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2025年10月5日(日)逗子教会 主日礼拝説教(世界宣教の日・世界聖餐日)
●聖書 詩編46編9
ヨハネによる福音書18章1〜14
●説教 「縛られた神」小宮山剛牧師
世界聖餐日・世界宣教の日
本日は教会のカレンダーで「世界聖餐日」であり、また「世界宣教の日」です。先週の聖書箇所でイエスさまは、イエスさまを信じる者が一つになるように祈り願っておられました。それによって世の人々が、神がイエスさまを遣わされたことを知るようになるとおっしゃいました。
本日は世界の多くの教会で聖餐式を守っています。私たちもこのあと聖餐式にあずかります。私たちが主の愛の内に一つとなることを志したいと思います。
イエスの物語のクライマックスへ
さて、ずっと読み進めてきましたヨハネによる福音書。今日の箇所から、いよいよクライマックスへと入ってまいります。
13章からは、イエスさまと弟子たちとのいわゆる最後の晩餐の席でのことが書かれていました。ヨハネによる福音書では、最後の晩餐のこと自体は書かれていませんけれども、そのときにイエスさまがなさったこと、そしてお話しになったことがずっと記されていました。そこで語られたことは、このあと起こる出来事、すなわち今日の聖書箇所から始まるできごとの意味、そしてその出来事によってもたらされることについてでした。そしてそのできごとが起きる前に父なる神さまに祈られたのが、前回の17章でした。
イエスさまはこの席上で、「さあ、立て。ここから出かけよう」(14:31)とおっしゃいました。そして今日、その言葉の通り出かけられたのです。1節に「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」と書かれています。「キドロンの谷の向こう」と言われていますが、マタイおよびマルコ福音書では「ゲツセマネ」となっており、またルカ福音書では「オリーブ山」となっています。つまり、エルサレムの町の東側にあるキドロンの谷を越えたところがオリーブ山であり、そのふもとにゲツセマネの園と呼ばれるオリーブの木が植えられている果樹園があるんです。
そしてイエスさまがそこで祈られた祈りが、一般に「ゲツセマネの祈り」と呼ばれています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書では、ここでイエスさまが悲しみもだえて祈られたことが書かれています。その祈りは約1時間の祈りが3回なされました。しかしヨハネによる福音書はそれを省略しています。
これは以前にも申し上げましたが、ヨハネによる福音書は、一番最後に書かれた福音書です。西暦90年代。他の三つの福音書はすでに書かれていました。12使徒の中で、他の11人はみな殉教してすでに世を去っています。ただひとり生き残ったヨハネは、他の福音書が書いていないことを書きました。イエスさまが世を去って天に昇られてから60数年が経っています。
今年は戦後80年の年です。私が購読している新聞でも、戦後80年の特集が組まれていました。まだ存命の戦争経験者は本当に少なくなりました。その少なくなった戦争経験者の体験談が、何回も掲載されていました。おそらくその方々は、「このことだけは戦争を知らない世代に語っておきたい」という思いで語られたことと思います。
使徒ヨハネも同じ思いだったでしょう。他の福音書が書いていることはそちらを読めばよい。しかしそれらを補う意味で、これだけは後世のために書き残しておきたい‥‥そういう思いで筆を執ったのだと思います。そのように、12使徒のうちで一人高齢になるまで生き残ったヨハネが、どうしても伝えたかったことは何だったのでしょうか? これだけは伝えておきたいという思いで書き記したことは何か?
園の中で
2節にすでにそのヒントが出てきます。「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。」
すでにイエスさまは、イスカリオテのユダが裏切ることを知っておられました。(13:27)「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とおっしゃいました。その「しようとしていること」というのが、イエスさまをユダヤ教当局に売り渡すことでした。そしてユダは出て行きました。イエスさまを裏切り、当局に引き渡すためにです。ですから、イエスさまはユダの手引きで逮捕されることを知っておられたことが分かります。知っておられた上で、いつものこのゲツセマネの園に来られたんです。危機が迫っているのに回避なさらない。むしろ向かって行かれたように読めます。つまり、むしろイエスさまがこれらのできごとを主導しておられる印象を受けるのです。
4節にも「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」と書かれています。そしてユダは、予想通り兵士とユダヤ教当局の遣わした下役をこの場所に案内してきました。
ここでちょっと解説しますが、12節には千人隊長がいたことも書かれていますが、それらローマの兵士が一緒に来たのでしょうか? イエスさまを亡き者にしようとしていたのはユダヤ教当局であって、ローマ帝国ではなかったはずですが?‥‥それはこういうことでしょう。つまり、ユダヤ人トップの大祭司と祭司長たちが、ローマ帝国軍の千人隊長に訴えたんだと思います。そしてイエスさまこそメシアであると信じる人々がおおぜいいることは、ローマ帝国側も分かっています。そのイエスを捕まえにいくとなると、イエスさまを支持する民衆が騒ぎ出すかも知れないと訴えたのでしょう。そうするとローマ帝国としては、そのような騒動になることは避けなければならないので、見張るために出動したのだと思われます。
ともかく、ユダが先頭になって、主であるイエスさまを捕らえるために官憲を連れてきました。この真夜中に、松明やともし火や武器を手に持って。
わたしである
それに対してイエスさまは、退かれるどころか反対に進み出られます。そして「だれを捜しているのか」(4節)と言われます。
