2025年9月7日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記3章14〜15
ヨハネによる福音書16章25〜33
●説教 「すでに勝っている方」小宮山剛牧師
すでに世に勝っている
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」そのようにイエスさまはおっしゃいました。33節です。これは、いわゆるイエスさまの告別説教の最後の言葉です。
先ほど聖歌397番を歌いました。聖歌397番は、大正12年9月1日に発生した関東大震災の時、ジェームズ・マーチンという宣教師が作った歌です。青山学院に避難してきた人々が灯していた一本のろうそくの光が、蚊帳を通して十字架のように見えた。人々の重荷を負ってくださったイエスさまの十字架。そのイエスさまがこの震災の地に共におられて、慰めを与えてくださることを思って作られた曲です。
先週私は夏季休暇をいただいて、再び三度、能登に行ってまいりました。昨年1月1日の能登半島地震から1年8か月。休暇の前にある方が「先生、また輪島に行くんでしょ?」と言いました。その通り、行ってまいりました。
スライドをご覧いただきましょう。こちらは昨年の震災翌日、1月2日の輪島教会です。会堂は二つに裂け、基礎も破壊されています。全壊となりました。そして次が、1年後の今年1月に輪島を訪れた時の写真です。ちょうど会堂の解体撤去工事が行われていました。そしてこれが先週の輪島教会の写真です。解体撤去から8か月。空き地となり草が生え、ここに輪島教会が建っていたことは、教会の案内掲示板があることでかろうじて分かります。周辺の損壊した家屋も撤去され、この掲示板がなければ、ここに教会があったことすら分からない状況です。これも教会跡地の写真です。奥にプレハブの仮設礼拝堂が見えます。次は教会付近、町内です。多くの家屋が撤去されています。なぜいまだに電柱が傾いたままなのか、私には分かりません。
これは朝市通りです。損壊し大火災で焼けた建物がすべて撤去され、今は草が生い茂る野原のようになっています。ここがかつて観光客でごった返したにぎやかな場所であったことは、見る影もありません。よく「復興は進んでいますか?」と聞かれます。たしかに損壊した建物の解体撤去はほぼ終わりました。しかしこの写真を見て、これが復興だとは誰も思わないでしょう。ここに再び商店や家屋が建ち、人々が戻って生活できるようになって、初めて復興と言えるでしょう。しかし人が本当に少なくなりました。印象では、かつての10分の1ぐらいしかいないように思われました。輪島教会は再建されるのか? 主を礼拝する者は新たに現れるのか?‥‥そのような疑問を多くの人々が持つでしょう。しかし私は全く悲観していないのです。
私が38年前、東京神学大学を卒業して伝道者として輪島教会に遣わされる直前、前任の先生に招かれて輪島教会に初めてうかがいました。そして輪島教会の小さな礼拝堂の日曜日の礼拝の中で、私は主の言葉を与えられたのです。それは「主はこの地を愛しておられる」という静かな言葉でした。それが3度繰り返して響いてきました。そのような経験は初めてのことでした。ものすごい感動で満たされ、胸が熱くなりました。同時に幻が与えられました。それも初めての経験でした。その幻は、港のようなところに小さな波がひたひたと押し寄せて満ちてくるという光景でした。これも静かな、すばらしい平安を与えてくれました。しかしその意味が分かりません。それで神学校に帰ってから、そういう賜物のありそうな同級生にその意味を尋ねました。彼女は、それから2〜3日祈って、意味が分かったと教えてくれました。その意味とは「時間はかかるけれども、教会に人が増えていく」という意味だと言いました。私はまた感動しました。そしてその後、実際にその通りになっていきました。町の人口が減っていくのにです。それであの言葉も幻も、主が与えてくださったものであったことがはっきりしました。
それからずいぶん時が流れました。2007年に最初の能登半島地震が起きました。牧師館が損傷し、建て替えとなりました。そして17年後の昨年、またもや大地震。教会堂と牧師館が損壊し、解体撤去されました。そして同じく昨年9月の豪雨災害‥‥。次から次へと試練が臨みました。それはまるで、私たちが主を信じることをあきらめさせるかのような試練です。
