2025年11月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩篇24編7〜10
    ヨハネによる福音書19章17〜22
●説教 「神への罪状」
 
   ローズンゲンの言葉より
 
 昨日の土曜日、朝「ローズンゲン」の御言葉を読みましたら、詩篇84編11節でした。ローズンゲンには聖書協会共同訳の言葉が書かれていましたが、新共同訳聖書ではこのようになります。「あなたの庭で過ごす一日は、私の選んだ千日にもまさる。」
 「あなたの庭」というのは、神さまの庭ということで、むかしはエルサレムの神殿の庭で、神さまを礼拝したことからきています。神さまを礼拝するということは、神さまにお目にかかるということです。礼拝の中に神さまがおられるからです。そのように、この詩では、礼拝の中で神さまにお目にかかる一日は、自分が好きなことをして過ごす千日にもまさっていると歌われています。
 私たちは今、実はそんなにすばらしい恵みにあずかっている。神さまの庭にいる。そこで、この時を過ごしている。あらためて礼拝の恵みを思った次第です。
 
   アドベントと受難
 
 教会のカレンダーでは、今日から「待降節」、ラテン語で「アドベント」に入ります。ここから教会の一年が始まります。クリスマス前の4週間がアドベントです。イエスさまが来られる準備をする。それは私たちの心の準備です。
 そして本日の聖書箇所は、いつものヨハネによる福音書の続きの箇所です。そして今日はイエスさまが十字架につけられる箇所です。アドベントはイエスさまがお生まれになる時のこと、しかし今日の聖書箇所はイエスさまが十字架にかかられて死を迎えようとされる箇所。対照的に見えます。しかし私はこれは実に意義のあることだと思います。
 一つには、アドベント入りの今日、イエスさまの受難の箇所を読むということは、イエスさまが何のためにお生まれになったか、その意味を指し示しています。
 第二に、アドベントは、私たちが悔いあらためて、イエスさまが再び来られる再臨の時を待つことです。すなわち、イエスさまのご受難の聖書箇所を読んで、悔い改めることを促されます。
 そう考えますと、ちょうどアドベント入りの今日がイエスさまのご受難の箇所になっているということは、見事に合致していると言うことができます。ちなみに私はアドベント入りの今日のに合わせてヨハネによる福音書を読み進めてきたわけではありません。ちょうど今日、この箇所になっているというのは、まさに神さまのご配慮だと思います。
 