この問いは、あなたがたが探している相手は誰ですか?という単純な質問の問いではありません。あなたたちが捜している者が、誰であるかを知っているのか?‥‥との問いです。すなわち、イエスさまが実は何者であるかを知って、捕らえようとしているのか?‥‥という問いです。
彼らは答えました。「ナザレのイエスだ」(5節)。するとイエスさまは、「わたしである」と答えられました。すると彼らは後ずさりして地に倒れました(6節)。なぜ彼らは倒れたのでしょうか?‥‥イエスさまが逃げるどころか、逆に進み出たので驚いたのでしょうか? そういうことではありません。
今イエスさまは、「わたしである」と答えられましたが、今日の聖書箇所で「わたしである」という言葉が3回出てくるんです。これはあえて「わたしである」という言葉を強調しているように見えます。「わたしである」という言葉については以前にも解説いたしましたが、このギリシャ語を英語に直すと "I am" です。I am は「わたしである」とも日本語に訳せますが、「わたしはある」とも訳せます。
そうするとこれは聖書で有名な言葉の一つであることを思い出す方もいるでしょう。旧約聖書の出エジプト記で、モーセが神さまに対して神さまの名前を問うた時に、神さまがお答えになったのがこれです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)。つまり、私たちの神さまの名前は「わたしはある」という名前であることを明らかにされたんです。存在、ということです。
そうするときょうの聖書でイエスさまが「わたしである」と言われたのは、実は神さまの名前をおっしゃったのだと言うことができます。つまりイエスさまは、ご自身が神であることを暗示されたのだと。そしてイエスさまが「わたしである」とおっしゃった時に、彼らが地に倒れたのは、その神の力に圧倒されて倒れたのだと考えることができます。彼らを倒すことができる方が、あえて進み出て捕らえられる。イエスさまが捕らえられたのは、仕方なく捕らえられたのではない。イエスさまご自身の意思によって捕らえられたのだということが分かります。そのことをヨハネ福音書は明らかにしている。すなわち、イエスさまの逮捕、そして十字架に至るこの一連のできごとは、イエスさまに主権があるということを言いたいのです。
たしかに、あろうことか神の子である方を十字架につけるというのは人間の罪に他なりません。しかしイエスさまは、それを避けるのではなく、逆に飛びこんで行かれる。たとえて言えば、火事が起きて、炎の中にいる我が子を救い出すためにあえて火の中に飛びこんで行く親のようなものです。自らを犠牲にして、罪による滅びの中から、私たちを救うために向かって行かれる。そのイエスさまの姿です。イエスさまの主権です。
父がお与えになった杯
他の福音書、たとえばマルコ福音書では「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)と書かれています。しかしヨハネ福音書は、それを書く代わりに、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」(8節)とおっしゃったイエスさまの言葉を書いています。権威ある神の子としてのイエスさまが、その意思で弟子たちを去らせたのだと強調しているんです。
そのときペトロが剣を抜いて大祭司の手下(マルコス)に斬りかかり、右の耳を切り落としました。このことで、たしかにペトロは死ぬ覚悟であったことが分かります。13:38でペトロはイエスさまに対して、「あなたのためなら命を捨てます」と言っています。その言葉はうそではありませんでした。イエスさまのために命がけで戦おうとしたんです。なぜならイエスはメシア(キリスト)であると信じていた。ユダヤ人の考えていたメシアというのは、戦うメシアです。ローマ帝国と戦うメシア。その決起する時がいま来た!‥‥とペトロは思って、剣を抜いたのでしょう。
しかしイエスさまがおっしゃったのは意外な言葉でした。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(11節)。剣をさやに納めろと言われ、ペトロは、なすすべを失いました。「ええっ?!‥‥決起するんじゃなかったの?‥‥」と、頭の中は混乱したでしょう。何をどうしたらよいかも分からなくなったと思います。今剣をさやに納めたら殺される。‥‥それでその場から逃げるしかなかったんです。ちなみにルカ22章では、イエスが彼(マルコス)の右の耳を癒やしてくださったと書かれています。
「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(11節)。父なる神の意志に従うべきだとおっしゃったんです。それが十字架へ行くことであるから、それに従うと。父なる神への全面信頼です。こうしてイエスさまは捕らえられ、大祭司の舅であるアンナスの館へと連行されました。
キリストの主権
他の福音書だけでは、読者によっては勘違いしてしまうかもしれない。つまり、「人々を愛し、弟子たちを愛して、身を粉にして働いてこられたのに、弟子たちに裏切られ、見捨てられ、おかわいそうなイエスさま。十字架で処刑されるという悲劇の主人公」‥‥というようなものではない!と、この福音書を書いた使徒ヨハネは言いたかったんです。イエスさまのできごとから60数年、これだけははっきりと書き残しておかなければならないと言うことです。イエスさまは不幸にして捕らえられ、残念ながら十字架にかけられたのではないのだ、と。
むしろイエスさまは、罪人の世界であるこの世を愛して救うために遣わされた。神は滅びゆく人間を救い、永遠の命を与えるためにイエスさまを遣わされた。それゆえイエスさま自らが、父なる神の意志に従って歩まれたのが、この歩みなのだ。イエスの主権のもとで十字架に向かわれるのだ。自らを積極的に犠牲にして、私たちを救うために。‥‥このキリストの愛を見よ!あなたはこのイエスを信じて救われるのだ!
そのようにこのヨハネ福音書は私たちに熱く語りかけています。
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