2025年8月17日(日)逗子教会 主日礼拝説教/逗子教会創立記念礼拝
●聖書 イザヤ書59章21
ヨハネによる福音書16章4b〜15
●説教 「行く方、来る方」 小宮山 剛牧師
逗子教会創立記念日を覚えて
本日は逗子教会創立記念礼拝としています。逗子教会は、鎌倉教会の牧師であった宮崎繁一牧師を通して誕生しました。宮崎先生は日本メソジスト教会の牧師でした。そして鎌倉教会に赴任される前は樺太の教会の牧師をしておられました。樺太の南半分は、終戦後ソ連に占領されるまでは日本の領土でした。そしてメソジスト教会の年会で、鎌倉教会に転任が決まりました。メソジスト教会は監督制度の教会です。日本基督教団では牧師は招聘制度をとっていますので、誰を牧師として招聘するかはそれぞれの教会が決めますが、メソジスト教会は教団総会にあたる年会で、監督が任命します。そして鎌倉教会に来られてから太平洋戦争の時代となります。戦争中は、キリスト教会は敵性国家の宗教ということで刑事が教会を見張るという厳しい時代でした。そして終戦を迎えます。
宮崎先生は逗子に伝道することを決められ、この場所に土地を定めました。終戦後の食料不足、そして物資の不足する困難な中でしたが、横須賀のチャプレンの好意で米軍払い下げのかまぼこ型の兵舎、いわゆるコンセットハットを譲り受け、昭和23年8月15日に第1回礼拝を開始しました。出席者は5名でした。
なぜ困難を推してでも教会を建てるのか。それは人々にキリストの福音を宣べ伝えるためです。なぜキリストの福音を宣べ伝えるのか。それは復活されたイエスさまが全世界に福音を宣べ伝えるようにお命じになった、いわゆる大宣教命令があるからです。しかしそれはイエスさまがお命じになったからというだけではありません。キリストの福音には、それほどの尊い値打ちがあるからです。宮崎先生と協力者の思いも、そのようなものであったに違いありません。
また逗子教会の創立は、ただ今申し上げましたように終戦から3年目の8月15日、終戦記念日です。そのことにも意味を感じます。とくに今年は終戦から80回目の終戦記念日でした。戦後、終戦記念日を迎えるたびに日本人は平和を願い、不戦の誓いを新たにしてきました。そして戦争体験が語り告げられてきました。現在、戦争体験者は本当に少なくなりました。それで、どのように戦争経験を伝えていくかということが課題となっています。しかしまことの平和のためには、戦争の悲惨さを伝えるだけでは不十分でしょう。なぜなら人間はみな罪人であり、戦争はその根本の人間の罪に原因があるからです。したがって、その罪の問題の解決のために来られたイエス・キリストを信じて救われなければなりません。
そう言いいますと、「でもキリスト教国も戦争しているではないか?」と言われることでしょう。しかしそれらのキリスト教徒が、本当に真剣に聖書を読み、キリストの教えを信じて従っているでしょうか? むしろそういう人は少ないのではないでしょうか? クリスチャンだから本当にキリストを信じて従おうとしているというわけではありません。クリスチャンでも「信仰は信仰、現実は現実」という考え方に流れやすいのです。それではキリストの恵みと喜びが、十分には来ません。ですから私たちは日々悔い改め、キリストの言葉を喜びとし、聖霊によって信仰をあらたにしてもらわなくてはならないのです。
イエスはなぜこの世に来られたか?
