2025年11月23日(日)逗子教会 主日礼拝説教/終末主日
●聖書 イザヤ書53章6
    ヨハネによる福音書19章8〜16
●説教 「神への判決」
 
   終末主日と礼拝
 
 本日は教会の暦で「終末主日」です。教会暦にはさまざまなものがありますが、私はローズンゲンが採用している伝統的な教会暦を使っています。終末主日というのは、世の終わりを覚える日です。世の終わりというと、世界の破滅であり、一巻の終わりだと思う方もおられるでしょう。しかし聖書で言いますと、世の終わりはキリストが再びこの世に来られる日であり、新しい神の国に移されるときです。世の終わりということが考えにくければ、わたしたちのこの世の人生の終わりと考えても良いと思います。キリストを信じる者にとっては、終わりは一巻の終わりではなく、新しい神の国に移される時ということになります。従ってそれは救いの完成の日であり、希望となります。終末主日はそのことを思い起こし、主を礼拝する日です。そして来週の日曜日から、教会暦は新しい一年が始まります。イエスさまがお生まれになり、この世に来られることから一年が始まります。
 それにしてもクリスチャンはなぜ毎週教会に集まって礼拝するのか?‥‥と、はじめての方や、世間の方々はお思いになることでしょう。牧師の話がおもしろいからか?‥‥そうでもなさそうだ。ヒマだからか?‥‥しかし中には忙しい時間を割いてわざわざ来ている人もいるようだ。では御利益があるからか?‥‥これは本当の意味では御利益はあるに違いないのですが、神社に参拝する人が期待するご利益と同じかどうかはわかりません。
 ではなぜ毎週集まって礼拝しているのか?‥‥この問いへの答は、実は私たちの側にあるのではないんです。私たち人間の側に理由があるのではない。神さまの側にあるんです。すべてのものの創造者である神さまが、私たちを礼拝へと招いておられるということです。礼拝のプログラムの最初は、前奏の次に招詞があります。これは私たちを礼拝へと招く神の言葉なんです。その神の招きに私たちが応えて、礼拝へと集まる。そういうことです。そして神さまは、ここにいる人たちだけを礼拝に招いておられるのではありません。実はすべての方を招いておられるんです。私のような者も招いてくださる。
 もっと言えば、私たちは神さまを賛美し礼拝するために造られたというのが聖書の語ることです。神を信じて神と共に歩むようにと。その神の招きに応えて、礼拝をしています。
 
