2025年10月26日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩篇60編6
    ヨハネによる福音書18章28〜38a
●説教「真理は存在するか」
 
 今週金曜日、10月31日は、世間ではハロウィンですが、プロテスタント教会では宗教改革記念日です。今から500年以上前の1517年10月31日に、ローマ・カトリック教会の司祭であったドイツのマルチン・ルターは、いわゆる「95箇条の論題」をおおやけにしました。そのことをもって宗教改革の始まりとされています。ルターは贖宥状(一般には「免罪符」)というものを認めませんでした。そして、それはローマ教皇の決定権を否定することに至り、プロテスタント教会の誕生となりました。
 先ほど歌った讃美歌「神はわがやぐら」はそのルターが作った曲です。宗教改革を進めるルターの思いが込められています。プロテスタント教会は、教皇の権威を否定すると共に、功徳を積むことが神の罰を軽減するという考えを否定します。そして信仰を決定する権威は聖書のみにあること、私たちが救われるのはイエス・キリストを信じる信仰のみによること、主の恵みのみによることを説きます。そしてそれこそが聖書の説いていることでありますから、プロテスタント教会は聖書の説く福音の原点に立ち帰ることをたいせつにする教会であると言えます。
 
   裁判にかけられる神の子
 
 さて、捕らえられたイエスさまは前大祭司アンナスのところに連れて行かれたあと、その年の大祭司カイアファのところに連れて行かれました。そして次に、明け方になって総督官邸に連れて行かれました。総督とは、ユダヤを統治しているローマ帝国の現地における責任者です。そしてその総督の名前が書かれています。それがピラトです。
 ピラトの名前は、毎週この礼拝で皆さん口にしておられます。使徒信条の中に出てくる名前、ポンテオ・ピラトです。使徒信条の中に出てくる人間の名前はイエスさま以外ではマリアとピラトの二人だけです。
 なぜ使徒信条にマリアとピラトの名前が出てくるのか?‥‥たしかにマリアはイエスさまの母となった人であり、ポンテオ・ピラトはイエスさまに十字架刑の判決を出した人です。ですからこの二人の名前が出てくることによって、神の子であるイエスさまが人の子としてこの世を歩まれた歴史的事実を証明しているということができます。しかしこの二人の名前は、ただ歴史的事実を言おうとしているだけではありません。
 まずマリアですが、やはりそこでクローズアップされるのは、マリアの信仰です。まだヨセフと結婚する前に聖霊によってイエスさまを身ごもりました。そのことを告げる主の御使いの言葉、とくに「神にできないことは何一つない」という言葉に対して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」とマリアは答えました。主なる神さまを全面的に信頼している。その言葉は、主の前にへりくだった信仰の見本の言葉と言うことができます。つまりマリアは、私たちの信仰の模範として書かれている。
 ではピラトは?ということになりますが、ピラトはイエスさまが法に照らして無罪であることを知っていました。しかしイエスさまの死刑を要求する人々の声に押され、また自分の地位が危うくなることを恐れ、揺れ動いたあげくにイエスさまを十字架につけるために引き渡してしまいます。ここに私たち多くの人間、罪人の姿の典型を見ることができます。そのように、罪によって揺れ動く人間の姿の代表として名前が記されているとも言えます。
 マリアとピラトが出てくる使徒信条の箇所はこう述べています。「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ‥‥」。
 ピラトのもとで苦しみを受けられたイエス。それはまた、私たちのもとで苦しみを受けられたイエスと言い換えることができます。
 イエスさまが、ユダヤ人指導者たちによってピラトの官邸に連れて行かれたのは、明け方であったと書かれています。なぜそんなに朝早く総督府に連れて行かれたのか。それは、ユダヤ人指導者たちにとっては、イエスさまを支持する民衆が気がつかないうちに死刑の判決を出してもらおう、ということでしょう。
 彼らはイエスさまを総督官邸に連れて来たけれども、官邸の中に入らなかったと書かれています。その理由は、「穢(けが)れないで過越の食事をするためである」と書かれています。ユダヤ人の大切な祭りである過越祭の食事につくために、穢れたくなかったからであるというのです。穢れというのは、旧約聖書の律法上の規定です。とくにレビ記には、どういう場合に人は穢れるかということがことこまかに書いてあります。人間や動物の死体に触れると穢れるとか、穢れた動物など、そういうものを食べると穢れるとかいろいろ書かれています。そうすると異邦人はそういうものに接して穢れているかも知れない。穢れた物に触れると穢れると律法に書かれています。だからその穢れているかも知れない異邦人であるピラトの官邸に、彼らは入らなかった。
 そのように、穢れの規定という当時の神の掟を熱心に守ろうという人たちが、神の子であるイエスさまを殺そうとしている。イエスさまが神の子であることが分からない。まさに皮肉であります。その矛盾を、ヨハネ福音書は描き出しています。
 
