2026年1月11日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章10
    ヨハネによる福音書19章28〜30
●説教 「成し遂げられたの声」小宮山剛牧師
 
   渇く
 
 本日のヨハネによる福音書は、いよいよイエスさまが十字架で息を引き取られるという場面です。人の子としてこの世にお生まれになった神の子。その神の子である方が、十字架という死刑台で死なれる。これは言ってみれば、この人間の世の中が、まことの神を拒絶したということになります。
 順に見てまいりましょう。まず最初の28節です。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」
 イエスさまは「渇く」とおっしゃった。なぜ「渇く」とおっしゃったのか?‥‥この言葉について考える前に、イエスさまが十字架上でおっしゃった言葉について見てみましょう。ヨハネによる福音書は三つの言葉を書き記していますが、他の福音書に記録されていることを合わせると、全部で七つの言葉が聖書に記録されています。これを一般に「十字架上の七言」と呼んでいます。それは次の七つです。
@ 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)‥‥ご自身を十字架につけた人たちを赦してください、自分が何をしているのか分からないのですと言って、父なる神さまに祈っている言葉です。敵を愛し、赦し、救いを祈っている印象的な言葉です。
A 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)‥‥これは、イエスさまの隣の十字架につけられている犯罪人に対しておっしゃった言葉です。この犯罪人は凶悪犯でしたが、人生の最後、この十字架という死刑台の上で悔いあらためてイエスさまにお願いしました。その彼に向かって、イエスさまは救いを宣言されました。このことは、人間、悔いあらためるのに遅すぎるということはないことを教えています。
B 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:26−27)‥‥これは前回読んだ箇所のイエスさまの言葉です。細かくは二つの言葉です。最初の言葉は母マリアに言った言葉であり、次の言葉はその隣にいたイエスさまの愛する弟子、おそらくこの福音書を書いたヨハネに言った言葉です。母マリアを信仰者に、すなわち教会に託した言葉です。
C 「エリ(エロイ)、エリ(エロイ)、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ27:46、マルコ15:34)‥‥非常に印象的な言葉です。この言葉は、イエスさまが私たちの代わりに神に見捨てられてくださった、という恵みが見えてきます。
D 「渇く」(ヨハネ19:28)、そしてE「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)‥‥これが本日の聖書箇所の言葉です。
F 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)‥‥これが十字架上のイエスさまの最後の言葉と思われます。ご自身を父なる神さまにゆだねられた祈りの言葉です。
 これが聖書に記録されている、十字架上のイエスさまの言葉です。そして今日の箇所でイエスさまがおっしゃった言葉、「渇く」という言葉。これについてヨハネ福音書は、「こうして、聖書の言葉が実現した」と書いています。新約聖書が「聖書」と言う場合、それは旧約聖書のことですが、その旧約聖書のどの言葉が成就したのか? これについては、主に次の三つの説があります。
@詩編22:16「口は渇いて素焼のかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」
A詩編69:22「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします。」
B詩編42:2〜3「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。」
 学者の多くは@かAを挙げます。この場合は、文字通りのどが渇いた、ということになります。たしかに十字架の上で血を流し苦痛に耐えながら六時間。のどが渇くに違いありません。そしてこの言葉を聞いた人たち、おそらくローマ兵たちは、イエスさまがのどが渇いているのだと思って、酸いぶどう酒を海綿に含ませ、ヒソプの枝につけてイエスさまの口元に差し出しました。酸いぶどう酒というのは、安いぶどう酒です。なぜそこにそんなものがあったのかというと、十字架の死刑囚の痛みを和らげるためという説と、ローマ兵たちが自分たちが飲むために持ち込んでいたという説があります。死刑囚の番をする、つまり仕事中に酒を飲むというのもコンプライアンスがやかましく言われる今の時代からは考えられませんが、当時はそんなものだったのでしょう。
 しかし、果たして本当にイエスさまは、喉が渇いたから「渇く」とおっしゃったのでしょうか?‥‥私にはそうは思えません。ヨハネが肉体的にのどが渇いたという意味でこの言葉を書き留めたようには、どうしても思えないんです。そこでBの詩篇42編の言葉のことであるという説が浮上します。この場合の「渇く」という言葉は、魂の渇きのことです。
 魂の渇き。私たちも経験するところです。むかし内山田洋とクールファイブの「東京砂漠」という歌が流行りました。東京砂漠という言葉は、東京という大都会はたしかに人がおおぜいいてにぎやかに見えるけれども、実は一人一人が寂しく孤立していて他人のことに無関心で、まるで砂漠の中を歩いているようだという意味だと思います。
 私は前任地にいるときに刑務所の教誨師をしていましたが、受刑者の方々の話を聞いていると、さまざまな過去を背負っていることを知りました。‥‥ある人は、子どもの時に母親が他に男を作って自分を置いて出て行ってしまい、父親も女性を作っていなくなってしまい、親戚に預けられた。ところがその親戚であるおじさんおばさんが彼をいじめ抜いたあげく、親戚中をたらい回しにされて育った。そしてようやく親切にして彼を拾ってくれた人がいた。それがヤクザの親分だった。そうして極道の世界に入っていった。‥‥とまあ、そういうような話も聞きました。これはヤクザの親分に拾われて良かったね、とは言い難いですね。全く砂漠です。親戚中をたらい回しにされて育った少年の彼は、いったいどういう気持ちだったことだろうかと思いました。まさに魂がカラカラに渇いていたのではないでしょうか。
 この「渇き」は、愛に対する渇きです。愛がない世の中に対する渇きです。
 イエスさまの渇き。神である方が人としてこの世にお生まれになった。そして神の愛を人々に示して働かれた。その結果が、十字架です。その神の愛は受け入れられなかった。そして人々は、神の御子を十字架という最も残酷な死刑台につけた。そして神の子が苦しんでいる。人々は、そのイエスさまが死ぬのを待っている。‥‥どこに愛があるのか? どこに神への信仰があるのか?‥‥「渇く」「私は渇く」‥‥それはこの人間の罪の世に対する渇きです。
 
