2025年8月10日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 申命記18章15
ヨハネによる福音書15章26〜16章4a
●説教 「証し」 小宮山剛牧師
世を救うために立てられる
横浜山手に外人墓地があります。その中に、アメリカのバプテスト派の宣教師ジョナサン・ゴーブルの妻の墓もあります。ゴーブルは幕末に、あのペリーの艦隊の乗組員に応募し、日本を訪れ、日本伝道の志を与えられました。そして1860年に自給宣教師として日本にやってきました。ゴーブル夫人は日本に到着早々「わたしはあこがれの日本に着きました。ここで働き、ここで死に、ここで葬られたい」と、アメリカの友人に手紙を書き送ったそうです。そして病弱な彼女は、夫ゴーブルを助けて働きましたが、亡くなってここに葬られたとのことです。(太田愛人編著『外人墓地に眠る人びと』キリスト新聞社)
今週8月15日は逗子教会の創立記念日ですが、私たち日本のプロテスタント教会は幕末から明治にかけて日本にやってきた宣教師たちによってもたらされました。その中には、そのゴーブル夫人のように日本を愛し、日本に骨を埋めた人たちも多くいました。そういうことも忘れないでおきたいと思います。
本日もイエスさまの言葉から恵みをいただきたいと思います。前回読みました箇所から、イエスさまは、弟子たちがこの世の人々から迫害を受けることを予告なさいました。
キリストを宣べ伝えたために迫害される。しかしキリストを宣べ伝える伝道の業のために弟子たちをお選びになったのは、イエスさまご自身でした。そしてイエスさまが選ばれた弟子たち、ここでは使徒たちですが、その人たちはまことに残念な人たちでした。イエスさまに対して「あなたのためなら命も捨てます」などと言って誓いながら、いざイエスさまが逮捕された時にはみなイエスさまを見捨てて逃げました。ペトロなどは、「お前もイエスの仲間だ」と言われて「そんな人は知らない」と3度も否定してイエスさまを裏切ることになります。そのような、まことに残念な人たちでした。どうしてこのような人たちをお選びになったのか、と思うほどです。
しかし、そこにこそキリストの恵みの証人として立てられる意味があります。勇敢な人、強い人が選ばれ使徒として立てられるというのなら、私たちとはあまり関係のない立派な人たちということになる。今高校野球が行われていますが、あの甲子園に出場できる球児たちは、各県の大会を勝ち抜いてきたほんの一握りの球児たちです。そしてまたそこからプロ野球選手になれるのは、さらにほんの一握りの人たちです。そのように、優れたほんの一握りの人が選ばれるというのと変わりなくなるでしょう。私たちから見たら、別世界の人たちの出来事となってしまいます。
しかし、イエスさまの選ばれたこの弟子たちが、今申し上げたようなまことに残念な人たちであるという時、それは私たち自身の姿と重なります。失敗するし、間違いも犯すし、愛も足りない‥‥。イエスさまが、そんな弟子たちを選び、お用いになるのですから、イエスさまはすごいということになります。そこなんですね。私たちがすごいのではない。イエスさまがすごいのです。
26節で、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」とイエスさまはおっしゃっています。弁護者であり真理の霊である聖霊。その聖霊なる神さまが、弟子たちを通してイエスさまを証しする。
ちなみに、イエスさまのことを3度も否認したペトロですが、のちのペンテコステの日の出来事ではどうなったでしょうか?‥‥物音を聞いて集まった群衆に向って、これがあのペトロかというように大胆にイエスさまのことを語り、人びとに悔い改めを迫りました。これはペトロを知っている人なら、誰が見ても聖霊のわざだと思えたでしょう。そうして聖霊によって教会が誕生しました。逗子教会もまた然りであります。
人間を用いる主
しかし、神に背いて愛を失い争いばかりしている人間を悔い改めさせるために、なぜ神さまは、人びとを強制的に回心させないのでしょうか? なぜ「伝道」という方法、すなわち人間を用いて人間に伝えていくという、時間のかかる方法をとられるのでしょうか? しかも用いる人間は全くふつうの人たちです。
それは神さまは人間をロボットとしてお造りにならなかったからです。神さまはなんでもおできになりますから、人間の頭を改造して、強制的に神を信じるように作り変えることはできるでしょう。しかし神さまは、人間をそのようなロボットのようにお造りになりませんでした。自由意志をお与えになり、神に似せてお造りになりました。その人間が自由意志によって神さまに背きました。ですから神さまは、人間がまた自由な意思で神さまのもとに立ち帰り、回心することを待たれるのです。
