2025年11月16日(日)逗子教会 主日礼拝説教・幼児祝福礼拝
●聖書 マタイによる福音書25章31〜40
●説教 「イエスさまの兄弟」
 
   幼児祝福
 
 本日は幼児祝福礼拝として守っています。ちょうど日本ではいわゆる「七五三」の時ですので、教会もそれをまねしたと思われる方もいるかも知れません。たしかに時期については、七五三に合わせているわけですが、幼児祝福ということ自体は、イエスさまの出来事から来ています。
 それはイエスさまが幼子を祝福したという出来事です。人々がイエスさまに手を置いて祈っていただくために幼子を連れて来た。それに対してイエスさまの弟子たちが、人々を叱りました。子供を連れてくる場ではないということでしょうか。それに対して、イエスさまはその弟子たちを叱りました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14、他)。そして子どもたちに手を置いて祝福なさいました。そのことを覚えて、幼児祝福をしています。
 
   イエスさまのたとえ話
 
 さて、その幼児祝福にさいして今日選びました聖書は、一体それとどういう関係があるかということですが、ともかく聖書を見てまいりましょう。
 これはイエスさまのたとえ話の一つです。しかもこれは世の終わりに関するたとえ話です。世の終わりにキリストが再び来られて、王としてすべての人々を裁くという設定になっています。いわゆる「最後の審判」というものです。イタリアのバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁面に描かれたミケランジェロの絵を思い出される方もいることでしょう。それをたとえにして語られています。
 お話は分かりやすいものですが、人々をその行いによって裁くという内容です。そして良い行いをした人たちを天国に入れると言われる。その理由をイエスさまは、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と言われます。ところがその人たちは、自分がイエスさまをそのように助けた記憶がない。それで彼らは、私たちがいつそのようなことをしましたか?と尋ねる。すると王であるイエスさまが、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とおっしゃった。
 つまり困っている人、助けを必要としている人を助けることは、イエスさまを助けるのと同じなのだということ。そのように語られています。
 
   靴屋のマルチン
 
 このたとえ話に基づいて書かれた有名なお話があります。それは「靴屋のマルチン」というものです。原作は、ロシアの文豪トルストイの書いた短編小説「愛あるところに神あり」という作品です。今日は子どもたちも一緒に出席していますから、その紙芝居をごいっしょに見てみましょう。
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「靴屋のマルチン」
@マルチンは町の通りが見える地下室で、今日も靴作りにはげんでいます。地下室の一つしかない窓からは、道行く人の足もとだけが見えました。マルチンは、履いている靴を見ただけで、誰が通ったかすぐ分かります。なぜって、町の人はみんな丁寧に丈夫な靴を作るマルチンに靴を作ってもらっていたからです。
Aマルチンは、ずっと前に奥さんが亡くなりました。またたった一人しかいない息子まで、病気で亡くしてしまいました。だから道行く人を見ると寂しくて仕方ありませんでした。「おれにはもう何の楽しみもない。神さまはあんまりだ!」マルチンは神さまをうらみ、やがて教会にも行かなくなりました。
Bマルチンの所に、ニコライじいさんが訪ねてきました。「マルチン、神さまのせいにするのは間違いだよ」
 「じゃあ人間はなんのために生きればいいんですか?」
 「マルチン、お前に命をくださったのは誰かな?」
 「‥‥」
 「神さまじゃよ。神様が命をくださったんだ。だから人は、神さまのために生きなきゃならん」
 「神さまのために‥‥?」
 「聖書を買って読んでごらん。神さまのために生きるにはどうしたらいいか、ちゃんと書いてあるから」
Cマルチンはさっそく聖書を買ってきて読みました。それからのマルチンは、靴の仕事をいっしょうけんめいにしました。そして夜は聖書を読んでお祈りし、イエスさまのことを考えながら眠る毎日になりました。
 「マルチン」
D誰かが呼びかけるような声を聞いて、マルチンは振り向きました。
 「だれ?」
 でもだれもいません。
 「マルチン、マルチン、あした通りを見ていなさい。わたしはお前の所に行くから」
 そういう声がしました。マルチンは、それがイエスさまの声のように思いました。
E次の日、イエスさまは本当にイエスさまが来るかどうか、なんども窓の外を見ました。
 外は雪が積もっています。ふと、一人のおじいさんに目がとまりました。雪かきに疲れて立ちすくんでいます。
 「こんな寒い日に、外の仕事はたいへんだなあ」
 マルチンはおじいさんに声をかけました。
 「おじいさん、寒いでしょう。どうですか?中に入ってお茶でも飲んでいきませんか」
Fおじいさんは中に入って、お茶を飲んでとても喜びました。
 「おかげで心も体も温まったよ」
 「それはよかった。またいつでも寄ってくださいよ」
 おじいさんは御礼を言ってまた雪かきの仕事に戻っていきました。
 ‥‥間‥‥
「イエスさまは、いつお出でになるのかなあ‥‥」
 マルチンはまた靴を縫い始めました。
G外は冷たい風が吹いています。
 しばらくすると、穴の開いた靴を履いた女の人が疲れた足取りで近づいて、マルチンの家の前でしゃがみ込んでしまいました。ボロボロの服を着て、抱いている赤ちゃんをくるむ毛布もありません。マルチンは急いでドアを開けました。
 「おかあさん、どうしたんです?さあさあ、家の中へお入りなさい」
H「さあ、暖炉の前で暖まるといい。」
 そしてそのお母さんが朝からなにも食べていないことを聞くと、マルチンはパンと、あたたかいシチューを食べさせてあげました。そしてたんすの中からコートを出して、そのお母さんに渡しました。
 「ありがとうございます。なんと御礼を言ったらよいか‥‥」
 「御礼なんかいいんだよ。喜んでくれれば、本当にうれしいよ」
 女の人は御礼を言って出ていきました。
I今度は外で声がしました。
 「こら、まて、どろぼう!」
 突然の大声に、マルチンは外に飛び出ました。
 「さあ警察に突き出してやる」
 「盗んでなんかいないよう!離してくれよう!」
J男の子は、リンゴ売りのおばあさんからリンゴをとって逃げようとしたのです。
 マルチンは二人の間に入っていいました。
 「おばあさん、ゆるしてやってくれないか。リンゴのお金はおれが払うから」
 「なぜゆるすんだよ。子どもを甘やかすんじゃないよ」
 「この子も、おなかが空いてたんだ。なあ、おばあさん、かみさまはゆるしなさいとおっしゃている。オレたちも赦し合わなくちゃ‥‥」
K「ほんとにそのとおりだねえ」
 「おい、ぼうや、もう二度とこんなことをしちゃあ、いけないよ」
 「うん。おばあちゃん、ごめんね。ぼく、おばあちゃんの荷物を持っていってあげる」
 「そうかい、そりゃ助かるよ」
 おばあさんと男の子は二人並んで帰っていきました。
L窓の外はすっかり暗くなりました。マルチンは仕事を終えて、ランプの明かりで聖書を開き、静かにきょうのできごとを思い出していました。
 「イエスさまはおいでにならなかったな」
 すると、どこからか声がします。
 「マルチンよ、わたしがわからなかったのか?」
 「ど、どなたですか?」
 「わたしだよ、あれはみんな、わたしだったのだ」
Mマルチンは雪かきのおじいさんを思い出しました。
 「あれもわたしだったのだ」
 赤ちゃんを抱いた貧しいお母さんを思い出しました。
 「あれも、わたしだったのだよ」
 おばあさんと、リンゴを持った男の子も。
 「イエスさまはたしかにお出でくださったのだ!」
 マルチンの胸は、喜びでいっぱいになりました。
 ‥‥終わり‥‥
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 なんとも心温まる話です。しかし同時に、私たちは、自分の胸を打たざるを得ない。私はこのマルチンのようではない。愛のない者だ、と。本日の聖書箇所を見ても、自分はこのようではないと思う。
 実はこの聖書のお話は、まだ続きがあります。この続きは、聖書をお持ちの方は読んでいただきたいのですが、今度は最後の審判で永遠の罰を与えられる人たちのことが書かれているんです。こう書かれています。
 『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
 つまり、行いによって裁きを受ける。その行いとは、困っている人、助けを必要としている人を助けなかった。それはすなわちイエスさまを助けなかったということによる裁きです。
 
