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2026年1月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書40:11
ヨハネによる福音書19章23〜27
●説教 「十字架上の遺言」小宮山剛牧師
十字架の下にて
アドベントに入ってからイエスさまの御降誕に関連した聖書箇所を読んできました。そして今日からまたヨハネによる福音書の連続講解説教に戻ります。
場面はクリスマスに関する場面から一転して十字架に戻ります。しかしこれはまさに神さまの導きだと思いました。なぜなら、この世に人の子としてお生まれになったイエスさまの歩みは、まさにこの十字架を目指しての歩みであったからです。
前回ヨハネ福音書の箇所を読んだのは、11月30日の礼拝の時でした。そのときは今日読んだ前の箇所、イエスさまがゴルゴタの丘で十字架につけられた箇所を読みました。そしてきょうは、その十字架の下に場面が移ります。十字架の下には、十字架刑を見物する人たちがいました。そして福音書は、それに混じってそこにいた二つのグループに焦点をあてています。一つは兵士たち。もう一つは、母マリアです。
イエスと兵士たち
まず兵士たち。これは死刑執行人でもあるローマの兵士たちです。命令に従って、イエスさまと他の二人の死刑囚を十字架にはりつけにしました。そのあとこの兵士たちが、イエスさまの服を分け合ったことについて書いています。
死刑囚は、死刑場であるゴルゴタの丘に着いたとき、服を脱がされ裸にされました。その服は兵士たちのものとなりました。言わば役得です。まず服を取って四つに分けた。この服は上着です。上着と言うより外套と言ったほうがよいかもしれません。それをおそらく4つに切って分けた。さらに下着。こちらは袖はあるけれどもポンチョのようなものであったようです。こちらは切らずにくじを引いて当たった兵士のものにした。
イエスさまは十字架にかけられる前、ひどい鞭打ちを受けましたので、おそらくこの下着はイエスさまの血がかなりついていたものと思われます。そんなものをほしいのか、と私たちは思いますが、当時は貧しい時代、しかも布や服は安くなかった時代です。血がついていても洗えばよい。そういうことだったでしょう。そのようにして、イエスさまの服は兵士たちが取った。ひどいことだと思いますが、彼らにしてみれば、十字架にかかっているイエスさまは、単なる罪を犯した死刑囚でしかありません。そういう犯罪者のものを取っても、なんの罪悪感もなかったに違いありません。
神の予言と人間の罪
さて、ヨハネ福音書は、兵士たちがイエスさまの下着をくじ引きをしたことについて、それは聖書の言葉が実現するためだったと述べています。24節です。「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」。これは旧約聖書の詩篇22編19節の言葉です。その言葉は、その時から千年後のイエスさまのこの十字架の時のことを予言していたというのです。
このことは、イエスさまの十字架というものが、偶然の出来事だったのではなく、神さまのご計画の中にあったということになります。つまり今までヨハネ福音書が語ってきたとおり、イエスさまは不本意にも十字架にかけられてしまったということではなく、むしろ神の御心に従って、私たちを救うために積極的に十字架に向かって行かれたのだと。そのことを証明する聖書の言葉の一つがこの詩編22編19節の言葉なのだと言いたいのです。
さて、しかし聖書の預言がそのようにして一つ一つ実現していくということになりますと、いっぽうでは別の疑問が生じてくるのではないでしょうか。それは、「この世の中のことは、すべて神さまの書いたシナリオ通りに進んでいるのか?」という疑問です。すべて神さまの書いたシナリオ、計画通りに人間も行動しているとなると、これは人間はロボットと同じことになってしまいます。この世の歴史も物事も、神さまの書いたシナリオ通りに進んでいる。言葉を変えて言えば、神さまの自作自演だということになる。果たしてそうなのか? そうすると、人間には自由意志はないことになる。まるで人間はロボットです。
