2025年9月14日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 歴代誌下5章13〜14
    ヨハネによる福音書17章1〜5
●説教 「永遠の命の真実」小宮山剛牧師


 
   敬老祝福
 
 本日は敬老の日を覚えて、お祝いをいたします。当教会では77才以上の方々を祝福しておりますが、法律的には高齢者とは65才以上の人のことを言うそうです。そうしますと私も高齢者の仲間に入っているわけですが、今の時代は長寿社会ですので、それでは対象者がたいへん多くなるということで、世の中でも75才以上を高齢者ということにしようという議論が行われているとのことです。私も、孫から「じいじ」と呼ばれるのは思わず笑顔になってしまいますが、そのほかの人から「おじいさん」と言われますと、すなおになれません。
 しかし、聖書では高齢者、すなわち老人は基本的には祝福された存在として書かれています。たとえば
(イザヤ書 46:3〜4)"わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。"
 「ヤコブの家」「イスラエルの家の残りの者」と言われていますが、これはイエス・キリストによって、私たちのことも指していると言えますから、主なる神さまがずっと背負って行ってくださる、白髪になるまで、という祝福の言葉です。
 あるいはまた
(箴言16:30)"白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる。"
 すばらしい御言葉ですね。白髪は老いて衰えたからというのではなく、「輝く冠」であると言われています。さらに
(ヨエル書 3:1)"その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。"
 年を取るとこの世の人生の終わりが近づいてきて、夢も希望もないというのではありません。「わが霊を注ぐ」というのは聖霊が注がれるということです。ペンテコステの予告ですね。聖霊の働きでイエスさまを信じることによって、老人は夢を見る。未来を見ることができるということです。
 確かに年を取るということは、先が短くなる。はっきり言えば死というものが確実に近づいて来ます。この世の中の敬老のお祝いの時には「いつまでも長生きしてください」とは言いますが、「死」という言葉を使うことは避けられます。しかし教会ではタブーではありません。安心して「死」を語ることができます。それはイエス・キリストがおられるからです。死は終わりではない。それは神の国への歩みの途上となります。
 そのことは今日の聖書箇所のイエスさまの言葉が明らかにしています。それは「永遠の命」ということが語られているからです。
 
   主イエスの祈り
 
 今日の聖書箇所は、最後の晩餐の席におけるイエスさまの教えが終わり、イエスさまが天の父なる神さまに祈っている箇所です。しかも17章全体がその祈りになっています。たいへん長い言葉が書き留められています。
 聖書では他にもイエスさまが祈られた言葉が書かれています。しかしそれらはいずれもたいへん短く記録されています。たとえばルカによる福音書10章21〜22節。そこではイエスさまは「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と祈っておられ、今日のヨハネによる福音書での祈りに共通するものがあります。他には、このあとイエスさまが弟子たちと共に出かけられたゲッセマネの園での祈りがあります。そこでは実際にはイエスさまは3時間ほども祈られましたが、聖書ではたいへん短く書いています。また、十字架にかけられたイエスさまがその十字架の上で祈られた祈りがあります。それもひと言で書かれています。他にも、たとえばイエスさまが朝早く起きて一人で祈られたということは福音書に書かれていますが、その内容は書かれていません。
 そういうことに比べると、このヨハネによる福音書でのイエスさまの祈りは、たいへんくわしく、ていねいに書き留めていることが分かります。そしてこれはヨハネによる福音書だけが記しているものです。
 イエスさまの祈りといいますと、それは一体どんな内容なんだろうか?と誰もが思うでしょう。この17章全体がイエスさまの祈りですが、なんのための祈りかということで区切りますと、3つに分けられます。まず最初が今日取り上げている1〜5節です。これはイエスさまがご自分のために祈っておられます。次に6〜19節です。そこでは弟子たちのために祈っておられます。最後に20〜26節です。ここは後にイエスさまを信じるようになる人々のため、すなわち私たちのための祈りとなっています。そして今日は最初の、イエスさまご自身のための祈りから恵みを得たいと思います。
 
