2025年12月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教/アドベント第3主日
●聖書 創世記15章5〜6
    ルカによる福音書1章26〜38
●説教 「神を託された人」 小宮山剛牧師
 
   受胎告知
 
 昨年までは、アドベンでもふだんの連続講解説教の聖書箇所を読み、クリスマス礼拝の時だけ、イエスさま降誕の聖書箇所にしていました。しかし今年は、クリスマスの前の週のこの日の礼拝も、イエスさま降誕に関係する聖書箇所を読むことにいたしました。そして今回選んだのは、マリアへの受胎告知の聖書箇所です。天使がおとめマリアにイエスさまを宿すことを告げる。イエスさま降誕の前に、母マリアに起きた出来事です。
 昔からさまざまな画家が、この場面を絵に描いてきました。本日は、ルネサンス期の画家の描いた有名な絵をいくつか見てみます。(スライド画像)
 @フラ・アンジェリコ‥‥左に描かれた天使の羽が極彩色です。アンジェリコは、他にも受胎告知を描いています。
 Aレオナルド・ダ・ビンチ & アンドレア・デル・ヴェロッキオの共作とされる絵です。‥‥こちらも羽の生えた天使です。かしこまってマリアに語りかけています。
 Bボッティチェリ‥‥こちらは天使がさらに身を低くして告げています。マリアが驚いたのか、少しよろめいているように見えます。
 Cエル・グレコ‥‥倉敷の大原美術館に所蔵されている絵です。こちらは空中に天使が現れています。そしてマリアが聖書と思しき本を手にしています。
 さて、最初のアンジェリコ以外の画家の絵に共通するものに気がついたでしょうか?‥‥天使が白い百合をもっていることです。この白百合は純潔の象徴で、マリアのことをあらわしています。それはマリアがおとめ、つまり処女で懐胎したことからきています。
 他に共通することは、天使に羽が生えていること。そして、マリアの家を立派に描いている点です。最後のエル・グレコの絵ではよく分かりませんが、他の3枚の絵はいずれもなにか屋敷のような感じの建物を描いています。
 実際は、マリアの家はこれら邸宅のような家ではなかったと思われます。現在のナザレにある受胎告知教会の中に、このことが起こったと言われる場所がありますが、それは洞窟です。当時の庶民は、洞窟を利用して住んでいる人も多かったのです。というのは、イスラエルは多くが石灰岩地質の土地であり、自然に出来た洞窟がたくさんありました。そして乾燥している気候ですから、ジメジメしていない。快適なんです。それで庶民はそのような洞窟がある地方では、それを利用して住んでいることも多かったのです。少なくとも、マリアの家がお金持ちではなかったであろうと思われます。
 それから天使は一般的には羽が生えていません。旧約聖書を読むと、ケルビムとかセラフィムと呼ばれる天界の存在は羽を持っているようですが、一般に人間の前に現れる天使は羽がありません。ですから、出会った人は天使だとは思わず、人間だと思ったというケースも多々あります。あるいは、姿は見えないで声だけ聞こえるという場合もあります。ですからマリアに受胎を告げた天使も、一見人間のようであった、あるいは声だけ聞こえたということが最もありそうなことです。
 これらのようなリアルな天使が現れたら、すぐに神の使いだと信じられるでしょう。しかし人と同じ姿で来たら、あるいは神のメッセージを告げる声だけだったとしたらどうでしょうか。そこに「信じる」ということが必要になります。
 
   おとぎ話か真実か
 
 さて、ただ今の絵のような印象もあってでしょうか、受胎告知はしばしばおとぎ話、ファンタジーのように受け取られます。キリスト教会の中でも、近代になって、これを創作物語と考える人も多く出てきました。つまり、この聖書箇所は、あとの時代になって、教会がイエスを特別な存在として権威づけるために作ったのだ、というわけです。とくに戦後の世界の経済発展、科学文明の進歩の時代、科学万能の時代にそのように見て軽視する学者も現れました。すなわち、天使だの処女懐胎だの、バカバカしくて信じられない、というわけです。おそらくこれは、当時のマリアも、他の人々からそのように思われたことでしょう。
 しかし、もしこの出来事がバカバカしいとしたら、イエスさまがこの私を救うために十字架にかかられたという、福音の中核のメッセージは、もっと信じられない、バカバカしいことに思えることでしょう。すなわち、
 この私のような者が救われて、感謝をもって毎日を生きることができる。
 この私のような者が救われて、天地創造の神の子とされる。
 この私のような者が救われて、神の国における永遠の命を生きることができる。
 ‥‥これらの救いの出来事は、みなバカバカしいことになってしまうでしょう。
 しかし、イエス・キリストの地上の生涯はこの受胎告知の瞬間から始まった。聖書はそのように力強く語りかけているのです。私たちを救ってくださるのは、神さましかいないのです。私たちを救うために、神が何を始められたか、謙虚に耳を傾けたいと思います。
 