   赦された者として
 
 さて、しかしここで疑問が生じます。それはこれまでのイエスさまの教えとは、ずいぶん違っているということです。今日読んだたとえ話は、行いによって人は裁きを受けるという話です。しかしこれまで私たちが福音書を読んで教えられてきたことは、イエスさまは正しい人を招くのではなく、罪人を招かれる方であるということです。罪人というのは、正しい行いができないこと、愛の足りないことです。そしてイエスさまは、罪人を救うために十字架にかかって、ご自分の命を献げられたのではなかったか。
 それで私たちは、安心して私が罪人であると告白できる。そしてこのような罪人の私を十字架にかかって救ってくださったイエスさまに感謝する。それが私たちの信仰であるはずです。そしてそれはその通りです。
 そうすると今日のこの聖書のたとえ話はなんなのか?‥‥すなおにこれを読んで、私たちは感銘を受けると同時に、自分の至らなさを思わざるをえない。自分の至らなさ、愛の足りなさが身に染みます。だから、このたとえ話を聞いて、自分はとうてい救われる者ではないと思います。
 そこです。このたとえ話を聞いて、自分はとうてい救われない、神の国に行くことができないと思う。しかし、そう思う私たちをイエスさまが救われるということです。そのために十字架に向かって行かれる。事実、このたとえ話のあとは、イエスさまの受難の場面に続いています。愛が足りなくて、罪人である私たちのその罪の罰を、イエスさまが私たちの代わりに十字架で受けてくださる。
 そこまで考えた時、このたとえ話も、逆にこんな私、資格のない私を救ってくださるイエスさまなんだということを思う、そして感謝という思いがわき上がってまいります。その感謝の心をイエスさまは受け入れてくださる。そしてそんな私たちに少しずつ愛を教えていってくださる。行いによって救われるのではなく、信仰によって救われるというキリストの救いが逆に浮かび上がってきます。
 
   子どもを育てる者として
 
 「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。この「最も小さい者の一人」に、幼子も含まれていることはまちがいありません。
 子育てというのは、まことに尊い働きに違いありません。通りすがりの人を助けることはほんの短い時間で済みますが、子育ては24時間、365日かかわることです。逃げ出すわけにもいきません。ですから、親として完全な子育てをするということはできません。あとから振り返ると、十分なことができなかった、あの時はこうするべきだった、愛が足りなかった‥‥などと後悔するがたくさんあるはずです。今日の聖書のたとえ話でいえば、自分はとても神の国に入れていただける者ではないと、思います。
 しかしそのとき私たちもまた「最も小さい者の一人」だと見なしてくださる。それがイエスさまです。そしてそういう私たちを赦し、受け入れ、愛してくださるイエスさまなんです。愛の足りない私たちを「最も小さい者の一人」と見なしてくださり、愛してくださるイエスさま。そのことを忘れないでいたいと思います。


[説教の見出しページに戻る]