|
2025年9月28日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記12章1〜3
ヨハネによる福音書17章20〜26
●説教「一つの希望」小宮山剛牧師
キリストの三つ目の祈り
最後の晩餐の席。その最後にイエスさまが祈られた。そのことが書かれている17章を読んでおります。イエスさまは、最初にご自身のための祈りをなさいました。しかしご自身のための祈りといっても、それは私たちを救うための祈りでした。次に前回ですが、弟子たちのための祈りをなさいました。弟子たちのための祈りは、すなわち教会のための祈りと言えるものです。そして今日が最後の箇所です。
20節でこうおっしゃっています。「また、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」 すなわち、弟子たちの言葉によってイエスさまを信じる人々のための祈り。私たちのことです。前回も私たち教会のための祈りでしたが、今日の箇所も私たちのために祈ってくださっています。「彼らの言葉によって」、すなわち弟子たちの言葉によって、私たちもイエスさまを信じています。弟子たちが記した言葉、すなわち聖書を通して私たちはイエスさまを信じています。
そしてこのイエスさまの祈りは、私たちにとって祈りというものを教えられます。イエスさまが教えてくださった祈りといえば、マタイ福音書に書かれている「主の祈り」がありますが、このヨハネ福音書の今日の箇所の祈りも教えられます。なぜならイエスさまが私たちのためにこう祈られたのですから、私たちもこのことを願うのが当然だからです。そんなことを心に留めながら、今日の箇所から恵みをいただきましょう。
一つになる
ここでイエスさまが願っておられることは、21節でおっしゃっているとおりです。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。」
「すべての人を一つにしてください」と祈っておられます。この「一つになる」ということは、22節でも「彼らも一つになるため」と言われ、23節でも「彼らが完全に一つになるため」と言われています。そのように、私たちが一つになることが、イエスさまの切なる願いであることが分かります。
21節の後半で「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」と言っておられます。イエスさまの願いは、すべての人がイエスさまと真の神さまを信じるようになることに違いありません。しかしその前に、イエスさまを信じる者たちが一つとなることを願っておられるのです。そうすれば、世の人々は、神さまがイエスさまを遣わされたことを信じるとおっしゃっています。すなわち私たちが一つであるが、証しとなるのです。
一つとなる。今日の世界はどうでしょうか?‥‥分断と対立、憎しみがますます激しくなっているように思えます。たとえばアメリカという国は、信仰の自由を求めてイギリスから渡っていったプロテスタントのキリスト教徒によって、自由と民主主義の国として建国されました。自由の国、民主主義のお手本の国とされてきました。ところが近年はどうでしょうか。私たちの目から見ると、その自由が次第に統制されたものとなり、大統領の強権が目立ってきているように思われます。
アメリカは依然としてキリスト教徒が多数派の国であり、歴代の大統領はみなクリスチャンという国です。そのアメリカで分断と対立が深まっています。そのような現状を見ると、イエスさまが祈られた「彼らが完全に一つになるため」ということが実現するためには何が必要なのでしょうか。
ご承知のように、今月の10日、トランプ大統領の熱烈な支持派の若者たちの代表格として知られていたチャーリー・カークさんが暗殺されました。そして先週の21日、そのチャーリー・カークさんの追悼式典が開かれ、数万人の人々がスタジアムに集まりました。トランプ大統領も出席しました。その中で、チャーリーさんの妻エリカさんが、涙ながらにこのように演説しました。
「十字架上で、私たちの救い主は『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです』とおっしゃいました。私は、あの青年(暗殺犯ロビンソン氏)を赦します」「キリストはそうしたし、夫もそうするでしょう。だから、私は彼を赦します。憎しみ対する答えは、憎しみではありません。福音の教えは愛です。常に愛です。敵への愛、迫害する者への愛なのです」。
エリカさんはまた、夫の信仰と自身の信仰について振り返って語りました。夫は聖書の言葉に基づいて、神が自分を遣わしてくださるよう願っていたとのことです。妻のエリカさんは語りました。「そして神は、チャーリーを天に召されました。11日前、神は夫の完全な献身を受け入れ、御許へ召されました。夫が何よりも望んだのは、自らの意志ではなく、神の御心が成ることでした。この11日間、あらゆる苦痛の中、今ほど『御心が行われますように』という主の祈りの言葉に慰めを見いだしたことはありません」。
そして彼女は、演説の最後の方でこのように呼びかけました。「祈りを選んでください。
勇気を選んでください。美を選んでください。冒険を選んでください。家庭を選んでください。信仰の人生を選んでください。そして何よりも――キリストを選んでください。」
本来ならば、夫を暗殺した犯人を、どれだけ憎んでも憎みきれないでしょう。しかし彼女はイエス・キリストの十字架の言葉を引用して、夫もそうするでしょうと言って、犯人の赦しを宣言したのです。もちろんその赦しとは、罪を憎んで人を憎まずという赦しであり、同時にキリストへの回心を願ってのことでしょう。
あの事件によってアメリカではますます対立と分断が激化し、自由も民主主義も失われていくと思われました。しかし彼女のような、キリストの言葉に生きようとするクリスチャンがいる。おそらく多くの人が、ここに救いを見たのではないでしょうか。そして聖書のキリストの言葉が、真実であると思ったのではないでしょうか。
繰り返しますが、21節後半でイエスさまは、「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」と祈られました。全くその通りであると思います。
一つとなるとは?