   揺れ動くピラト
 
 さて、きょうはヨハネによる福音書の続きの箇所から、主の恵みをいただきたいと思います。ローマ帝国のユダヤ総督であるポンテオ・ピラトの所に突き出されたイエスさま。ユダヤ人指導者たちは人々を動員し、イエスさまを十字架の死刑にするよう要求しました。しかしピラトはイエスさまを尋問してみて、イエスさまに罪がないことを確信しました。それでイエスさまを釈放するよう提案する。しかし人々は納得しない。人々はイエスではなく、強盗の罪で牢に入れられているバラバを代わりに釈放せよと要求する。そこでピラトは人々をなだめるために、イエスさまに鞭打ちを加える。むごい鞭打ちに処せられたイエスさまは、皮膚が裂け肉が裂け、血だらけの姿で人々の前に引き出される。「見よ、この人だ」と言って、釈放しようとするも、なおも人々は十字架刑を要求する。
 まさに心臓がどきどきするようなやりとりです。しかしここには、総督であるピラトの揺れ動く姿があります。それは神と人間との間で揺れ動く姿です。
 ユダヤ人指導者らは言いました。(7節)「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当ります。神の子と自称したからです。」
 するとピラトはこの言葉を聞いて、ますます恐れたと書かれています(8節)。そして再び総督官邸の中に入ってイエスさまに問う。‥‥さて、このときイエスさまはどこにいるかと言いますと、総督官邸の建物の中にいます。そしてユダヤ人指導者と群衆は、中庭にいる。ピラトはその間を往復していることになります。出たり入ったりしている。ここにもピラトの揺れ動く姿が描かれています。神と人との間で揺れ動く姿。定まらないんです。
 ピラトはイエスさまがローマ帝国の法律に照らして罪を犯していないことが分かっていました。そしてイエスさまとの問答を通して、イエスさまがただ者ではないことを感じていました。そして今また、ユダヤ人たちがイエスが「神の子と自称していた」と言ったのを聞いて、ますます恐れた。何を恐れたかというと、もしかしたら本当にこの人は神の子かもしれない‥‥そのように恐れたのだと思います。
 ピラトはイエスさまに問います。(9節)「お前は、どこから来たのか?」。‥‥この「どこから来たのか」というのは、「ガリラヤから」とか「ナザレの村から」とかいう問いではない。「もしかして、本当に神のもとから来たのか?」という問いに違いありません。
 それに対してイエスさまは何もお答えにならなかった。この無言は、「あなた自身はどう思うのか?」という問いのように私には思われます。神である方に問うピラト。しかし逆に神は人間に向かって問われるのです。「あなたはどう信じるのか?」と。
 そこでピラトは言います。「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」(10節)。‥‥この「権限」という言葉ですが、原語では「権力」と訳すこともできます。「お前を釈放することも、十字架につけることもできる。私はそういう権力を持っている」ということです。そしてその権力は、さらにその上の権力者、ローマ帝国の皇帝から与えられていると言いたいのです。
 それに対するイエスさまの答は、分かりやすく言えば「あなたの権力も神から与えられたものなのだ」ということです。あなたの権力は皇帝から与えられているのではない。実は神から与えられているのだと。‥‥この答は、ピラトをさらにおののかせることとなりました。「また『神』か。しかしこの人の言動を見聞きしていると、もしかしたら本当に神が背後にいるのではないか‥‥」。おそれおののいたピラトは、そんなふうに思ったのかもしれません。
 それでピラトは、イエスさまを釈放しようと努める。ピラトが自分で言ったように、本当にピラトに権限、権力があるのなら、群衆が何を言おうとイエスさまを釈放すればよいはずです。本当に神を恐れるのなら、そうすれば良い。しかしそれもできない。なぜならこの群衆という人間の群れも恐れているからです。まさに神と人との間で揺れ動くピラトの姿がここにあります。
 
   心の揺れを衝くサタン
 
 その揺れ動く心のピラトを見透かしたかのように、集まったユダヤ人たちはローマ皇帝を持ち出してピラトを脅します。(12節)「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」‥‥つまり、「我々は、この男が王を自称してローマ皇帝に反逆しようとしているから訴えているのだ。なのにこの男を釈放するというのなら、それはあなたが皇帝に背くことになるのだぞ」「なんなら、あなたのことを皇帝に訴えてもいいのだぞ」‥‥という脅しです。言葉はていねいでも、総督であるピラトを恫喝しているのです。イエスさまとやりとりして、真の神の権力を認めたピラトに対して、ローマ皇帝という人間の権力をちらつかせたのです。「さあ、きれいごとを言っていないで、あなたはどちらを選択するのか?」という悪魔のささやきが聞こえるかのようです。彼らはイエスさまを訴えている本当の理由を隠して、ピラトによってイエスさまを処刑させるために、そのように脅している。
 