   イエスは向かわれた
 
 さて、十字架刑に処せられることが決まったイエスさま。17節を見ますと、「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」と書かれています。つまり、イエスさまが「向かわれた」となっている。「連れて行かれた」とは書かれていません。イエスさまがご自分の意思で向かわれた、と読めます。
 また「イエスは、自ら十字架を背負い」と書かれています。ここは他の3つの福音書、すなわちマタイ、マルコ、ルカの福音書では、ローマ兵がシモンというキレネ人を捕まえて無理に十字架を担がせたということが書かれています。しかしヨハネ福音書では、イエスさまが十字架を担がれたと書かれている。
 これはどちらが本当なのか?‥‥おそらく、最初はイエスさまが十字架を担いで行かれたのだけれども、ひどい鞭打ちを受けた後ですから、ヨタヨタとした歩みになります。それでローマ兵は、途中でもうイエスさま一人で担ぐのは無理と判断し、たまたまそこにいた屈強そうな男、キレネ人シモンを捕まえて担がせた‥‥と、そういうことだと思われます。すなわち、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、イエスさまの十字架を担いだシモンに焦点をあてて書いた。一方ヨハネ福音書は、イエスさまが担いだということに焦点をあてて書いた。その違いです。
 すなわちヨハネ福音書は、十字架にかけられるということは、人間の手によって無理やりかけられたのではなく、イエスさまが主導しておられることを強調しています。あくまでもそれは神のご計画であり、その神のご計画に従って行ったイエスさまの主体的な出来事だったのだと。いやいや連れて行かれたのではない、と。
 参考までに、こちらは(映像)メル・ギブソン監督の映画「パッション」の一場面です。ローマ兵がイエスさまの前に、これから担ぐ十字架をドンと置く。するとその十字架をイエスさまが抱くんです。いとおしそうに。これはこの映画の名場面だと私は思いました。まるでイエスさまは、この時のために、この時のために私はこの世に来たのだといわんばかりに十字架を抱かれる。そして重い重い十字架を担いでひきずりながら、ゴルゴタと呼ばれる処刑場に向かわれました。
 ちなみに「ゴルゴタ」という名称は、讃美歌などで「カルバリ」と呼ばれることがあります。カルバリはラテン語であり、ゴルゴタがユダヤ人の言葉であるヘブライ語です。そしてその意味は、そこに書かれているように「されこうべ」、つまり「どくろ」という意味です。名前だけでも不気味で恐ろしげです。そしてそこが十字架刑の処刑場でした。そして、その場所こそが、イエスさまの地上の旅の目的地だったのです。
 イエスさまが十字架を担いで歩まれたこの道は、現在「ヴィア・ドロローサ」、日本語で「十字架の道行き」と呼ばれています。そして聖地旅行をした人は、必ずこの道を歩きます。そして終着は、ゴルゴタの丘があった場所です。現在はそこに聖墳墓教会が建っていて、その教会堂の中にイエスさまの十字架が立っていた場所があります。聖墳墓教会までは、現在はゆるい上り坂ですが、当時はもっと坂は急だったようです。しかしエルサレムは戦乱の土地ですので、戦争があるたびに石造りの建物が壊され、その上にまた建物が建っていくという具合で、だんだん低い所が埋まっていってなだらかになったんです。しかし2千年前は、もっと急な上り坂でした。その坂を、重い十字架を背負って、途中からキレネ人シモンも一緒に担いで、登って行かれたのです。まさに目的地であるゴルゴタの丘に向かって。よろめきながら、たしかに歩みを進められます。
 その十字架の重みは、また私たちの罪の重みでもあります。私たち人類の重い重い罪。それを担って行かれるお姿です。
 
   十字架につけられたイエス
 
 そしてついにゴルゴタの丘に到着します。18節を読みますと、イエスさまを十字架につけたことを、ひと言であっさりと書いています。しかし実際は、十字架という死刑台の残酷さは、私たちの想像を絶するものです。何しろ十字架の木に、死刑囚を釘で打ちつけるわけです。そしてその十字架の木を立てて、さらしものにいたします。想像しただけでも恐ろしい、激痛と苦しさにあえぐことになります。
 しかしそれをひと言で書いています。なぜか?‥‥それは、十字架刑というものは、当時の人は見慣れていたからです。十字架刑は、「重罪を犯すと、このようになるんだぞ」と見せしめにする刑罰です。だから人目につく場所で行われました。このゴルゴタの丘もそうです。そして十字架刑はしばしば行われました。だからこの残酷な刑罰は、わざわざ具体的に書かなくても、皆知っていたのです。
 ちなみにイエスさまが十字架に張りつけにされた時刻ですが、マルコによる福音書では「午前9時」となっています。ではヨハネによる福音書ではどうかというと、前回の個所、ピラトが正式に裁判の席に着いたのが「正午ごろ」(14節)と書かれています。それから十字架となると、午後1時ごろになってしまいます。これはいったいどちらが正しいのかということですが、原文ではマルコ福音書のほうは「第3時」となっており、ヨハネ福音書のほうは「第6時」となっているんです。その「第3時」と「第6時」の解釈になるわけですが、マルコ福音書のほうはローマ帝国式の時刻の数え方、つまり夜明けから第1時、第2時と数えていく数え方をしていると思われます。一方、ヨハネ福音書のほうは、ローマ式の数え方ではない数え方をしていると思われますので、第6時をローマ式に「正午」としてしまってはまずいことになります。ここは午前9時とするのが正しいと思います。
 さて、イエスさまの両側にも十字架が立ち、死刑囚が張りつけにされました。イエスさまを真ん中にして。イエスさまを中心にするように立てられた。それはピラトが書いたイエスさまの罪状書き「ユダヤ人の王」というものを暗示しています。
 