人間の頭の中をロボットのように作り変えて、強制的に神に従うようにしてしまうことはもちろんおできになるでしょう。しかしそれは神さまの栄光を証しすることになるでしょうか? 神さまの愛と言えるでしょうか?‥‥言えません。神に背いて愛を失い悪くなってしまった人間が、神の愛によって導かれ、自らの意思で悔い改めてこそ神さまの勝利であり、神さまの栄光をあらわすこととなります。
自分自身を振り返っても分かります。生まれて1歳の時に死にかけたのを、教会の祈りによって命を助けられたという大きな恵みをいただきながら、その後教会を離れ、神さまイエスさまのことを捨てた私。その私は、2度目に死にかけた時に、死んでも当然だったのですが、また助けられました。そして神さまは、いろいろなクリスチャンを私のところに遣わして下さって、回心に至りました。そうして、神の助けによって自らの意思で神さまに感謝し、ほめたたえるようになりました。
神さまは一人芝居をなさいません。神とキリストを信じる者と共に働かれます。そして信じる者を用いて、つまり人を通して人を回心に導かれます。
コリントの信徒への第一の手紙 1:21で使徒パウロが語っています。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
人間の目には、人を用いてキリストのことを伝えていくという宣教という手段は、回りくどいし、愚かなことに見えます。しかし、それは愛のわざです。神の愛の業に私たちを用いられるのです。
聖霊について
しかし人を神のもとに立ち帰らせるという回心の出来事を、神さまは人間だけでやりなさいと言われるのではありません。先ほど申し上げましたように、聖霊なる神さまが働かれます。聖霊は信じる人と共に働かれます。
26節で「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」とおっしゃっています。「弁護者」、それは「慰め手」「励ます者」と訳されることもあります。味方であり、援軍です。それが聖霊です。
また聖霊はここでは「真理の霊」と言われています。「真理」というと難しく聞こえます。この「真理」と訳されているギリシャ語は「アレーセイア」という言葉ですが、「真実」という意味でもあります。「本当のこと」と言う意味です。ですから「真理の霊」は「真実の霊」と言い換えてもいいのです。
また、「霊」という言葉はギリシャ語では「プニューマ」という言葉です。それは「息」とか「風」と日本語に訳すことができる言葉です。聖霊は霊ですから目に見えません。ではどうしたら聖霊の存在が分かるでしょうか?‥‥聖霊のもう一つの訳語である「風」で考えてみましょう。風というのは、たいていいつも吹いています。風がないなと思っても、たいてい弱い風が吹いているんです。それは気象庁のホームページの各地の観測ポイントのデータを見ると分かります。風がないと思っても、1〜3メートルぐらいの風がたいてい吹いています。しかし私たちは、強い風が吹かないと、なかなか風を感じません。しかし風を感じなくても、走ると風を感じます。凧あげもそうです。風がないと凧は揚がりませんが、走ると凧は風を受けて揚がっていきます。
それと同じように、神を信じようとして神さまのほうに向かっていくと聖霊が分かってきます。正しくは、聖霊の働きが分かってきます。
榎本保郎先生は言いました。聖書というものは神に印刷された本であるけれども、その印刷された言葉が、あたかも私に向かって書かれた言葉のように読めることがある、それが聖霊の働きだと言いました。そのように、謙虚な心で聖書を読んでいく。神さまに向かっていく。真心から礼拝をする。心を込めて祈る。‥‥そのようにして、動いた時に風を感じるように、聖霊の働きが分かってきます。
イエスさまの弟子たちにとっては、キリストのことを宣べ伝えていった時に聖霊の働きが身に染みて分かることになります。
迫害の予告
今日のところでも迫害の予告がされています。イエスさまは、(1節)「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」とおっしゃいました。やがて迫害が起こった時に、「なぜイエスさまのことを宣べ伝えているのに迫害されるのだろう?神さまは我々をお見捨てになったのか?」と不信に思ってつまずかないために、あらかじめ言っておく。そうおっしゃいました。
