこう述べています。
"それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。"(35節)
真実だというのです。「それを目撃した者」とは、この福音書を書いたヨハネであると考えられます。ヨハネは兵士がイエスさまの脇腹を槍で刺して、血と水が流れ出たのを見て、そこに特別な意味を見出したんです。単に医学的な話としてではなく、神さまのメッセージをそこに受け取ったんです。それは「生ける水」のメッセージです。
イエスさまはこれまで、「生きた水」について2回語られました。1つはこの福音書の4章のサマリアの女との対話の中です。そして女にこうおっしゃいました。
「この水(井戸の水)を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13〜14)
また、仮庵祭の時に人々に向かってお話しされたときに、こうおっしゃいました。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じるものは、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37〜38)
そのように、イエスさまが与えてくださる生ける水、命の水です。十字架の下で見ていたヨハネは、そのことを思い出したに違いありません。そして「血」ですが、聖書では血は命であると述べています(申命記12:23)。
すなわち、兵士がイエスさまを刺したときに流れ出た血と水。それはイエスさまの命と引き換えにして命が与えられる‥‥そういうメッセージとしてヨハネは受け取ったに違いありません。そのことを強調しているのです。ヨハネが単なる医学的現象として見過ごすのではなく、イエスさまの予言の成就として注意深く見ている。そのヨハネの気づきに感銘を受けます。
エゼキエルの見た予言的神殿
今日の旧約聖書は、エゼキエル書を読みました。それは、バビロン捕囚の中にいた預言者エゼキエルが、神さまによって見せられた新しい神殿の幻です。エゼキエルが見せられた新しい神殿は、やがてバビロン捕囚から帰って来てから再建されたエルサレムの神殿とも違います。それでこの神殿は、やがてメシア(キリスト)によって実現する神殿の予言であると考えられます。
その神殿では、神殿の敷居の下から水が湧き上がって流れ出ていたと書かれています。そして、その川の水は神殿から離れるほどに深くなり、大河となっていたといいます。さらに、その川が流れ込むところはどこでも水が清くなり、すべてのものが生き返ると語られています。その川のほとりでは、あらゆる果樹が生長して月毎に実をつける。
そうするとこれは、全聖書の最後の最後、ヨハネの黙示録のラストシーン(22章)を彷彿とさせます。そこでは新しい神の都が描写されています。‥‥神と小羊(イエスさま)の玉座から命の水の川が流れ出ている。その川の両岸には命の木が生えていて、毎月実を実らせる。‥‥
その生ける水です。命の水の川です。それは、イエス・キリストの血によってもたらされる!‥‥ヨハネはそのように神さまのメッセージを受け取ったんです。そしてそれは真実であると語っています。十字架で死なれたイエスさまの脇腹から流れ出た血と水、そこにそういうメッセージを読み取っています。
聖書を大切に読んでいるヨハネ
ヨハネが旧約聖書を予言としてていねいに見ていることは、イエスさまの骨が折られることがなかったということについても言えます。それは聖書の預言の成就であると言います。36節で書かれている言葉、「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉を実現するためであった」という言葉。これは具体的には旧約聖書の出エジプト記12章46節の言葉を挙げています。
また、イエスさまが刺し貫かれることについては、旧約聖書のゼカリヤ書12章10節の言葉が予言となっていることを挙げています。いちいちここで説明しませんけれども、そのようにヨハネは、イエスさまに係わる一つ一つの事が、聖書の預言の成就であることを書いているんです。ヨハネだけではありません。他の福音書、マタイもマルコもルカも同様です。神さまの約束がどうなったか、その予言はイエスさまにおいてどのように成就したか‥‥それを福音書を書き記した人たちは、ていねいに見ている。非常にていねいに聖書を見ているんです。神の言葉がたしかであることを証言しているんです。
それらのことは、聖書というものが、古代に書かれた単なる書物ではなく、今を生きる私たちに語られる神の生きた言葉であることを証言しています。
キリスト教放送局FEBCニュースの今月号に、画家の渡部正廣(わたなべまさひろ)さんのインタビュー記事が載っていました。渡部さんが洗礼を受けたのは、フランスのパリに行く前の29歳か30歳の時だそうです。一番大きなきっかけはお母さんの死だったそうです。どこかに救いはないかと思った。キリスト教は大嫌いだったそうです。けれども教会に誘ってくれる人がいた。それで何回か通ったその帰り道のことだったそうです。傍らに竹藪があって、それがざわざわと鳴っていた。その時、ある聖書の言葉が聞こえてきたそうです。「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのである」(ヨハネ15:16)と。そのときに「そうか」と思ったそうです。自分のことを信じられないような自分が選んだ宗教なんて信じられない。ところが「あなたじゃない、わたしだ」というわけです。だから信じられると思ったそうです。そして、「もしあの時、信仰がないままで画家を目指してパリに行っていたら、逃げ帰っていましたね。支えられたのは、やっぱり信じるものがあるからです。自分を捉えて自分を生かそうとする者がいたからです。」‥‥と語っておられました。
聖書の言葉が聞こえてきた。それはまさに生きた言葉、生きた水です。キリストが捕らえてくださったんです。
同じ紙面に、ヨハネ福音書の聖書通信講座を受けている女性の方からの投書が載っていました。ちょうどこのヨハネ福音書の19章についてです。こう書かれていました。‥‥「イエスさまはなぜこんなに苦しい思いをして十字架にかかってくださったのですか?私は小学生の時いじめにあい、クラス中からひどいことをされました。わたしは人にされた悪いことは思っていても、自分がする悪いことがまだよく分からないです。どうかイエス様の十字架が私のためであったことがよくわかりますように。そして許すことができますように。」
小学生の時にクラス中からひどいいじめに遭った。復讐してやりたいと思うのが普通でしょう。しかしイエス様の十字架を黙想して、イエス様の十字架が私を救うためであったことを分かりたい、そして許すことができますようにと祈っています。‥‥これは奇跡ではないでしょうか? 聖書を通して聖霊が働いて、人が変えられていくんです。まさに聖書の言葉が、生きた言葉であることを証言していないでしょうか。
習慣で聖書を読むのは良いことです。むしろ習慣にすべきことです。しかし、それが惰性になってしまわないようにしたいと思いました。聖書の言葉、イエスさまの言葉が、まさに生ける水であること。その新鮮な、私たちを清める水であることをあらためて思います。この年、十字架のイエス様さま見上げながら、聖書の言葉をていねいに読む者でありたいと思います。そして神さまのめぐみを発見していきたいと思います。
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