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2025年11月9日(日)逗子教会主日礼拝/召天者記念礼拝
●聖書 マルコによる福音書5章35〜43
●説教 「眠りからの目覚め」
ひとりの父親
本日はマルコによる福音書に記されているできごとを通して、主の恵みを与えられたいと思います。
ただ今は、マルコ福音書の5章35節から読んでいただきましたが、実はこの出来事はもっとまえの21節から始まります。それでことの発端である21節からのことを簡単に振り返ってみます。イスラエル北部のガリラヤ湖。弟子たちと共にその湖を渡って、対岸の異邦人、ゲラサ人の地に行かれたイエスさまは、そこで悪霊にとりつかれた男と出会います。そしてその男から悪霊を追い出すということをなさいます。そしてまたガリラヤ湖を舟で渡って戻ってこられました。カファルナウムの町に戻ってこられたのです。するとすぐにおおぜいの群衆がイエスさまのそばに集まって来ました。イエスさまのお話しを聞くためでしょう。
するとそこにヤイロという人がイエスさまに懇願しました。自分の娘が死にかかっているので、助けてくださいと懇願いたしました。ヤイロは会堂長でした。会堂長というのは、ユダヤ人の町や村には必ずシナゴーグと呼ばれる会堂があって、その会堂を管理する人です。会堂は毎週土曜日の安息日に神を礼拝する場所です。それだけではなく、子どもたちが律法を学ぶ場でもあり、また地域の公民館のような枠割りもありました。そして会堂長は、その会堂を管理し、安息日の礼拝を取り仕切る人でした。従って、地域では名誉ある立場でした。そして会堂長は、イエスさまと対立するファリサイ派や律法学者とも親しい存在でした。
その会堂長であるヤイロが、娘が死にかかっているので手を置いてやってください、そうすれば娘は助かります、とイエスさまに懇願したのです。ここにひとりの父親の姿があります。ファリサイ派が嫌うイエス、そして会堂長としての地位と名誉、そんなものはかなぐり捨てたのです。そして、とにかく娘を助けてほしいと懇願しました。一刻一秒を争う事態です。ヤイロはひとりの父親として必死になっていました。
そうしてイエスさまはヤイロの家に向かうこととなりました。一緒におおぜいの群衆もついて行きました。
長血をわずらった女
ところが、その一刻一秒を争う緊急事態のときに事件が起きます。事件というのは、一人の女性がこっそりとイエスさまの服に触れたという出来事です。彼女は長血と呼ばれた婦人病を患っていました。出血が止まらないのです。もう12年もその病気で苦しめられていました。多くの医者にかかったけれどもいっこうに治らず、全財産を使い果たしてしまったと書かれています。しかもこの病気は、穢れた病とされていました。ですからみんなから、穢れている人と言われ、その意味でも長い間ずっと苦しんできたことでしょう。
その女性が、群衆に紛れて後ろからイエスさまの服にさわりました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったんです。すると彼女が信じたとおり、彼女はすぐに病気が治りました。
ところがそれで終わりではなかったんです。イエスさまはご自分から力が出ていったことを感じられた。そして「私の服に触れたのは誰か?」といって立ち止まって捜し始められたんです。どうしてイエスさまはそのように探されたのか?こっそりさわったことを叱るためか?‥‥などと思ってしまいます。
するとその女性は、震えながら進み出て、イエスさまの前にひれ伏して、ありのままを話しました。するとイエスさまはおっしゃいました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
ここで、イエスさまがなぜ自分の服に触れた人をしつこく探されたかが分かります。「あなたの信仰があなたを救った」という言葉、救いの宣言をおっしゃるためだったのです。病気が治っただけではダメだったんです。「あなたは救われた」、この救いの宣言の言葉が告げられなければ、本当の意味で救われないんです。
遅かった
そのような出来事が挟まりました。しかし一方、最初にイエスさまに懇願した会堂長ヤイロは、このかん、どういう思いだったでしょうか。娘が危篤状態。「早くしてくれないかな‥‥」と思って焦っていたのではないかと思います。
すると案の定、会堂長の家から人々が知らせに来ました。ここからが今日読んだ聖書箇所です。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」(35節)。なんということでしょう。遅かったんです。
私たちは思います。こちらのほうを優先すべきだったのではないか?と。ヤイロの娘こそ危篤状態であり、一刻一秒を争う病状だったのだから、イエスさまはまずこちらに行くべきだったのではないか‥‥そのように思います。イエスさまはなぜそうなさらなかったのか?
そこで私たちはイエスさまを非難するのではなく、考えてみなければなりません。イエスさまの服の裾にこっそり触れた長血をわずらった女性。この人も救いを必要としていました。ですから一人の人が救われるという点では、どちらが先かということはできないのだと。人ひとりが救われるということは、それほど貴いことなのではないか。そしてまた、このあと起きる出来事を読んで、私たちは納得いたします。
ヤイロの家から来た人々はヤイロに言いました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 遅かった。もう来ていただくには及ばない。死んでしまったのだから、もう終わった。今さらイエスさまに来ていただいても仕方がない。誰もがそう思います。それほど「死」という現実は厳しいものがあります。
ところが話はここで終わっていません。イエスさまがこうおっしゃったからです。「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)。
ヤイロが恐れていたことが起きてしまった。最愛の娘が死んでしまった。しかしイエスさまは言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。」 何を信じろというのか? ここに至って何を信じろと言われるのでしょうか?