本日もヨハネによる福音書から恵みをいただきたいと思います。最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちに教えを語られている場面です。イエスさまがこの世を去って行かれ、そして聖霊が来られることの予告を語っておられます。
イエスさまが去って行かれる。そもそも去って行かれるのなら、なぜこの世に来られたのか? そういう疑問を持たれる方もおられるでしょう。なぜイエスさまはこの世に来られたのか? 何をしに来られたのか?‥‥それは礼拝の中で語られることの繰り返しになりますが、私たちを滅びから救うためです。イエスさまを信じるようになるためです。イエスさまを信じて救われるからです。
では、なぜイエスさまを信じると救われるのか?‥‥それはイエスさまが私たちの罪を負って下さったからです。命の源である神さまと私たちを隔てたのが、私たちの罪です。その私たちの罪を負って下さった。それが十字架です。すなわち、イエスさまが来られたのは、十字架にかけられて私たちの身代わりとなって死ぬためでありました。そうして私たちの罪を負って下さったのです。
ただ今甲子園で全国高校野球選手権が開かれています。暑い中、毎日試合が行われています。その中に、私が秘かに応援していた高校がありました。聖隷クリストファー高校です。なぜ応援していたかと言いますと、私と同じ静岡だからというのもありますし、キリスト教主義学校だということもありますが、この聖隷クリストファー高校はインターネットでも話題となっていました。なぜ話題となっていたかというと、まず名前が一番かっこいいというのです。次に、この高校には校歌がないんだそうです。それで甲子園には勝った高校の校歌が流れるんですが、聖隷クリストファーには校歌がない。それで流れた歌が、旧讃美歌の393番「神の光は」でした。これがまた話題となりました。
さて、学校の名前の「クリストファー」が気になると思いますが、その意味は「キリストを運ぶ者」という意味です。そしてそれは3世紀の殉教者です。伝説によると、クリストファーは大男でした。そして最高の権力者に仕えたいと思いました。それでまず王様の家臣になりました。しかし王は悪魔を恐れたため、次に悪魔の家来になりました。しかし悪魔はキリストを恐れたために、キリストに仕えようと思ってキリストを探す旅に出ました。その途中、増水した川で、多くの人々をかついで対岸に渡しました。ある夜、小さな子どもを肩に担ぎました。ところがその子どもは川を渡って行くにつれて重くなり、今まで担いだ人の誰よりも重かったそうです。そして必死になって対岸にたどり着きました。するとその子供は、自分がキリストであることを明らかにしたそうです。人々の罪をその身に負っておられたので、誰よりも重かったのです。そうしてクリストファーはキリストのしもべとなり、最後は殉教したとのことです。‥‥非常に尊い話だと思います。
キリストの担いだ罪の重さの中には、私たちの罪も含まれています。そうして私たちはゆるされました。
救いは観念的なものか?
さて、キリストによる救いによって、私たちは罪がゆるされて神の子としていただいた。しかしそれは実感がないと思われるでしょうか? あるいは具体的にはどういう効果があるのかと思われる方もいるかと思います。しかし救いとは、なにか観念的なものではありません。それがイエスさまが今日の箇所でも言っておられる「弁護者」と呼ばれ「真理の霊」と呼ばれる聖霊です。イエスさまを信じると、具体的には聖霊が与えられるんです。
今日の箇所でもイエスさまは弟子たちのもとを去って行かれることをおっしゃっていますが、イエスさまが去って行かれる代わりに聖霊が来られる。聖霊はここでは「弁護者」と日本語に訳されていますが、同時に「助け主」という意味でもあり「慰め主」という意味でもあります。それは、生きておられるキリストが共におられるということでもあります。聖霊あるところにキリストもおられるからです。
私たちは罪人であるにもかかわらず、イエスさまによって救われました。神の子とされました。そして聖霊が与えられ、その聖霊の働きによって、神の子らしく変えられていきます。聖霊が変えて下さるのです。こうして罪人であるけれどもキリストの十字架によって救われた私たちが、名実共に神の子らしくなるように成長させられていく。聖霊の助けによって、キリストを信じ、イエスさまと共に歩むことによってです。
なぜイエスは同時にこの世にとどまられないのか?
それにしても、聖霊がイエスさまの代わりに来てくださるのは分かったけれども、なぜイエスさまは父なる神さまのもとに帰ってしまわれるのでしょうか? 聖霊も来られ、復活されたイエスさまも一緒におられるのが良いのではないでしょうか?
しかし、イエスさまが復活のあと、天の父なる神さまのところに帰らないで、この地上にとどまり続けられるとどうなるでしょうか?‥‥おそらく人々は復活に驚いて、イエスさまを追いかけ回すでしょう。スターを追いかけるファンどころの騒ぎではありません。世界中を追いかけ回すでしょう。またイエスさまは人の子として地上に来られましたから、たとえばイエスさまが東京におられる時は逗子にはおられません。アメリカやフランスにおられる時も、逗子にはおられません。逗子にお出でになるのはいつのことかと待ち続けることになります。‥‥そのように、目に見えるイエスという人の存在を求めることとなります。
ところで神は目で見ることができないと、聖書に書かれています。しかし人の子イエスさまが地上にとどまられると、人間は目に見える者を求めることとなります。それは本当の意味での信仰と言えるでしょうか?