   時が来た
 
 イエスさまは天を仰いで言われたと書かれています。天を仰いで祈る。これはユダヤ式の祈りの姿勢です。とくに聖書の時代、ユダヤ人は顔を天の一角に向け、目を開けたまま両手を上に上げて神に祈りました。
 そして最初にイエスさまは、「父よ、時が来ました」と言われました。天の父なる神さまに向かって「時が来た」とおっしゃったのです。時が来た。それはなんの時かといいますと、これまでイエスさまが弟子たちに語ってこられたとおりです。つまり、イエスさまが捕らえられて十字架にかけられて死なれる、そして復活して昇天されるという一連の時です。いよいよ私たち人類を救うために、イエスさまが命を投げ出される時です。福音書の物語もクライマックスを迎えます。
 ちょっと話が変わりますが、私はこの祈りを読みました時に、こちらの絵を思い出しました。この絵はアメリカのある墓地の壁に描かれている絵だそうです。どうして私がこれを持っているかと言いますと、もちろん実物ではなくて写真で複製したものですが、私が輪島教会の牧師をしていた時に教会員が持っていたんです。その人の家に行った時、この絵が飾られていました。私は強い印象を受けました。今までこのようなイエスさまの絵を見たことがありませんでした。私がそれを見てひどく心を打たれているのを見て、その教会員が「先生にあげますよ」と言ったんです。それでいただいたものです。今は牧師館に飾っています。
 十字架にかけられる前のイエスさま。地面にはこれから張りつけにされる十字架が置かれています。その十字架にかけられる直前、イエスさまが天を仰いで目を見開いて父なる神に祈っておられるように見えます。実際は、ここに至るまでにイエスさまは、頭には茨の冠をかぶせられ、ひどい鞭打ちを受けましたので、傷だらけ、血だらけで、見るも無惨なお姿をしていたに違いありません。映画「パッション」の描いたとおりです。しかしこの絵では、頭の茨の冠は目を懲らしてみないと分からないほどであり、体は無傷で服も白いです。だから実際とは違う。
 そこでわたしは思ったんです。この絵は今日のヨハネによる福音書の17章のイエスさまを描いたものではないか、と。今日の17章では、もちろんまだ十字架はありません。弟子たちとの最後の晩餐の席です。しかしこれを描いた画家は、今日の17章のイエスさまの祈りを念頭に、その祈りが十字架にかけられる時が来たことをこのような形で表したのではないかと。そのように私は思いました。
 天に顔を向けて祈られるイエスさま。私たち人類の罪を一身に担って十字架へ向かわれる。そのイエスさまの思いがヒシヒシと伝わってくるように、私には思えます。
 
   栄光
 
 そして今日の聖書箇所でイエスさまはご自分のために祈っておられると申し上げましたが、それは何を祈っておられるかというと、1節で言われているように「子に栄光を与えてください」。つまりイエスさまは、ご自分に栄光を与えてくださるよう父なる神に願っておられるのです。
 聖書で言う「栄光」という言葉は、ひと言では説明が難しいところがありますが、要するに神が与えてくださる神ご自身の光であり、輝きです。この祈りを拝見しますと、イエスさまは世界が造られる前から、父なる神の御もとで栄光を持っておられた。天地創造主なる神と一つでありました。しかしこのように人の子となられて、この世の中にお出でになって歩まれた。それはなんのためであるかと言えば、「時が来た」という言葉の通り、十字架にかかって私たちを救うためでした。
 それゆえ、「子に栄光を与えてください」というこの祈りは、十字架にかかって人類の救いを成し遂げることができるように、ということだと言うことができます。そしてそのイエスさまをよみがえらせ、十字架の救いを現して下さること。十字架によって私たちの救いが成し遂げられる。それゆえ十字架という死刑台は、愛の栄光の座となります。愛という栄光です。
 
  永遠の命
 
 その救いによってもたらされるのが「永遠の命」です。3節でイエスさまはおっしゃっています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」
 これはふしぎな言葉ではないでしょうか。永遠の命とは、永遠に生きることに違いありませんが、それは真の神と、その神の遣わされたイエスさまを知ることであるという。
 ここで言われる「知る」という言葉は、単に知識として知っているということではありません。つまり神さま、イエスさまが何であるかを辞書的な意味で知っているということではありません。イエスさまとはどういう方であるかということを、辞書や歴史の教科書に書かれているような意味で、つまりキリスト教の開祖であるというような意味で知っているということではありません。イエスさまがどういう方であるかを知っていくということです。いわば進行形です。その人がどういう人であるかということは、お付き合いをしなければわかりません。それと同じです。
 神さま、イエスさまを知っていく。それは神さま、イエスさまとお付き合いし、交わることによって知っていくんです。さらに深く、深く知っていくんです。わたしという人間を知っても、知れば知るほど幻滅するかも知れません。しかしイエスさまは愛です。神さまは愛です。無限の方です。ですから神さまについて知るには、無限の時間が必要です。そしてそれは、知れば知るほど喜びが増し加わるようなお方です。
 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」私たちは、その神さま、イエスさまとの豊かな交わりの中に招かれているのです。それが永遠の命であると。
 このヨハネによる福音書でイエスさまは、弟子たちのことを「友」と呼ぶとおっしゃいました(15:15)。今日の2節でイエスさまは「あなたからゆだねられた人」と神さまにおっしゃっています。「ゆだねられた人」とは、この福音書の3章16節で書かれていたように「独り子を信じる者」、すなわちイエスさまを信じる人のことです。そこではこう書かれていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 イエスさまを信じて、神とイエスさまを知って行くという世界に招かれているんです。その主の招きに応える者でありたいと思います。「もう私は年を取ってなにもすることがない。してもむだだ」というようなことを言った人がいました。そんなことはありません。イエスさまを信じる。イエスさまと神さまを知っていく。それは他の何ものにも代えがたい喜びと平安の世界です。永遠の命だとしたら、天国に行って最初は新鮮で何もかも興味深いけれども、そのうち飽きて永遠に退屈な時を過ごさなければならないと考える人もいます。しかしそうではありません。今申し上げたように、神さま、イエスさまを知るには永遠の時間が必要であり、知れば知るほど愛を理解し、感謝と喜びが増し加えられるからです。永遠に続いて、しかも飽きることもない。そのような世界に招かれています。私たちを友と呼んでくださる。友であるイエスさまを知っていく世界です。


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