   罪状
 
 ピラトは彼らに「どういう罪でこの男(イエス)を訴えるのか?」と問いました。ピラトはすでにイエスさまに関する情報を得ていました。ユダヤ人当局者がイエスさまをが憎み、ねたんでいることを知っていました。
 ピラトが問うと彼らは答えました。(30節)「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」‥‥答えになっていませんね。ピラトは、イエスさまを訴えているこの訴えが、ユダヤ人の宗教上の問題であることを知っていました。そして、そういうことには係わらないのがローマ人の態度でした。だからピラトは、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と突き放しました。ところがそれに対して彼らは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言いました。イエスさまの死刑を要求したのです。ローマ帝国に対して死刑を要求する。これはイエスさまが、ローマ帝国に反逆・反乱を起こそうとしているということです。そうするとピラトはイエスさまを尋問しないわけにはいかなくなる。
 ルカによる福音書のほうではここで彼らは、(ルカ23:2)「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と言っています。
 それでピラトはやむなくイエスさまを調べることになりました。ちなみにユダヤ人指導者たちがピラトに言った言葉、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」という言葉には注意が必要です。なぜなら、ユダヤ人の律法に違反することならば、ローマ帝国の統治下にあっても、死刑にすることができるからです。実際に、ヨハネ福音書の8章では、姦通の現場で捕らえられた女を石打の死刑にしようとしましたし、このあとの使徒言行録では実際にキリスト教会の指導者の一人であるステファノを石打の死刑にしました。
 ではなぜ彼らはこのときは自分たちの律法による死刑にせず、反逆罪をでっち上げてローマ帝国の手によって死刑にさせようとしたのか?‥‥それは一つには、イエスさまを殺した責任をローマ帝国になすりつけるためです。イエスさまを支持している人々の怒りをかわそうとしたのです。
 もう一つが、32節に書かれていますように、イエスさまがどのような死を遂げるかについての、イエスさまご自身の予言が実現されるためだったということです。イエスさまはご自分が十字架に上げられて死ぬことを予告しておられたのです。
 ユダヤ人指導者たちが、イエスさまをローマ帝国の手によって十字架にかけさせるのにこだわった理由には、十字架という死刑が、死刑の中でも最も残酷な見せしめの刑だったという理由も考えられるでしょう。大祭司らユダヤ人指導者にとっては、それほどまでにイエスさまのことをねたみ、憎しみを抱いていたのです。
 イエスさまはご自分が十字架にかけられて死ぬことを予言しておられました。すなわち、十字架にかけられるのはイエスさまにとって予想外のことではなく、あらかじめご存じのことだった。つまり、このときにおいてもユダヤ人指導者や、ローマ帝国の総督ピラトに主権があるのではなく、依然としてイエスさまに、そして神さまに主権があるということです。十字架の死さえもです。ですから、無力で、されるがままの憐れなイエスさま、ということではない。さからうことなく自らの意思で十字架に向かって進んで行かれるのです。私たちを救うためにです。
 
   裁かれているのはどちらか
 
 そこでピラトはもう一度官邸に入り、イエスさまを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言いました(33節)。ここからローマ帝国の総督ピラトと、イエスさまの会話が始まります。するとイエスさまはお答えになりました。(34節)「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
 あなたはどう思うのかと、イエスさまは逆に尋ねました。ここは注目すべき所です。なぜなら、この言葉は、ピラトだけではなく、すべての人に対して当てはまる質問だからです。すなわち、「あなたはイエスさまを誰だと言うのですか?」と。神の遣わされたイエスさまとは、どういう方なのか、だれだと言うのか。実は問いは私たちに投げられています。
 ピラトはイエスさまに向かって、「あなたは王なのか」と問うています。それに対してイエスさまは、「わたしの国は、この世には属していない」(36節)とお答えになっています。ピラトもそのことを理解しているんです。ユダヤ人指導者たちは、イエスが王になってローマ帝国に対して反逆をたくらんでいると言うけれども、その王というのが、この世の権力闘争の王ではなく、もっと高次の、この世を成り立たせている神の世界、精神世界、信仰の世界の王のことであるということを、ピラトはすぐに理解している。だからピラトはこのあとイエスさまを釈放しようと努めます。
 
   真理とは何か
 
 さてイエスさまは、37節で「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」とおっしゃいました。それに対してピラトは、「真理とは何か?」と尋ねました。ピラトはどういう思いでこう言ったのか。私には、ピラトの心の中に真剣に救いを求める心が芽生えたように読めます。
 「真理とは何か」、この問いは「真理は本当にあるのか?」という問いに聞こえます。前にも申し上げましたが、「真理」は「真実」という言葉に訳すことができます。人間の目で見れば、真理というものが本当にあるのかないのか分からなくなります。人間の世は単なる弱肉強食の世界に見える。強い者が勝つように見える。そこに真理は本当にあるのか?真実はあるのか?
 宇宙の成り立ちも偶然に見える。人間が生まれたのも偶然に見える。わたしが生まれたのも偶然の産物のように見える。すべては偶然。偶然生まれて、偶然死んでいくだけのように見えます。そこに真理はあるのか?真実はあるのか?‥‥大きな問いです。真理というものは、本当は存在しないように見えます。
 それに対してイエスさまは「ある」とおっしゃっています。たとえば14章6節です。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」‥‥イエスさまが真理であると言われています。
 ピラトはイエスさまに問いました。「真理とは何か」。それに対する答えは述べられていません。その代わりに、このあとイエスさまに十字架の判決が下され、イエスさまが自ら十字架を背負ってゴルゴタの丘に行かれ、十字架に張りつけにされる。そして死なれる。‥‥その事実が書かれています。すなわち、十字架に着かれるという事実こそが、ピラトの「真理とは何か?」という大きな問いに対する答えになっているんです。
 私たち罪人を救うために、神の子である方が命を投げ出される。そこに愛がある。それゆえ、愛という真実がそこに現れている。キリストにおける真実の愛。愛の真理です。それによって私たちは救われるのです。
 メソジスト教会の創設者であるジョン・ウェスレーが、或る人から質問を受けました。「もしあなたが明日の夜12時に死ぬと決まっていたら、どんな用意をなさいますか」と。するとウェスレーは答えたそうです。「やはり今ある予定通り過ごすだけです。今朝と明朝はグラウセスターの町に行って説教をし、それから馬でチウスバーグに行き、午後説教し、夜は信者と会い、マルチン君の家に泊まり、その家族と話したあと神さまに祈りを献げ、十時に寝床に入って、翌朝は栄光の国で(天国で)目覚めるだけです。」
 真理を知った人の心が表れています。


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