2025年8月24日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ヨブ記19章25〜27
    ヨハネによる福音書16章16〜24
●説教 「再会の喜び」小宮山剛牧師
 
   戸惑う弟子たち
 
 「会うは別れのはじめ」ともうしますが、イエスさまの弟子たちもそのような悲しさを感じたでしょう。弟子たちがイエスさまに出会い、従って歩み始めてから足かけ3年が経っていると考えられています。イエスさまと共に歩んできた日々。それはすばらしい日々でした。病気で苦しんでいる人が癒やされる。目の見えなかった人が見えるようになる。わずかのパンと魚によって多くの空腹の群衆を満腹にさせる。死んだ人をよみがえらせる‥‥そういった数々の奇跡を見てきました。「やはりこの方こそ、神が送られたメシア、キリストに違いない」、そのような確信に満ちていったことでしょう。
 そうして都であるエルサレムに乗り込み、いよいよこれからメシア=救世主として立ちあがる時が来た。そのように弟子たちはみな期待していたことでしょう。ところがだんだんその雲行きが怪しくなってきました。とくにこの最後の晩餐の席でイエスさまが語られたことは、弟子たちに理解しがたいことがありました。弟子の一人が裏切ることが予告されました。それはイスカリオテのユダのことでした。ユダだけではありません。まさにこの世が明けないうちに、ペトロがイエスさまのことを3度も知らないと行って見捨てることを予告なさいました。
 そしてまた、イエスさまが父なる神さまのところに行くということを繰り返しおっしゃいました。しかもこの16章の5節では「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」とおっしゃっています。それを聞いた弟子たちの心が悲しみで満たされていると書かれています(6節)。
 しかし、イエスさまがこの世を去って天の父なる神さまのもとに帰られるということだけではなく、同時に「弁護者」「真理の霊」すなわち聖霊が、弟子たちのところに来られるということも約束なさっています。それで弟子たちが混乱しているのが今日の聖書箇所です。
 
   しばらくすると
 
 16節でイエスさまはおっしゃいました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
 すると弟子たちの中のある者は互いに言いました。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」(17〜18節)。
 読んでみまして、「しばらくすると」という言葉が何度も出てくることにお気づきかと思います。数えてみますと、今日の聖書箇所の中で7回出てきます。これはやはり「しばらくすると」を強調しているのです。
 さて、「しばらくすると」とはどのぐらいの先のことなのでしょうか? 『三省堂国語辞典』では「しばらく」についてこう書いています。「@少しの間 A少し長い間」。‥‥期間としては正反対と思えることが書かれている。どっちだ?というような記述です。
 では新約聖書のギリシャ語ではどうなっているかと言いますと、この「しばらくすると」という言葉は「ミクロン」という言葉になっています。これは説明抜きでお分かりかと思います。ミクロンというと1ミリの千分の一の単位ですから、ごく短い間ということになります。すくに、間もなく、というような感じです。
 そうすると次に、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」というのは、何のことをおっしゃっているのでしょうか?
 これは三つ考えられます。この「見る」というのは「会う」と言ってもいい言葉です。
 @十字架と復活‥‥十字架にかけられてイエスさまが死なれる。つまり見えなくなる。しかし3日目に復活されてふたたびイエスさまを見るようになります。
 A昇天と聖霊降臨‥‥復活されたイエスさまが天の父なる神さまのところに昇られる。それでイエスさまを見れなくなる。しかしこれまでも繰り返しおっしゃっていたように、聖霊が代わりに来られる。聖霊がおられれば、イエスさまもおられるといっていいですから、聖霊が来られることによってふたたびイエスさまと会う。ですから肉体を伴った人の子としてのイエスさまは見えなくなるけれども、聖霊が来られることによってイエスさまとまた会うことができる。
 B昇天と再臨‥‥昇天によってイエスさまは父なる神さまのもとに帰られるけれども、世の終わりの時にイエス・キリストがまた来られる。これが再臨です。再臨というと、私たちにとってもまだこれからです。ですからあまりにも長い期間を待つことになるように思います。だから、しばらくしてイエスさまの再臨によって、また会うことだというのは違うようにも思えます。しかし実は、人間にとっては再臨までずいぶん時間があるように思いますが、神さまとイエスさまにとっては短い時間になります。この福音書を書いたヨハネは黙示録も書きました。そのヨハネの黙示録の一番最後の頁です。つまり新約聖書の最後の頁です。その22章20節で、イエスさまがこうおっしゃっています。(黙示録22:20)「然り、わたしはすぐに来る」
 そうすると、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」というのは、十字架によって死なれることと、復活のあとの昇天によって天の父なる神さまのところにお帰りになり、イエスさまを見れなくなることの両方のことを言っていると言ってよいでしょう。そして、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」というのは、復活のことでもあり、また聖霊が来られる聖霊降臨のことでもあり、世の終わりの再臨のことでもあるということになります。
 20節の「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」というのは、イエスさまの十字架の死のことを指すことになります。そして続く言葉「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」というのは、復活であり聖霊が来られることであるということになります。こうしてみると、イエスさまが十字架にかけられて死ぬことは必ず入っている。避けられないこととして語っておられます。それはとても悲しいことです。
 ですから、私たちはイエスさまに尋ねたくなります。「イエスさま、十字架がなくて私たちが救われることはできないのでしょうか?」と。その答えは「できない」という答えです。つまり私たちの罪は、神の御子イエスさまが十字架にかかって命を投げ出さなければ救われないほど重いということです。しかし大丈夫だ。わたしはあなたの代わりに死ぬから。身代わりとなって罪を負うからと。それがイエスさまです。
 そのイエスさまの愛にあふれた言葉の数々が、これらの言葉です。弟子たちへの励ましの言葉です。
 
