2025年11月2日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エレミヤ書12章13
    ヨハネによる福音書18章38b〜19章7
●説教 「この人を見よ」
 
   真理と現実の狭間
 
 引き続き、ローマ帝国のユダヤ総督であるポンテオ・ピラトの官邸の場面です。前回のところで、ピラトはイエスさまに「真理とは何か?」(18:38)と問いました。イエスさまとの対話の中で、イエスさまが「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(18:37)と語られました。それを聞いてピラトは、「真理とは何か」とイエスさまに問いました。
 このピラトの言った「真理とは何か」という言葉ですが、どういう心境でピラトが言ったのか、大きく言って二つの解釈があります。一つには、ピラトは「真理などあるものか」と、あざ笑うように言ったという解釈です。この世を見ろ、と。この世の中に真理などというものがあるはずがない。弱肉強食の世の中で、みんな自分のことだけ考えて生きているだけだ。わしもそうだ‥‥。と、言ってみればそのような感じで、バカバカしい思いで「真理とは何か」と言ったというものです。
 もう一つは、ピラトは真剣に問うたという解釈です。つまり、ピラトはイエスさまと対話していて、本当に真理を求める心、救いを求める心が芽生えたという解釈です。この殺伐とした世の中で、もし真理というものがあるのなら、それを知りたい‥‥。そのような思いでイエスさまに尋ねたというものです。
 私はと言うと、前回申し上げたように、後の方の解釈をとりたいんです。どんな人にも心の奥底に、神の救いを求める心がある。どんな人にも真理、すなわちものごとの真実を知りたい心が、実はあるのだと。
 私も、神を捨て去り自堕落な生活をしていた頃、それが良いと思っていたわけではありませんでした。こんな状態で一生を終えていいんだろうか?という疑問が常にどこかにあったように思います。ピラトにも何か求める心が生まれていたのではないか。そのように思います。それがこのあとピラトが、イエスさまをなんとか釈放しようと務めることにつながっているように思います。
 もちろん、さまざまな解釈があって良いんです。私の考えが当たっているのかどうかは分かりません。私にはそう読めるというだけです。
 さて、しかしピラトにはイエスさまとゆっくり対話している時間はありませんでした。総督官邸の庭には、祭司長をはじめとした、イエスさまを十字架にかけるよう要求する人々が詰めかけていたからです。
 
   ピラト vs 民
 
 ここでピラトは、イエスさまを釈放しようと努めます。ピラトはピラトなりに、真実を貫こうとします。ピラトは人々の前に出て行って言いました。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(38節)。これはもちろんローマ帝国の法律に照らして、罪を犯していないということです。
 イエスさまを訴えているユダヤ人指導者たちは、イエスはローマ帝国の法律を犯しているという。自らをユダヤ人の王として、ローマ帝国に反逆を企てているという。しかしピラトはイエスさまと対話してみて、そうではないことが分かった。それで「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」、すなわちイエスには罪がないと言ったのです。
 そして彼らに提案をしました。ちょうどユダヤ人の大きな祭りである過越祭のときでした。そして過越祭のときには、慣例で恩赦をおこなって囚人の一人を釈放することになっていました。それでピラトは、あなたがたが言うユダヤ人の王イエスを釈放してほしいかと提案しました。
 ところが彼らは、「その男ではない。バラバを」(40節)と叫びました。このことによって、ピラトの官邸に詰めかけているのがユダヤ人指導者によって動員された人々であることが分かります。
 ヨハネによる福音書は、このバラバは強盗であったと書いています。なおほかの福音書ではどうなっているかというと、ルカ福音書、およびマルコ福音書では「暴動と殺人」のかどで投獄されていたと書いています。マタイ福音書では、「バラバ・イエスという評判の囚人」と書いています。バラバもイエスという名前だったんです。つまり、バラバと呼ばれるイエスか、ユダヤ人の王と言われるイエスか、どちらか、と。
 ヨハネ福音書では、イエスさまと、強盗であるバラバを並べています。そして人々は、「その男イエスではなく、バラバを」釈放せよと叫びました。これは神の御子の命は、強盗の命にも値しないということです。イエスよりも強盗のほうがマシだと言っているのと同じです。
 ピラトはなおもイエスさまを釈放しようと努めます。ピラトは自分の兵士たちに、イエスさまを鞭で打たせます。鞭で打つというと、痛いだろうな、ぐらいにしか思いませんが、この鞭というのは、何本もの革紐に動物の骨や金属片が取り付けられた鞭です。そんなもので打たれたら、皮と肉が避け、血がほとばしる、悶絶するような残酷な鞭です。ですから、メル・ギブソン監督の映画「パッション」が描き出したのが事実に近いでしょう。ピラトは鞭で打たせて、民衆を納得させようとしたのです。
 さらにローマ兵は、イエスさまに茨の冠をかぶせました。茨、鋭いとげが何本も突き出ています。それを頭にかぶせれば、痛いのと血が流れるのとで、見ていられないような光景に違いありません。さらにローマ兵は、紫の衣を着せました。紫というのは、赤紫と言ったほうがよい色で、その色のマントは王さまが身につける物です。嘲ったんです。そして「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打ちました。イエスさまをなぶりものにしたんです。そこまでやるか、という感じですが、ローマ兵たちは日ごろから反抗的なユダヤ人に手を焼いていたので、イエスさまを嘲り、なぶりものにすることによって、日ごろのうっぷんを晴らしたのだと思います。
 ピラトも、兵士たちがここまでイエスさまを手荒く扱うとは思っていなかったかもしれません。
 
