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2025年9月21日(日)逗子教会 主日礼拝
●聖書 イザヤ書43章1
ヨハネによる福音書17章6〜19
●説教 「神のものキリストのもの」小宮山剛牧師
弟子たちのための祈り
今日の箇所は、弟子たちのために祈っておられる箇所です。この場にいる12弟子、すなわち使徒たちのために祈っておられます。それはすなわち教会のための祈りということもできます。12弟子から教会が始まったからです。
そしてこの祈りを読みますと、教会とは何かということが分かってきます。もちろん、教会とはイエス・キリストを信じる者の群れであり共同体であるということは、ご存じの方が多いと思います。しかしその教会とは、神さま、イエスさまにとってどういうものであるかということが、このイエスさまの祈りを通して分かるんです。
今日の祈りはかなり長い分量になっていますが、実はこの中でイエスさまが父なる神さまにお願いしていることは多くありません。いや、それどころか二つだけです。お願いが二つだけ。私たちはお祈りというと、ああしてください、こうしてください‥‥と、あれこれお願いすることだと思っています。もちろんお願いしていいんです。相手は全能の父なる神さまですから。しかしお願いすることだけが祈りではありません。
今日のイエスさまの祈りでは、一つ一つ神さまの御心を確認するかのように、神さまに祈っておられます。まさに神さまへの語りかけです。たしかに父なる神さまからの答えの言葉はありません。しかしその場に父なる神さまがおられるかのようにして、自分の思いを語りかけられ、また、父の御心、恵みを確認しながら語っておられます。
そして先ほど申し上げましたように、この祈りを読むと教会が分かる。きょうは順番に見ていきたいと思います。
教会はキリストのもの
教会とは何であるか。その最初は6節です。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。」
父なる神が、この世から選び出してイエスさまにお与えになった人々。それが弟子たちであり、教会の群れです。これと同じようなことが、すでに15章6節でいわれていました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
今日の祈りでは父なる神が選ばれた人々となっていますが、15章6節ではイエスさまがお選びになったと言われています。これは矛盾ではありません。父なる神とイエスさまとが一つであると言えるからです。私たちがイエスさまを選んだのではなく、神さま、イエスさまが私たちをお選びになった。主権は神さまにあるということです。
たしかに、私自身を考えてみても、どうして私がイエスさまを信じるようになり、さらには牧師になったのか。これは私が自分の頭で考えてそうなったというのではないように思います。もちろん、イエスさまが生きておられることが分かったということなのですが、それもわたしが考えてそうなったのではありません。この私のようなどうしようもない人間を、神さまが導いて下さったとしか言いようがありません。そこに感謝があります。
6節には「世から選び出して」と書かれています。「世から」と。「世」というのは、この世の中ということです。すなわち、神を信じない世界、罪の世界です。神を信じない世界と申しますと、「いやいや、この時のユダヤ人も神を信じているし、昔は日本でもどこでも神を信じている人は多かった」と言うかもしれません。しかし本当に神を信じているか、聖書がいうような意味で神を信じているでしょうか。自分の都合よく神を信じているのは、本当に神を信じているとは言わないのです。本当に神を信じているのなら、イエスさまのことも信じるはずだ、それがヨハネ福音書が語っていることです。ですから、弟子たちもまた神を信じない罪の世界から、神によって選び出されたものです。そしてイエスさまのものとされた。それが教会です。神さまに主権があるんです。
続いて6節は「彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました」と語ります。父なる神のものであったけれども、それをイエスさまに与えられた。この世のものはすべて神さまのものです。神さまがお造りになったからです。そして所有しておられるからです。ですから、罪を犯した人間を裁くことも神のなさることです。しかしそれをイエスさまに与えられたという。そのときこの世の人間は、イエスさまのもとに置かれる。イエスさまの十字架の赦しのもとに置かれます。罪がゆるされます。
続いて「彼らは御言葉を守りました」と言われました。しかし弟子たちは、イエスさまの言葉を守っているようには見えません。これはどういうことでしょうか?‥‥「守る」というギリシャ語は、「保つ」という意味です。すなわち、イエスさまの語られる言葉をしっかりと聞いた、受け止めたという意味です。彼らの心の中に、イエスさまの言葉がとどまったんです。
次に7節、「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。」‥‥神とイエスの関係が父と子の関係であることを弟子たちは知っています。教会も知っています。父なる神と子なるイエスさまが全く一つと言っていい存在であることも知っています。彼らはそれを知りました。信仰にとって、たいせつなことを知ったんです。
次の8節。「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」‥‥イエスさまの言葉を信じた。父なる神がイエスさまをお遣わしになったことを信じた。それが教会です。
その12使徒、教会について祈られました。9節「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。」‥‥12使徒は父なる神のもの。すなわち教会は神のものです。人間のものではありません。
10節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」
イエスのものは、父なる神のものであると言われます。そこには完全な信頼関係があります。愛があります。その意味で父なる神とイエスさまは一つです。
続いて「彼らによって栄光を受けました。」‥‥弟子たちがイエスさまを信じることによって、イエスさまは栄光を受けられたのです。イエスさまを信じることがイエスさまの栄光であることが分かります。