このような疑問に対しては、次のように答えることができると思います。すなわち、「人間は罪人であるので、どのような行動を取るのかはおおよそ予測されうる」ということです。神の子であるキリストをこの世に送ったら、人間はどう扱うのかも予測されうる。そしてそのキリストが十字架につけられたら、着ていた服はどうされるのかも予測できる。結局、聖書の言葉通りの結果にならざるを得ない‥‥そのように考えることもできます。これはいくつかある考え方の一つでありますが。
そういたしますと、聖書は人間について冷静に見ていますから、現代の私たちに対して語っている予言も当然そうなることが予測されます。たとえばイエスさまは、マタイによる福音書24章3節〜14節で、のちの時代のことを予言しておられます。そこでは次のようなことをおっしゃっています。‥‥民は民に、国は国に敵対して立ちあがる。つまり紛争や戦争が絶えることがない。現在もその通りです。ほうぼうに飢饉や地震が起こる。これもその通りになっています。ニセ預言者が大勢現れて多くの人を惑わす。ニセ預言者、それは神さまが言ったのではないのに、あたかも神さまがそう言ったかのようにうそをついて人々を惑わす。とくに20世紀になってからは、怪しげな教祖を神、あるいは神の代弁者に祭り上げるカルト宗教がたくさん出て来ました。ですからこれもその通りになっています。そしてイエスさまはおっしゃっています。「不法がはびこり、多くの人の愛が冷える」。まさにその通りになっています。
まとめて言えば、人間の世の中はどんどん神の御心から離れて行く。憎しみや争いが増幅されていく、愛が冷えていくということです。たしかに、その通りになっているのではないでしょうか。けれどもイエスさまはおっしゃっています。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)。この「耐え忍ぶ」という言葉には注意が必要です。世の中では「耐え忍ぶ」とか「忍耐する」と言うと「がまんする」ことになるわけですが、聖書では違います。聖書では「耐え忍ぶ」というのは「がまんする」ことではなくて、決して絶望しないで、イエス・キリストの愛を信じていくということです。そしてそのキリストの福音が全世界に宣べ伝えられる、それから終わりが来るとおっしゃっています。
ですから、教会の使命は、愛が冷えていく世の中にあって、イエス・キリストの愛を信じて忍耐強く、希望をもって福音を宣べ伝えていくということになります。新年を迎えて、あらためて教会に与えられた尊い役割を思います。
母
さて、イエスさまの十字架の下にいたもう一つのグループがありました。それはイエスさまの母マリアを中心とした人々でした。母マリアとマリアの姉妹、そしてクロパの妻マリアと、マグダラのマリア。マリアという名前の女性が何人もでてきます。そして弟子の中でただひとり、イエスの愛する弟子。名前は書かれていませんが、この弟子はおそらくこの福音書を書いたヨハネ自身のことであると言われています。
母マリア。わが子が十字架という死刑台にはりつけにされている。もうすぐ絶命しようとしている。それを下から見上げているマリアの気持ちはどのようなものであったでしょう。残酷と言ってこれ以上残酷なこともないと思えるほどです。
先週12月28日の礼拝では、イエスさまが生まれてから40日経って、イエスさまの両親がエルサレムの神殿に行ったときの箇所を読みました。そのとき、預言者であるシメオンが出てきてマリアに言った言葉も読みました。その言葉の中に、こういう言葉がありました。
(ルカ2:35)「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます−−多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
これはイエスさまが十字架につけられて、マリアの心が剣で刺し貫かれるような思いをすることの予言になっていました。マリアは、30数年前のそのときのシメオンの言葉を思い出していたことでしょう。それゆえに、この十字架もまた神さまのご存じであることなのだと思ったでしょう。そのことだけが、マリアの慰めとなったでしょう。神さまがご存じであり、神さまのご計画であるならば、十字架で死なれるわが子イエスが、そのまま放っておかれることはありえないと信じることができるからです。