   何を見ているか
 
 しかしピラトも、イエスさまがローマ法に対して無罪であることが分かっているのなら、ただちに釈放したらよいと思います。しかしそうしないで、イエスさまを鞭で打たせたりしている。すなわちピラトは、このユダヤ人の反応を見ています。ピラトは、ローマ皇帝からユダヤ統治を任された総督です。総督の任務は、いかにして占領した国の民をうまく治めるかということにあります。最悪は、暴動が起きて、それが拡大して手がつけられなくなることです。そうすると皇帝から責任を問われる。ですから、このときも、どうしたらイエスの裁判が暴動に発展しないようにするかということに腐心していることが分かります。自分の地位を心配しているんです。
 正しい裁判をしようとしているのですけれども、それよりも自分の地位を心配している。つまりピラトはローマ皇帝のほうを見ているんです。
 一方イエスさまはどうでしょうか。このかん、イエスさまはどういう思いでいたことでしょうか。それはいろいろ想像できますが、はっきりしていることは、イエスさまは神さまを見ているということです。神さまへの全面的な信頼。神さまにすべてを委ねておられます。それがこの時のイエスさまです。どんな不利な状態であろうとも、神さまが行けと言われたのだからそれに従う。
 ここに、ピラトとイエスさまの違いがあります。
 
   エッケ・ホモ
 
 ローマ兵によって残酷なムチで撃たれ、ズタズタの体になったイエスさま。さらに茨の冠をかぶせられ、嘲りのために紫の服を着せられた姿で、人々の前に引き出されました。ピラトはいいました。「見よ、この男だ」(5節)。この場面は有名な場面です。「見よ、この男だ」、この言葉は「見よ、この人だ」とも日本語に訳されますし、「この人を見よ」と訳されることもあります。
 そしてピラトはローマ人でしたから、ラテン語で言ったものと思われます。ラテン語では「エッケ・ホモ」です。そう聞きますと、ああと思う方もおられるのではないでしょうか。古来多くの画家が「エッケ・ホモ」と題した絵を描いてきました。たとえばこちらをご覧ください。(スライドを見る。)こちらはカラヴァッジョの描いた絵です。こちらはアントニオ・シセリが描いた絵です。いずれもイエスさまの体がきれいです。ひどい鞭打ちを受けたように見えません。
 そしてこちらは、映画「パッション」の中のこの場面です。総督官邸の庭に詰めかけた群衆。ユダヤ人指導者らが動員した人たちです。その人たちをなだめるかのように、ピラトが「エッケ・ホモ」と叫ぶ。「見よ、この人だ」と。こちらは非常にリアルです。イエスさまの体がひどい鞭打ちでズタズタになっています。これが真実でしょう。
 ピラトは‥‥このようにボロボロになり、傷だらけで茨の冠をかぶらされても無抵抗な、何もすることのできない男だ。これでもまだあなたがたは、この男がローマに対して反乱を起こすというのか?あなたがたがは、これでもまだこの男を十字架につけろと言うのか?‥‥と、そのように言いたいのです。そして釈放させようと。
 しかし人々の反応は少しも変わることなく、「十字架につけろ!十字架につけろ!」という大合唱でした。狂乱状態です。もはや全く話が通じない。
 
   この人を見よ
 
 ピラトは、鞭でズタズタになるまで打たれ、茨の冠をかぶせられて血みどろになったようなイエスさまを指して、エッケ・ホモと言いました。こんな無力な男に何ができるというのか?と言って人々をなだめようとした。
 しかし、私たちにはこのイエスさまの姿は、全く別のものに見えます。この打たれた傷は、なんのためであったか?ということを考えた時、私たちは衝撃を受けます。イエスさまが私たちの身代わりになってくださった。そのことを私たちは知っているからです。この私が、私の罪のためにこのように罰を受けるはずであった。それをイエスさまが身代わりとなって受けてくださった。‥‥その真実です。イエスさまが打たれた鞭、その一つ一つの傷は、私が受けるべき鞭であり傷であった。それをイエスさまが変わってくださった。イエスさまが代わりに罰を受けてくださった。
 それによって、私たちは罪を赦されました。イエスさまが私の代わりに呪いを受けてくださいました。だから私たちはもう呪われていません。そのことを信じるように‥‥イエスさまが招いておられる姿でもあります。
 このあと讃美歌21ー280番「まぶねの中に」を歌います。これは前の讃美歌では121番で、歌詞は変わっていません。讃美歌は歌い出しの歌詞を題名にする習慣がありますが、この讃美歌は本当は「この人を見よ」と題すべきものです。今日の聖書箇所を歌っているんです。私はこの讃美歌を歌うたびに、心が打たれます。「エッケ・ホモ」のイエスさまを思いながらご一緒に歌いましょう。


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