11節「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」
ここで初めて、父なる神に対するイエスさまの願いが出てきています。それは「彼らを守ってください」ということです。イエスさまは去って行かれる。そうすると弟子たちがこの世に残されます。これまではイエスさまが守ってこられた。そのことは続く12節でも言われています。しかしイエスさまが去られる時、父なる神さまに彼らを守ってくださるように祈り願っています。これが弟子たちについて、イエスさまが神さまにお願いしたことでした。
世にとどまる教会
その12節で「滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」と言われています。「滅びの子」というのは、イスカリオテのユダのことだと思われます。イエスさまを銀貨30枚で、祭司長たちに売り渡したユダです。それは聖書の預言が成就するためであったと言われます。ユダの裏切りが聖書の預言の成就であるのは「なぜ?」という問いが生まれますが、その問いに答えるのは難しいことです。神のみぞ知ることです。神のご計画に属することです。我々が早急に答えを出すことではありません。
13節「しかし、今、わたしはみもとに参ります。」‥‥イエスさまの十字架と死、葬りと復活、そして昇天というできごとによって、イエスさまは天の父なる神のみもとに行かれる。地上から天の神のもとに移られます。そして弟子たち、教会が残されます。
続いて「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と言われました。弟子たちの前で祈っておられるイエスさま。それはイエスさまの喜びが、弟子たちのうちに満ちあふれるようになるためだと言われます。イエスさまは去られるけれども、信仰は喜びであることが明らかにされます。私たち教会は、喜びが満ちあふれるために、イエスさまの言葉を聞き、そして信じているんです。
14節「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。」
イエスさまを信じる人も多くいましたが、一方でユダヤ教当局、律法学者やファリサイ派、祭司長たちのようにイエスさまを憎む人々もいました。それは熱心に神を信じているはずの人たちでした。自分たちの教えと、イエスさまの教えが違っていたから憎んだんです。それゆえ、イエスさまを信じて従う弟子たちも憎まれるということになる。その理由は、イエスさまと同様に、弟子たちがこの世に属していないからだと言われます。弟子たちは神に属しているからです。その弟子たちを憎むというのは、人間の罪です。神に敵対しているんです。
それでふたたびイエスさまは父なる神にお願いします。15節「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」‥‥このように、11節と同じく、イエスさまの祈り願いは、弟子たちの群れを、つまり教会を悪いものから守ってくださいということでした。
「悪い者」というのは、具体的には弟子たちの群れを憎む者のことです。しかし本当のことを言えば、その背後にある悪魔であり、人間の罪のことです。それらのものから守ってくださいと。そしてこの場合の「守る」というのは、信仰を守るということに他なりません。彼らの信仰を守ってくださいと願われているんです。悪い者、サタンや罪が惑わし、教会の信仰を失わせようとする。そのことから守ってくださいと願われています。
16節「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。」‥‥世に属していないとは、この世の存在ではないということです。この世にいながらにして、この世に属していない。すなわち神に属しているのです。「教会は天国の出張所」だと言われることがあります。いろんな企業や銀行の出張所(支店)は、その町にあります。しかしその町にありながら、本店は別のところにあります。そのように、教会は神さまのもの、キリストのもの、天国に属するものです。しかしこの世の中に存在しています。しかし教会で行われるこの礼拝は、神の国とつながっています。イエスさまがここにおられるからです。
遣わされる教会
17節「真理によって、彼らを聖なる者としてください。」‥‥ここでもう一つの願いが出てきます。前にも申し上げましたが、「真理」というのはここでは「真実」のことです。「真理」というとなにか難しい印象ですが、「真実」です。ことの真相です。それはイエス・キリストという方が、神と一つであるということです。そしてそこに救いがあるということです。神の愛があるということです。その真実によって、「彼らを聖なる者としてください」。これがここでのイエスさまの祈りの、もう一つの願いです。
聖なる者とするというのは、神のために取り分けるということです。ここでは、神のご用のために用いてくださいということです。神さまのご用が何であるかは、18節で言われています。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」イエスが世を救うために遣わされたように、イエスさまも弟子たちの群れ、教会を世に遣わされると言われます。教会は、神とイエスの目的を果たすために存在しているのです。神を礼拝し、この世を救うために。キリストの福音を宣べ伝えるために。人々を神を信じること、キリストを信じることへと導くために。神さまによって用いられる。
そして19節です。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」
イエスさまは、弟子たちの群れのために、すなわち教会のためにご自身を神に献げられました。それが十字架です。それは神に献げられたのです。それと同じように、教会も神に献げられる。教会とは神に献げられたものです。この世から聖別されて、取り分けられて、神のご用のために献げられたもの。
その中にこの私たちが導かれています。主がこの私たちを招かれたのです。いかがでしょうか。教会というもののために、どれほどイエスさまが心を尽くされ、我が身をささげられたかということがお分かりかと思います。
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