一つとなる。これはたいへん難しいことに違いありません。しかしイエスさまは、十字架に行かれる前に、私たちについてたしかにそのように祈られたのです。
一つになるというのは、具体的にはどういうことでしょうか?‥‥みな同じになることでしょうか?‥‥たとえば、同じ思想を持ち、同じ政党を支持し、同じ言葉を話し、同じ性格になる‥‥というようなことでしょうか?
それは違うと言わなければならないでしょう。イエスさまの弟子を見れば分かります。たとえば12弟子の中には、熱心党のシモンがいましたが、マタイもいました。熱心党というのは民族主義でありローマ人を嫌い、武力を用いてでもローマ帝国を追い出すという党派でした。一方マタイは徴税人でした。徴税人は、ローマ帝国に納める税金を集めていました。ですから熱心党から見れば徴税人は国賊であり、民族の裏切り者でした。ですから熱心党のシモンとマタイは、本来から言えば、憎み合う存在でした。しかしイエスさまのもとで一つになりました。そして、一つになるためには、先ほどのチャーリー・カークさんの奥様が言われたように、「ゆるし」というものが絶対に必要です。
性格を見てもいろいろな人がいました。ペトロがおっちょこちょいな人であったことは皆が認めるところでしょう。またゼベタイの子であるヤコブとヨハネの兄弟は、イエスさまから「雷の子」というあだ名を付けられています。短気であったようです。弟子たちはバラエティに富んでいます。
では彼らは何によって一つだったでしょうか?‥‥それはイエスさまを信じることによって一つでした。そしてイエスさまに従うことによって一つでした。そして今日の聖書箇所でのイエスさまの祈りでは、その弟子たちの言葉によって信じる者たち、すなわち私たちが一つになるように父なる神さまに願っておられます。イエスさまがお一人でありますから、教会も一つ。
しかしその後の教会の歩みは、時に分裂し、激しく対立したこともありました。さまざまな教派に分かれました。戦争になったこともありました。しかし現代はキリスト教の教派が一致に向かっている時代です。その背後には、このイエスさまの祈りがあったことを思います。
しかし、それは一致と言っても外見的な形で一致しているだけでは、やはりイエスさまの祈りにお応えしていないと言わなければならないと思います。イエスさまがここで祈っておられる「一つになる」というのは、そういう外見的な形のことではありません。信仰の中身のことです。一つになるためには、赦しが必要であり、愛が必要です。
神の内にいるように
21節をもう一度見てみますと、イエスさまは「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」と祈っておられます。父なる神がイエスさまの内に、イエスさまが父なる神の内にいるように、そのようにと言われます。
父なる神さまとイエスさまはどうやって一つになっているのでしょうか?‥‥それは、愛によって一つとなっているのです。愛であり信頼です。内にいる、というのは、その愛の内にいるということでしょう。愛ある家の中には、多くの人が住むことができます。信頼している者同士は、共に同じ家の中で住むことができます。そのように、父なる神さまとイエスさまは、互いの内におられる。
イエスさまは祈られました。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(21節)。神の愛の内に、イエスさまの愛の内にとどまるんです。イエスさまを信頼して、とどまる。
どうして神は私たちをご自身のうちに住まわせてくださるのでしょうか? 私たちは罪人であり、神の御心にそむいている者です。なのになぜ、神さまとイエスさまの中にいさせてくださるのか?
22節でこう言っておられます。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。」父なる神さまがイエスさまにくださった栄光とはなんでしょうか?‥‥それは十字架の栄光です。十字架に於いて現れた神の愛の栄光です。それを彼ら、つまり私たちに与えてくださったと言われます。私たちに与えてくださった栄光とは、十字架の栄光です。イエスさまが十字架にかかって命を捨てられることによって、罪人である私たちを救うという栄光です。それによって私たちが神の子とされる。そういう栄光です。イエスさまのおかげなんです。
そうして私たちは神の中で、キリストの中で生きることができる。
イエスに与えられた人々
24節で「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください」と祈っておられます。父なる神さまがイエスさまに与えてくださった人々とは誰ですか?‥‥それが私たちのことです。私たちはイエスさまのものとされているんです。
神とキリストの中に置いていただき、この世を歩んで行くことができる。神の愛を感じます。私たちはお互いに罪人であります。その罪人である私たちが、同じイエスさまに招かれ、神のもとに導かれた。私たちはイエスさまによって赦された罪人どうしです。誰も完全な者などいません。ただイエスさまによって赦され、愛されている。共にキリストの中に住み、神の内にいさせていただく。そこに神がおられます。
|