しかし私はあの日の主の言葉と幻を忘れたことはないんです。主は輪島の地を愛しておられます。逗子の地も愛しておられます。そうですね? 先週の輪島の礼拝、仮設の小さなプレハブの会堂でのその礼拝に集まった人は、新藤牧師と我々夫婦を入れて10名いました。人が激減してしまった輪島の町で、これは奇跡ですね。輪島教会の皆さんは、逗子教会の支援に感謝しておられました。そしてよろしくお伝えくださいと言われましたので、今皆さんにお伝えいたします。
イエスさまは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われました。人間の目から見たら絶望的でも、イエスさまはすでに世に勝っておられるんです。だから勇気を出しなさいと言われます。
父なる神にとりなすイエスさま(25〜28節)
イエスさまは弟子たちにおっしゃいました。26〜27節です。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」
「その日には」とは、イエスさまが天の父なる神さまのもとに帰られ、代わりに聖霊なる神さまが来て下さる日ということです。そのときには、あなたがたは直接父なる神さまに祈り願うことができるのだとおっしゃっています。
「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。」父なる神が、私たちを愛しておられる。この言葉は弟子たちにとっては、意外な言葉、新鮮な言葉であったことでしょう。なぜなら、それまでの旧約聖書の歴史を見ると、神さまが人間を愛しておられるようには見えないからです。というのは、旧約聖書を読む限り、父なる神さまは厳しい方であるように読めるからです。エデンの園で、神さまにそむいたアダムとエバ。罪を犯した人間に死ぬことになると宣告され、エデンの園から追放されました。死という罰が与えられたのです。そのあとも、ノアの洪水がありました。罪を犯し悪いことばかりしている人間を滅ぼされました。ソドムとゴモラの町の滅亡もありました。悪いことばかりしている町を滅ぼされました。そのあとも多くの戦争が続きました。そしてそれを通して、悪いという民族が多く死にました。そして異民族ばかりではなく、神さまの教えに背くイスラエル民族も、バビロン捕囚にあい、多くの人が死に、異国に連れ去られました。‥‥そういう旧約聖書の歴史を見ると、どうして神さまが愛なのか?と思われるのではないでしょうか。それは罰を厳しく罰する神さまです。神さまはたしかに正しいお方です。しかし正しいというのは、悪を罰するから正しいのであって、人間は罪人ですからみな滅びてしまうしかなくなります。
しかし今日の箇所でイエスさまは「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」とおっしゃいました。どうして父なる神が愛だと言われるのか。それはイエスさまのとりなしがあったからです。イエスさまの十字架があるからです。イエスさまが十字架にかかって、私たち人間の罪と悪を代わりに負って下さった。罰はイエスさまが受けて下さる。それで私たちはゆるされる。それゆえに「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」ということできるのです。イエスさまのお名前によって、弟子たち、私たちは直接、全能なる父なる神さまに祈ることができるとおっしゃいます。
そのように御自分の御子イエスさまを送って下さったことが、すでに神が愛であるということです。そのようにして、イエスさまはご自分の身を挺して、私たちと父なる神さまをつないでくださる。そこに愛があります。本来なら、神に罰せられて滅ぶべきこの私が、神さまを「父」と呼ぶことができるようにして下さった。罪ばかりで、なんとも神さまに申し開きのできない私。しかしこの姿のままで、イエスさまの十字架のとりなしによって、神の子としていただける。そういう恵みです。
ちなみに、今日の旧約聖書は創世記3章14〜15節ですが、なぜこんな箇所を選んだのかとお思いでしょう。これは先ほど述べたエデンの園で、アダムとエバ夫妻が神さまに背いた時に、エバをだました蛇に向かって神さまがおっしゃった言葉です。蛇はサタンをあらわしています。そしてここで「女の子孫」というのは、実はイエスさまのことを予言しています。アダムとエバ、人間の子孫としてやがてお生まれになるイエスさまが、サタンを砕く。十字架にかかるけれども、それによってサタンを砕くということを予言していると、キリスト教会は解釈してきたのです。
不信仰な弟子たちではなくイエス(29〜32節)