ちなみに申し上げておきますと、先週の読んだシメオンとアンナの聖書箇所は、今日のヨハネ福音書のこの箇所につなげるためにわざと選んだのではありません。あとになって、つながっていることに気がついたのです。これも神さまの導きと言うほかはありません。
母を愛する弟子に託すイエス
さて、ここでイエスさまは十字架上から遺言をおっしゃいます。その遺言とは、母マリアについてのものでした。イエスさまは十字架上の苦しみの中で、母マリアと、愛する弟子を見て、まず母マリアにおっしゃいました。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。近ごろは「婦人」という言葉はあまり使われなくなりました。たとえば女性の警察官のことも以前は「婦人警官」と言ったものですが、今は女性警官と、単なる性別だけで言うようです。日本語で婦人という言葉は、おとなの女性に対するていねいな尊敬を込めた言い方であり、英語で言うとレディに相当するきれいな言い方です。そしてここで使われているギリシャ語はまさしく「婦人」というていねいな言い方です。
ただ、イエスさまにとっては母ですから、「母よ」とおっしゃってもよさそうなものですが、「婦人」とおっしゃっている。これは実はヨハネ福音書の最初のほう、2章でイエスさまのなさった初めての奇跡について書かれている「カナの婚礼」の席上でのイエスさまの言葉と関わりがあります。カナの村での婚礼の手伝いに来ていた母マリアが、イエスさまに対して「ぶどう酒がなくなってしまいました」と言ったとき、イエスさまはこう答えられました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
ここでも「婦人」とおっしゃっています。これは、イエスさまが、母と子という関係はここでいったん離れることを告げたのです。そして福音を宣べ伝える働きをされる。親と子という関係を離れ、神のみわざをなして行かれる。しかし十字架上で死を迎えようとしておられるイエスさまは、あの時おっしゃった「わたしの時」が来たのです。それが十字架の時です。そして今イエスさまは、母マリアにあの時と同じように「婦人よ」と声をかけられ、隣にいる愛する弟子、おそらくヨハネがあなたの子だと言われる。ヨハネには、マリアについて「あなたの母です」と言われる。イエスさまはこの時、母マリアを愛する弟子ヨハネに託されたのです。
しかし、イエスさまにも兄弟がいたはずです。正確には弟や妹です。そちらに託すのではなく、弟子に託された。これはどういうことでしょうか?
イエスさまは、母を信仰の交わりの中に託されたのです。血のつながりというものは、たしかに法的にも効力を持ちますし、血縁は強いものです。しかし人にとって、本当に助けとなり慰めとなり励ましとなるのは肉親とは限りません。それで、キリストを信じるものの交わりの中に置かれたのです。
クリスチャンというと、この世の中では日曜日の付き合いが悪いとか、誤解されたりすることもありますが、ほんとうに力になってくれるのはクリスチャンであることもまた事実だろうと思います。私はそういう事実をいくつも見てきました。
息子や娘が何人かいても、最後年老いたときに面倒を見るのがクリスチャンの子どもであることも見てきました。子どもから見て良い親ではなかったのに、結局クリスチャンである子が、最後の面倒なところに関わることも見てきました。あるいは、子どもがいない老婦人が軽度の認知症になったときに、姪や甥に成年後見人になってもらうのではなく、クリスチャンが成年後見人になりました。しかも無償でです。家族がいなくて成年後見人になるとたいへんです。行政も病院も施設も、成年後見人に家族同様の対応を求めてきます。それをその成年後見人になった人は、他の教会員の助けも得ながら面倒を見ました。施設に引っ越すときは、教会員が何人も手伝いました。しかもすべて無償でしていました。こういうことは隠れたことですが、尊いことです。
強制されてでもなく、神さまに脅かされてでもなく、自然にそうなっていくのを見てきました。それはほかでもない、イエスさまの愛に対する感謝から自然に出たことです。
イエスさまは人の子として大切な母親を、キリストを信じる弟子に託されました。イエスさまが私たちを信頼してくださっている。その上で神さまは、助けと恵みを与えてくださる。そのことを思います。
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