   イエスの罪状書き
 
 総督のピラトが書いた罪状書きは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」というものでした。それが十字架のイエスさまの頭の上の所に打ちつけられました。
 まことに変わった罪状書きです。「殺人罪」とか「強盗」とか「反逆罪」ではないんです。「ユダヤ人の王」が罪状だという。ここにピラトの意地が見えます。さっそくイエスを訴えた祭司長たちが、訂正を求めます。「ユダヤ人の王」とするのではなく、「ユダヤ人の王と自称した」と書き換えてください、と。彼らにしてみれば、自分たちが自分たちの王を十字架につけるよう要求したことになるので、困るわけです。イエスはユダヤ人の王、すなわちメシア(救い主)ではない。それをイエスが勝手に自称していたのだ、ということにしたかった。
 しかしピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と言って突き放しました。ピラトは、イエスが無罪であることを確信していました。しかし彼らは群衆を動員して、そのピラトを恫喝して、イエスを死刑判決に追いやった。その腹いせです。すなわち、祭司長などユダヤ人指導者たちは、自分たちの王を十字架刑にしたのだと、皮肉ったのです。
 しかし、いみじくも、ここに真実が表されています。ピラトはユダヤ人指導者たちへの腹いせのつもりで罪状書きを「ユダヤ人の王」と書いた。しかし実はイエスさまは本当にユダヤ人の王、メシアでありました。「ユダヤ人の王」という言い方は、メシア、すなわち人類すべての救世主を指しました。イエスさまの誕生を知らせる星を見つけた時、東の国からやってきた博士たちは、ユダヤのヘロデ王に尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」と。この場合の「ユダヤ人の王」というのは、単なるユダヤという小国の王、という意味ではありません。旧約聖書が予言していたメシア、救世主としての「ユダヤ人の王」という意味です。全人類の救い主という意味です。だからこそ、この博士たちは遠い東の国からやってきたのです。
 そして聖書は、イエスさまこそ、神さまが予言しておられたその「ユダヤ人の王」、メシア、キリスト、救世主であると語っているのです。そのメシアは、この十字架に着くことによって、王となった。いみじくもピラトの罪状書きは、その真理をみごとに指し示すものとなったのです。
 そしてその罪状書きは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたとあります。ヘブライ語はユダヤ人の言葉、ラテン語はローマ帝国の支配者ローマ人の言葉、ギリシャ語は当時の地中海周辺、および西アジアで広く共通語のようにして使われていた言葉です。ですから、これもいみじくも、イエスさまが救い主キリストであることを、世界に向けて発信する結果となったのです。
 十字架という死刑台が、メシアの王座。十字架こそが王座。私たちの罪を担って、私たちの代わりに死なれる。その愛の王座が十字架である。ピラトの罪状書きは、ピラトも知らないうちに、見事にその予言を成就するものとなったのです。
 
  互いに愛せよとのイエスの教え
 
 最後の晩餐の席で、イエスさまは弟子たちに対して繰り返しおっしゃいました。「互いに愛し合いなさい」。最近読んだ箇所ですから、皆さんご記憶のことと思います。たとえば(15:12〜13)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
 「互いに愛し合いなさい」。今、イエスさまご自身が、十字架上でその愛を示しておられるんです。十字架を担ぎ、ゴルゴタの丘に向かって自ら向かわれました。それは愛の姿でした。無抵抗のまま、神の意思に従って十字架に張りつけにされる。それは愛の姿でした。誰に対する愛でしょうか?‥‥私たちに対する愛です。私を愛する愛、あなたを愛する愛です。
 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とおっしゃったイエスさま。そのイエスさまが、この私たちのことも「友」と呼んでくださり、私を救うために命を捨ててくださろうとしている。イエスさまは私たちを愛してくださった。だからあなたがたも互いに愛し合いなさいと。このことを信じる者は幸いです。
 3本の十字架の真ん中が、イエスさまの十字架。それは罪人の罪を担われる者としての、真の王の姿です。隣にイエスさまがおられる。私たちを救ってくださるイエスさま。罪を贖ってくださいます。それゆえこの十字架のイエスさまのお姿は、愛の結晶した姿です。


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