さて、弟子たちは答えました。29〜30節です。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
「わたしたちは信じます」と答えました。しかしそれを聞いたイエスさまは、その弟子たちが散らされて、イエスさまを見捨てて自分の家に帰ってしまう、その時がもうすぐ来るとおっしゃいました。それはまさにこのあと、数時間後の出来事となります。そのように、今イエスさまを信じると言った弟子たちが、まもなくイエスさまを見捨てて逃げて行くことを予告されました。そして実際にその通りになりました。
しかしイエスさまがこのようにして弟子たちの逃亡を予告なさったのは、弟子たちを断罪し、裁くためではありません。33節でおっしゃっています。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。」
何度も申し上げていますが、この「平和」という言葉は、ヘブライ語のシャロームのことです。それは隣人、お互いの間の平和、神さまとの平和であるとともに、平安であるということでもあります。弟子たちを裁くためにおっしゃったのではありません。お互いの間の平和のため、平安のためにおっしゃっいました。
弟子たちは、イエスさまのことを「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言いました。しかしそれは自分の力による信仰です。自分の「信仰」に依り頼んでいます。イエスさまにすべてをお任せした「信じる」ではない。自分の力に依り頼む「信じる」です。しかしそのような「信じる」ということがいかにもろいものなのか。そのことをあなたがたは間もなく知ることになると、イエスさまはおっしゃったのです。危機が訪れると、たちまち消えてなくなるような「信じる」なのだと。そうではなく、イエスさまにお任せする信仰です。イエスさまが包み込んで下さることにゆだねるものです。
マルコによる福音書の9章14節からの所に、穢れた霊に取りつかれた息子を持つ父親の出来事が書かれています。父親は、息子を癒やしてくださるようイエスさまの弟子たちに頼みましたが、できませんでした。そこにイエスさまが戻ってこられました。そして弟子たちの不信仰を嘆かれました。そしておっしゃいました。「その子をわたしのところに連れて来なさい」(マルコ9:19)。弟子たちのところではダメだったんです。イエスさまのところに連れて行かなければダメだったんです。父親は言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください」。するとイエスさまが答えました。「『できれば』と言うか。信じる者にはなんでもできる。」すると父親は言いました。「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」そしてイエスさまはその息子から穢れた霊を追い出されました。
「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい。」これは一見矛盾した言葉です。「信じます」と言いながら、「信仰のないわたし」と言っています。信じているのか、いないのか、分からないような言葉です。しかしこれが真実です。私たちには信仰がないんです。不信仰なんです。しかしその不信仰は自分を、丸ごとイエスさまにゆだねる。それが「信じます」というこの言葉です。
イエスさまは弟子たちに、この父親と同じような言葉を言ってほしかったと思います。弟子たちはこのあと実際にイエスさまを見捨てて逃げて行く。弟子たちは自分たちの不信仰に気がつくことでしょう。そこが本当の始まりです。不信仰である自分に気がつく。しかしイエスさまを信じたい。だから不信仰なこの自分を、丸ごとイエスさまにゆだねる。そしてイエスさまはその私を引き受けて下さる。それが私たちの信仰告白です。
そしてイエスさまは最初に上げた言葉をおっしゃいました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
イエスさまは、苦難がないとはおっしゃらなかった。「苦難がある」とおっしゃいました。苦難があるんです。だから苦難があると言って、つまづく必要はない。苦難がある。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」私たちは、すでに世に勝っている方と共に行くのです。イエスさまにゆだねて乗り越えていくことができます。