   成し遂げられた
 
 そしてイエスさまは、「成し遂げられた」とおっしゃいました。この言葉もまた、聖書の預言の成就です。今日の旧約聖書は、イエスさまの十字架を最も深い意味で預言しているイザヤ書53章の中の言葉を読みました。
(イザヤ53:10)「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」
 この「彼」がイエスさまの予言です。「彼は自らを償いの献げ物とした」。私たちの罪を償うために、ご自身を献げられた。それが十字架です。イエスさまは不幸にして残念ながら十字架にかけられてしまった‥‥というのではない。むしろ父なる神の御心に従って、私たちの罪を償うためにご自分を献げられた。それが十字架だと。その予言が成就した、成し遂げられたということです。ちなみに「子孫」というのは血のつながった子孫のことではなく、信仰の子孫です。
 イエスさまはかつて弟子たちにこうおっしゃいました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)。多くの人々に多くの実を結ぶために、イエスさまは今、一粒の麦となって死なれる。それが十字架です。ですから「成し遂げられた」というのは、私たちの救いのために必要なことが成し遂げられたということです。
 先日、私の先輩牧師から証しが書かれた文章を受け取りました。その先生は、小学4年生の時に突然、父親を交通事故で亡くしたそうです。そして次は、中学3年生の時に重い病気にかかったそうです。急に大量に血を吐いて、緊急入院し、大量の輸血をしたそうです。その病気のために学校へ行くことができなくなり、休学したそうです。病気は一進一退の状態で、死線をさまよったこともあったそうです。そのように死の恐怖を味わいました。この病気の経験から、先生の心の中にあった思いは、死ぬことの恐れと、自分はひとりぽっちであるということでした。そして自分の病の苦しみは誰も分かってくれないと思うようになったそうです。‥‥自分の苦しみは、他の人には分からない。これも砂漠であり、魂の渇きです。‥‥高校に入っても悶々としていた。そしてあるとき、聖書を読んでみようと思い立ち、聖書を読み始めました。そしてヘブライ人への手紙を読んでいたとき、その4章15節の言葉に目が留まったそうです。
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。」(口語訳)
 「この大祭司」とはイエス・キリストのことです。この聖書の言葉に、先生は心が震えるような感動を受けたそうです。この聖書のことばは、神が自分に向かって語られている言葉だ。自分は病気で苦しんで来た−−自分の苦しさは誰も分からない、しかし、イエス様は病気と言う弱さを「思いやる」方なのだ、自分の苦しみをよく分かってくれる方なのだ、と理解したそうです。イエス様は私の弱さを「思いやる」方である、このみことばを読んで、聖書が語っている神が、私のことを深く思いやる神であることを知らされたということです。
 神さまに私たちをとりなす大祭司として、イエスさまは十字架にかかられた。「渇く」と言われた。そのイエスさまは、私たちの弱さを思いやっておられる。「渇く」とおっしゃったイエスさまが、私たちの渇きを癒やす命の水を与えてくださる者となられました。それが「成し遂げられた」結果です。
 
   息を引き取られた
 
 ヨハネによる福音書では、「成し遂げられた」と言われたあと、頭を垂れて息を引き取られたと書いています。
 この「息を引き取られた」という言葉は、「霊を引き渡した」と日本語に訳すこともできます。イエスさまはご自分の霊を父なる神の手に引き渡されました。すなわち、ゆだねられました。父なる神さまへの全面的な信頼です。
 そうすると、これはルカによる福音書が書き留めている十字架上のイエスさまの最後の言葉、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)という言葉と重なります。そしれこれは、ユダヤ人が夜寝る前に祈る祈りの言葉でもあります。それは詩篇31編6節に基づいています。詩篇31編6節は、このように書かれています。
 「御手にわたしの霊をゆだねます。真実の神、主よ、あなたはわたしを贖い出してくださいます。」(新共同訳)
 そうしてこの祈りを受け取った父なる神は、イエスさまの復活をなされることとなります。
 私たちも、夜、眠る前にそのように祈ることができます。自分の命をすべて父なる神にゆだねて床に就く。イエスさまのおかげです。 


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