   神への判決
 
 するとピラトは、イエスを官邸の建物から外に連れ出し、つまり庭に連れ出し、裁判の席に着かせたと書かれています(13節)。つまりここからが正式な裁判。これまでのやりとりは、イエスに対する訴えを受理するか否かの、事前審査でした。
 イエスさまの裁判を行った総督官邸の庭は、「敷石」という場所だったと聖書に書かれています(13節)。この場所は、現在発掘されています。エルサレムの旧市街地の中に、鞭打ちの会堂というカトリックの教会の礼拝堂があります。その地下に、当時のピラトの官邸のこの場所が発掘されていて、行くことができます。この写真がそれです。行ってみますと、この敷石の表面に、何かボードゲームのような模様を彫ったあとがあるんです。ガイドさんによると、それはローマ兵が暇つぶしに石の上に将棋のような双六のようなゲームをするために刻んだ跡だということでした。ローマ兵が暇つぶしのために、遊んだんです。もちろん、きょうの聖書の時はそれどころではなかったでしょうけれども、兵士たちにとってみれば、このイエスという男の裁判などどうでもよかったことでしょう。早く終わってくれと。そういう人もここにはいました。
 ピラトはイエスさまを引き出して言いました。(14節)「見よ、あなたたちの王だ」。ピラトはこの言葉を半分本気で言ったのだと思います。あなたたちの信仰による王だ、メシアだと。しかしそれに対するユダヤ人の群衆の答は死刑を要求するものでした。「殺せ、殺せ、十字架につけろ」
 全く言葉が通じない。もう狂乱状態です。頭からイエスはメシアを自称する偽物であり、ゆえに神を冒涜したので死刑だと決めつけている。いくら祭司長たちによって動員された人々だとは言え、人はどうしてこういう心境になるのでしょうか?
 しかしこれはいつでも、現代でも起きることです。現在はインターネットのいわゆるSNSサイトがそのような現象を引き起こしています。日本でも先の参議院選挙では、劇的な変化が起きました。それまであまり知られていなかった政党や、弱小政党だった党が、若い世代を中心に一気に支持を増やしたという現象です。私も注意深くインターネットを観察していましたが、偏った情報があっという間に拡散され、同調を表す「いいね」ボタンが押されてさらに拡散していきました。反対意見を言う者には誹謗中傷まがいの罵詈雑言が浴びせられ続ける。言っていることが事実かどうかも分からない。新聞やテレビは「オールドメディア」と呼ばれて、もはや信用されていない。嘲笑と失笑の対象です。何か祭りのように盛り上がって、ほかの意見は聞く耳持たぬ、という感じでした。そしてそれに乗せられて、さらに偏った言動や動画が拡散されていく。‥‥いま世界の政治も日本の政治も、そのようなことによって左右されつつあるのです。
 集まったユダヤ人たちは言いました。(15節)「わたしたちには皇帝のほかに王はありません」‥‥なんということでしょう!いみじくも彼らはイスラエルの子孫として、真の王は神であることを信じていたのではなかったでしょうか。憎きイエスを十字架という処刑台に送るためには、「ローマ皇帝のほかに王はない」などと、とても神を信じる者の言葉ではない。それさえも口にしています。いみじくも本当は神を信じていないことを自白してしまっている。
 そして神と人間との間で揺れ動いたピラトは、結局ローマ皇帝に反逆するイエスに加担する者として告発されることへの恐れがまさり、無罪と知っていて、イエスさまを十字架刑にする裁きを下してしまったのです。真実を捨て、圧力に屈したのです。
 
   神と現実の中で揺れ動くわたしたち
 
 この場面にはイエスさまの他に3者が存在しています。その3者は、いずれも私たち人間の姿をよく表しています。一人はローマ帝国のユダヤ総督ピラトです。イエスは本当に神の子なのではないかと思いつつ、一方では自分の地位を失いたくないというこの世の現実に引きずられている。神と人間の間で揺れ動いているんです。
 もう一つは、この場にいるイエスを憎むユダヤ人指導者たちと群衆です。彼らは、イエスが偽物だと決めつけている周りの人たちの声に同調しているだけです。真実を求めようとしない。
 そして直接出てきませんが、この場にいたローマ兵たち。彼らはイエスが何者であろうが関心がない。早く仕事が終わってほしいと思っている。無関心の人々です。
 このように、真実、真理のない状況。神なき状態に見えます。しかし一つだけはっきりしていることがあります。それは、たしかにここにイエスさまがおられたということです。神なき状況に見えるこの場所に、たしかにイエスさまは立っておられた。それは事実です。そしてこれら人間の罪を背負われて、十字架へ向かって行かれた。これが事実であり、真実です。
 今わたしたちの世界も、私たちの身の回りも、神なき世界のように見える。しかし一つ言えることは、イエスさまは確かにここにいてくださるということです。神を信じて良いのかどうか、神と人間の現実の間で揺れ動くような私たち。しかしたしかに、ここに、私たちのそばにイエスさまはおられるのです。そしてそのイエスさまを信じて歩むように、招いておられます。


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