聖書のヘブライ人への手紙11章1節ではこう書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
イエスさまは目に見えない神を信じるようにされました。それが本当の意味で信じるということです。そして人の子イエスさまは、同時に2箇所以上に存在することはできませんが、聖霊はこの地上の誰のところにでも、同時にすべての人の所に来てくださることがおできになります。みな平等にです。こうしてイエスさまは地上を去られ、聖霊が来られることとなります。
世の誤りを明らかにする
その聖霊なる神さまについて、さらにイエスさまはおっしゃいました。(8節)「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」
その意味は、「罪について」とは、世の人々がイエスさまを信じないことだといわれます。神がイエスさまを送られたことを信じない。イエスさまが十字架で私たちの罪を負ってくださったことを信じない。イエスさまを送って下さった神の愛を信じない。信じないから、罪はそのまま残るのです。
次に「義について」とは、イエスさまが父なる神さまのもとに行き、弟子たちがイエスさまを見なくなることだと言われます。イエスさまが十字架で私たちの罪を負って下さり、父のもとに行かれること。それで義とされる。神さまに受け入れられる。そのことを信じない。
そして「裁きについて」とは、「この世の支配者が断罪されることである」とおっしゃっています。「この世の支配者」というのは、皇帝や王様のことではありません。ここでは悪魔、サタンのことです。イエスさまの十字架は悪魔の勝利ではありません。悪魔が断罪されたのです。
この世の人々は罪というものを誤解し、義、つまり救いということを誤解し、裁きについても誤解をしている。しかしイエスさまはそのような人々の誤解の中を、十字架へ向かって進んで行かれます。この私たちを愛するがゆえに。憐れんで、救われるゆえにです。
三位一体
本日の聖書箇所には、三位一体の神がすべて出てきています。弟子たちと共におられ、これらの言葉を語られた子なる神、イエス・キリスト。そしてそのイエスさまを遣わされた父なる神。そしてイエスさまが去って行かれることによって、弁護者として来てくださる聖霊。父、子、聖霊の三位一体の神です。
ここに神が三位一体であることの意味が語られています。天地万物の創造者である父なる神がイエスさまを遣わし、そのイエスさまの十字架を通して聖霊なる神さまが来られる。聖書のストーリーを思うことができます。旧約聖書は天地創造から始まります。そして旧約聖書で登場する神は父なる神さまです。聖霊は預言者に降るほかはあまり目立ちません。しかし新約聖書の福音書に移りますと、イエスさまの登場です。そしてイエスさまのご生涯とその働き、そして十字架の死と復活です。そして昇天。さらに新約聖書の使徒書に移りますと、それは使徒たちの働きですが、実際には聖霊がどう働いたかの記録です。聖霊が使徒たちを用いたことの記録です。
このように聖書は、父なる神さま、子なる神キリスト、そして聖霊なる神さまの順番に主人公と申しましょうか前面に出て来る神が移って行きます。三位一体の神の現れです。そして最後は世の終わりで、イエス・キリストの再臨です。
どうしてそういうことになっているかというと、それはただ私たちを滅びから救うためです。愛してくださっているからです。私たちは神さまによって愛されているんです。
聖霊の働き。それは使徒たちの時代だけではありません。世の終わりに至るまで、すなわち今現在の私たちにも働いてくださっています。聖霊と共に、そして聖霊と共にいてくださるイエスさまと共に、神の国へ向かっていく歩み。それが私たちの本来の歩みです。しかも隣人の救いのために祈りつつ歩んで行く。それが教会の歩みです。
あらためて教会が与えられている恵みを感謝したいと思います。このあと使徒信条を告白いたします。使徒信条もまた三位一体の神を告白しています。ただ今の恵みを覚えつつ、心を込めて唱和したいと思います。