   天使とマリア
 
 26節に、「6ヶ月目に」と書かれています。マリアの親戚であるエリザベトという女性が、同じ天使ガブリエルから受胎を告知されというできごとが、この前の箇所に書かれています。そのエリザベトは不妊の女性でした。しかし祈りが神にかなえられて子を宿すという天使の告知です。それから6か月後ということです。
 祭司ザカリヤとエリザベト夫妻の間に、洗礼者ヨハネが生まれます。その洗礼者ヨハネの受胎告知の次に、マリアへのイエスさまの受胎告知があるという順序です。
 天使ガブリエルはマリアに現れて告げました。(28節)「おめでとう、恵まれた方」。「アベ・マリア」という歌がありますが、これはラテン語で「おめでとうマリア」という意味で、この時のことを題材にした歌です。この「おめでとう、恵まれた方」に始まる天使の告知。これは、クリスチャンは何度も読み、よく知っているできごとです。
 続けて天使は言いました。「主があなたと共におられる」。これは旧約聖書でもよくでてくる言い方ですが、ここでは文字通り、主であるイエスさまが、マリアの胎内に胎児として宿られるという、物質的な現実として共におられることも含めて言われています。
 天使は「恐れることはない」と告げました(30節)。そして、男の子を産むこと、イエスと名付けることを告げました。それは「神からの恵み」だと言われます。そしてその子イエスは、「いと高き方の子」すなわち神の子と呼ばれると言います。それは、旧約聖書のむかし、神がダビデに約束なさった約束が成就する時が来るということです。神の約束であり、待ちに待ったメシア=キリストの到来の時が来たというのです。
 
   マリアの心配と決断
 
 あまりの大きなことが告げられて、マリアはどんなに驚いたことでしょう。あの聞かされて来たメシア=キリストが、自分を介してこの世にお出でになる。宝くじの1等が当たったどころの騒ぎではありません。
 この時マリアの年齢は、当時の習慣から考えて、14歳前後と考えられます。現代で言えば中学生です。何よりも自分は「男の人を知らない」と言っています。ヨセフという婚約者はたしかにいるけれども、当時は12歳ぐらいで婚約者が決められるのが普通であったと言うだけで、婚前交渉などありえない話です。ですからマリアが「どうしてそんなことがありえましょうか」と言ったのもよく分かります。
 それに対して天使は、その子があなたの胎内に宿るのは聖霊によるものだと告げます。しかし一体誰がそれを信じるでしょうか。何よりもいいなずけのヨセフが信じるでしょうか。当時は婚約中であっても、他の男と関係を持ったなら、姦通罪が成立しました。ユダヤの律法では姦通罪は死刑です。ですから、マリアの妊娠を知ったヨセフが、もし訴えればマリアは死刑です。それに世間の人々は、マリアが受胎告知の話をしたとしても、百%信じないでしょう。
 ですからこの天使が言った通りに神の子を宿したとして、とんでもない茨の道、苦難の道を歩むことになる。もしかしたら死刑です。
 しかし天使は最後に言いました。「神にできないことは何一つない」。この言葉は、処女懐胎のことだけを言っているのではなく、マリアが心配するようなその後のむずかしい問題も、主が解決することがおできになる、という意味です。「このことをあなたに告げた神には、できないことはない。あなたの心配も神が解決してくださる」‥‥そういうことです。
 そしてマリアは答えました。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」‥‥分かりました。私は主のはしため、しもべです。あなたのお言葉は主の言葉です。私はそれに従います。どうぞ私を用いてください。心配なことはすべて主にお任せいたします‥‥そのような、我が身を主に献げますという献身の言葉です。
 ここに私たちは、私たちの献身の模範を見ることができます。私を神に献げる。すべての思い煩い、心配、予想される困難を、全く主にゆだねてしまう。お任せしてしまう。わたしは主の僕であると告白し、主に対する従順を表明する。献身とはそのようなものです。そして主は、この献身の言葉を受け入れて、神のご計画を進められます。そして実際に天使は、いいなづけのヨセフのところにも現れ、マリアの胎内に宿ったのは聖霊によるものだと告げるようにしてくださったのです。
 こんにち、クリスマスを喜んで迎え、お祝いしています。そこにはこのようなマリアの真実の献身があったのです。
 
   主の言葉ヘの応答のみ
 
 私たちを含めて、多くの人は知りたいと思うのではないでしょうか。主が選ばれたマリアとは何者なのか?と。‥‥出身はどこか? 父親はなんの職業だったのか? マリアは頭が良かったのかどうか? 学歴は何だ? ‥‥などなどです。ましてマリアは、イエスさまの母上となられたのです。今日、皇太子が結婚するとしたら、マスコミはこぞってその相手のことを根掘り葉掘り取材することでしょう。しかし聖書はマリアのそういうことについて何も書いていません。
 逆に言えば、聖書はそういうことには関心がないんです。先週のウェルカム礼拝で、輪島教会の新藤先生が「人が見るようには見ない神の目」と題する説教をして下さいました。とても大切なことをお話しされました。そして旧約聖書のサムエル記上16章7節を引用されました。そこにはこう書かれています。「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 神さまの見る目は、人間の見る目とは違うんです。人間は、その人がどんな人だったか、容姿は良いか悪いか、背は高いか低いか、学歴はどうか、社会的地位はどうか、前科があるかどうか‥‥などなど、そういう外面のことを見ます。しかし神さまは違います。聖書は、そういう外面的なことには関心がないんです。今マリアが、神の言葉に対してどう応答するのか、ということのみに関心があるんです。
 そしてマリアは天使を通して語られた主のみことばを受け入れ、信頼いたしました。それだけです。
 私はここに非常な感銘を受けるんです。私たちがどんな人生を歩んできたかは問題ではない。学歴がどうか、職歴がどうかも問題ではない。どんな失敗をしてきたか、過ちを犯してきたか、でもない。問題は、今神の言葉を前に、私たちがどう応答するか、のみであるということです。そこから新しい歩みが始まるんです。
 私たちは、なぜ主なる神さまはマリアを選ばれたのか?と思います。それに対する答えは、私たちには分からないんです。分からなくていいと思います。しかし一つ分かることがあります。それはマリアは、主の呼びかけに対して「Yes」と答えたということです。
 同じように、私たちも主の呼びかけに対して「Yes」と答える。そのときに、全く新しい歩みが始まるということです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という天使の告げたメッセージは、私たちに対しても語られています。そして主なる神を信じるように招いておられます。


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