   悲しみが喜びに変わる
 
(20節)「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
 そしてイエスさまは、その苦しみ悲しみが喜びに変えられる様子を、出産のことにたとえておっしゃいました。(21節)「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。」
 私は神学生の時に結婚しました。そして最終学年の時に長男が生まれました。クリスチャンの医者がやっている産婦人科の医院で生まれました。わたしは先生に、立ち会ってもいいですか?と尋ねました。先生は「いいよ」と言いました。それで出産の時に立ち会いました。私は軽く考えていました。鶏が卵を産むと言ったら怒られますが、そんなたいしたことではないと思っていました。しかし立ち会ってみて、驚きました。難産だったんです。なかなか出てこない。当然家内は苦しいわけです。バキュームを使い、それでもダメで、最後は鉗子(かんし)を使いました。出血して血まみれでした。私は自分の血の気が引いて倒れそうになりました。健康な体で生まれることを願っていましたが、しまいには「神さま、助けて下さい、生きていればけっこうです」と祈っていました。そうしてようやく生まれました。生まれると、イエスさまがおっしゃったとおりで、喜びで涙が出ました。
 そのように、出産の時の苦しみは、新しい命が生まれてくるという希望のある苦しみです。だから耐えられるんだと思います。イエスさまは、「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる」とおっしゃり、「その悲しみは喜びに変わる」とおっしゃいました。イエスさまの受難、十字架は、そのような産みのための苦しみです。私たちの救いのための苦しみです。イエスさまがこの地上を去って天の父なる神さまのところに行かれるのは悲しいことであったかも知れません。しかしそれは聖霊が来られて、イエスさまを信じる者すべてと共にいて下さるようになる喜びのための悲しみです。聖霊によって、生けるキリストが私たちと共におられるのです。
 これは私たちについても当てはまります。私たちも、この世を生きている間、苦しみや悲しみがあります。絶望的になることもあります。しかし絶望は、もし神さま、イエスさまがいなければの話です。しかし聖霊と共に生きておられるイエスさまがおられますから、それは産みの苦しみとなります。意味のある苦しみ、希望のある苦しみとなります。しかもその悲しみ苦しみは、「しばらく」の間です。ミクロンの短い間にすぎません。そして、私たちが祈る時、礼拝する時、イエスさまと出会っているんです。見えなくなるからといって、見捨てられたのではありません。
 
   イエスの名によって願う
 
 それで続けてイエスさまは、祈り願うことについて教えておられます。弟子たちを励ましておられます。23節の後半からです。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」ものすごい励ましです。愛をもっておっしゃっています。
 ここでイエスさまは、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」とおっしゃっています。なぜ「わたしの名によって」父なる神さまに願えと言われるのでしょうか?
 ルカによる福音書18章で、イエスさまは、ある二人の人が神殿にお祈りに行ったことのたとえを話しておられます。そのうちの一人はファリサイ派の人でした。彼はこう祈りました。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』そしてもう一人、徴税人のほうは遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言いました。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』そしてイエスさまはおっしゃいました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ18:11〜14)
 ファリサイ派の人は、自分の義によって神さまに祈り願いました。わたしはこんなに良い人です、神さまの言いつけをちゃんと守っています。あんな徴税人のような罪人とは違います‥‥。彼は自分の義によって祈りました。そして人を見下しました。ところで他人を見下す、すなわち高慢になるというのは神さまから見たら大きな罪なんです。そのように、人間は自分の力で神さまに認めてもらおうと思っても、できないんです。自分は正しい者だと思っていること自体が高ぶりであり、罪なんです。
 ですからイエスさまは、「わたしの名によってなにかを父に願うならば」とおっしゃいました。わたしは罪人であり、神さまに祈りを聞いてもらう資格はないけれども、十字架にかかってわたしの罪をゆるしてくださったイエスさまの名によって、イエスさまに感謝して、神さまに祈り願うことができるのです。そして私たちが祈りの最後に「イエスさまの御名によって祈ります」と付け加えるのもそのことを表しています。
 「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」この言葉を聞いて、ある人が「よし、俺は億万長者になって贅沢したいから、そのように祈り願うことにする」と言って祈り始めたとします。このお祈りはかなえられるでしょうか?‥‥もう皆さんならお分かりと思います。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」というこの部分だけを切り取って、熱心に祈り願いはじめても、それはかなえられないでしょう。なぜならこれらの言葉は、弟子たちに対してお話しになったからです。弟子たちはこれまでイエスさまと共に歩んで、イエスさまのなさることを見てきましたし、そのお話しを聞いてきたんです。その弟子たちに対しておっしゃったんです。ですから弟子たちはこのイエスさまの言葉を聞いて、自分勝手な祈り願いは聞き入れられないことを知っていたはずです。「あなたのその祈り願いは、愛から出たものですか? あなたのその祈りに神への愛はありますか? あなたのその祈りに隣人への愛はありますか?」‥‥聖霊はそのようにあなたに語りかけることでしょう。
 この説教準備をしている時、一昨日の金曜日の『ローズンゲン』の聖句が目に入りました。それはエフェソの信徒への手紙5章10節の御言葉でした。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」。そういうことだと思いました。イエスさまが喜ばれることを祈り願うんです。なにがイエスさまの喜ばれることかということは、心配しなくても、自分でどんどん祈り願ったらいいんです。そうしたら聖霊が教えてくださるでしょう。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
 これはイエスさまの励ましの言葉です。そうして十字架へ行かれます。この尊い励ましの言葉を信じて、なんでもイエスさまの名によって父なる神さまに祈ってください。賛美と感謝をささげて下さい。それがイエスさまの願いなんです。あれこれ思い悩んで考えるよりも、祈るほうがいいんです。皆さんの祈りの生活が祝福されることを、私も祈っております。