私たちは「何を」信じるのか、と思う。しかし最初にヤイロは、娘を癒やしてくださることを「誰に」頼みに来たのだったでしょうか?‥‥そうです。イエスさまに、お願いに来たのでした。するとこの「恐れることはない。ただ信じなさい」の信じなさいは、「何を」信じるのか、ということではなくて、「誰を」信じるのかということであることが分かります。すなわち、イエスさまを信じなさい、ということです。何がこれから起きるかは分からない。しかし、イエスさまを信じなさい、と。
聖書で言う「信じる」という言葉は、むしろ日本語では「信頼する」という言葉になります。イエスさまを信頼する。何が起きるか分からないけれども、とにかくイエスさまに信頼するということです。これは言い換えれば、イエスさまにお任せする。イエスさまにゆだねる、ということです。それがここで言われる「恐れるな。ただ信じなさい」ということです。
死という絶対の壁に直面しているヤイロたち。「もう来ていただくには及ばない」というべき、人間にとって絶対の壁である死。その死に向かって行かれるイエスさまの姿が、あざやかに浮かび上がってきます。イエスさまは、ペトロとヤコブとヨハネの3人の弟子たちだけ連れて行かれました。これはこれから起きることが見世物ではないこと、そして非常に大切なことが起きることを表しています。他の弟子たちは、おそらく着いてこようとする群衆を足止めするためにがんばったことでしょう。
あざ笑う人々
こうしてイエスさま一行はヤイロの家に着きました。すでに大声で泣きわめいている人々がいました。ユダヤでは、人の死に際して、なるべく大声で泣くのが礼儀だったのです。
そしてヤイロの家の中に入られました。そしておっしゃいました。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」(39節)。それを聞いてそこにいた人々はあざ笑ったと書かれています。たしかに、死んでいるのに「眠っている」という。あざ笑うのも無理もありません。
私たちは思い出します。私たちの親や肉親が息を引き取った時のことを。まだ体も温かい。目を閉じて眠っているようにしか見えません。大声で呼びかけたら目を覚ましそうに見えます。本当そうなら、どれだけうれしいことでしょうか。目を覚ましてほしいと願う。しかしそれも、火葬場で棺桶が窯の中に入れられる時、はかない願いであったことを突きつけられます。それほど厳しい現実が、死というものです。
イエスさまが「子供は死んだのではない。眠っているのだ」とおっしゃった時、その場にいた人々はイエスさまをあざ笑いました。しかし私たちは、このあざ笑った人々を軽蔑することができるでしょうか?‥‥私の恩師であった清水恵三先生は、このところについて次のように書いています。‥‥私たちが「復活を信じる」と告白するその舌の根も乾かないうちに、この世の思い煩いにあたふたしている生活。これは「イエスをあざ笑う」ことでなくて何であろう‥‥と。私たちは信仰告白のとき「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白します。「全能」ですよ。また「身体のよみがえりを信ず」と告白します。しかし一方で、この世の生活のことであれこれと思い煩い、悩んでうろたえる。まさに私たち自身も、イエスさまの言葉をあざ笑っている者の一人と言えます。
人々はイエスさまをあざ笑いました。続きを読むと、「しかし、イエスは」と続いています。皆を外に出した。信じようとしない人は邪魔だといわんばかりです。そして死に立ち向かって行かれる。
タリタ・クム
そしてイエスは子供の手をとって「タリタ・クム」と言われました。これは当時ユダヤの人たちが語っていたアラム語です。このように、新約聖書の言葉であるギリシャ語に訳さず、イエスさまが語られたままのアラム語で書き留めているということは、イエスさまが語られたそのままを書いているわけで、非常に印象的に耳に残ったからでしょう。たしかにこう言われた、と。この福音書を書いたのはマルコであり、マルコはこの場にいませんでしたから、あとになってペトロから聞いたのでしょう。マルコは「タリタ・クム」の言葉の意味を「これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。」と、言葉を付け足してギリシャ語に訳しています。イエスさまの主権を強調しています。
タリタ・クム。すると少女はすぐに起き上がって、歩き出した。まるで昼寝から目覚めたかのようにです。見ていた人々、すなわち3人の弟子と少女の両親は、驚きのあまり我を忘れました。12歳になっていた。先ほどの長血の女が、12年間病に苦しんでいたことと重なります。二人ともイエスさまによって、新しい命を歩み始めることができた。そのように思います。
イエスさまはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じられました。誰にも話さないようにと言っても、今や聖書に記されているので誰でも知っているわけですが。これは実は期限付きの命令です。ヒントは、マルコ福音書で言えば9章9節にあります。やはり3人の弟子だけを連れてイエスさまが高い山に上られた。そしてそこでお姿が真っ白に輝き、エリヤとモーセが現れ、イエスさまと語り合ったという出来事です。そのあとイエスさまは3人の弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた、と書かれています。
つまり、他言無用の命令は、イエスさまの復活によって、初めてその意味が分かる出来事であるからだ、ということです。イエスさまの十字架の死と復活。それはなんのためであったか。私たちを救うためであった。すなわち、この少女のよみがえりもまた、イエスさまの十字架の死と復活を通してもたらされるものだということです。言い換えれば、死からのよみがえりと永遠の命は、イエスさまの十字架によってもたらされるということです。それでイエスさまの復活によって、初めてこれらの意味が分かる。
最後に36節をもう一度見てみます。イエスさまは言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)。これは、死んだ娘に対して言われたのではなく、生きている者に向かって言われた言葉です。生きている者がイエスさまに信頼することによって、死んだ娘を生き返らせている。それゆえ、私たちがこのように礼拝しているのは、自分のためだけではないということが分かります。
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