2節では「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」とおっしゃいました。実際、イエス・キリストを信じる者は、ユダヤ人の会堂から追放されました。会堂から追放されると言うことは、ユダヤ人社会から追放されることを意味しました。ユダヤ人でありながらユダヤ人社会から追放される。それはローマ帝国の公認宗教でもあるユダヤ教から外れることを意味しました。そうしてキリストを信じる者は、ローマ帝国からも迫害されるようになることを意味しました。
しかもイエスさまが「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」とおっしゃっているように、キリスト教徒を迫害することが、神に仕えていると考えるようになる。ユダヤ人はイスラエル人であり、旧約聖書では神さまによって選ばれた民です。真の神さまを信じている人たちのはずです。しかしその人たちがキリスト教徒を迫害するにいたる。神さまについての認識が間違っているんです。
たとえば今日の旧約聖書は、申命記18:15を読みました。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」これはモーセの言葉です。そのモーセがのちの時代のことを予言しています。その中の「わたしのような預言者」というのが、イエス・キリストのことだと、キリスト教会は解釈しています。そればかりではありません。イザヤ書53章をはじめ、旧約聖書はキリスト予言で満ちています。しかしユダヤ教徒はそれを信じない。自分たちの聖書が予言していることを信じない。それでイエスさまを十字架にかけ、キリスト教徒を迫害するに至る。しかし自分たちは神に仕えていると思っている。神に従っていると信じている。‥‥神さまについての認識が間違っているんです。その結果、神の御子であり神がこの世に遣わされたイエスさまを十字架にかけてしまう。
(4節a)「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」
イエスさまは弟子たちに、迫害されることをあらかじめ予告しておかれました。そして本当に迫害があった時に、つまずかないためでした。迫害が起きることを承知の上で、弟子たちを世界に向かって遣わされます。罪のこの世を救うために。イエス・キリストを信じて救われるために。罪のこの世を救う神の御心、キリストの十字架の心を共にするためにです。キリストも私たちを救うために十字架にかかられたんです。
しかもあなたがたはひとりぼっちではない。主が共に歩んでくださる。それが真理の霊、弁護者である聖霊です。あなたがたは真実の証人として、神とキリストを証しするのだと言われます。
使徒たちのその後
イエス・キリストの12使徒は、やがてどうなったでしょうか?
こちらは12使徒の殉教地を示した地図です(スライド)。この福音書を書いたヨハネの兄弟ヤコブが最初に殉教しました。エルサレムでヘロデ王によって剣で殺されました。このことは使徒言行録に書かれています。あとは伝説ですが、マタイはペルシャやエチオピアに伝道に行き、火刑に付されて殉教しました。アンデレはギリシャのアカイア地方でX字型の十字架につけられて殉教しました。トマスはインドに行って、そこで処刑され殉教しました。フィリポは小アジアのヒエラポリスで殉教しました。ナタナエルはアルメニア、ペルシャ、インドにも伝道に行き、小アジアで殉教しました。タダイ、すなわちイエスさまを裏切ったユダではないユダは、ペルシャで殉教しました。ペトロは、皇帝ネロの時にローマで十字架につけられて殉教しました。その時ペトロは、「イエスさまと同じ十字架につけられるのはもったいない」と言って、十字架に逆さにして張りつけにしてもらったと伝えられています。
そのように、この福音書を書いたヨハネ以外はみな殉教しました。イエスさまが十字架につけられる前は、イエスさまを見捨てて逃げた弟子たち。怖くなって、イエスさまのことなど知らないと3度も言ったペトロ。そういう弟子たちが、なんという変わりようでしょうか。はるばる見知らぬ外国に行って、命をかけてイエスさまのことを宣べ伝えるに至ったんです。
脅されて変わったのではありません。神さまがこわくて変わったのでもありません。強制されたのでもありません。そういうことでは人間は変わるものではありません。使徒たちが自ら海外へおもむき、殉教したということこそ、十字架にかかって死なれたイエスさまが、たしかによみがえられた、復活されたということの証しではないでしょうか。そして聖霊がたしかに共におられること、すなわちイエスさまが共に歩んでくださっていることの証しをしているのではないでしょうか。共に働かれる聖霊、イエスさまを体験し、喜びにあふれて証しをしているのではないでしょうか。
そして12使徒の中で、一人生き残ったヨハネがこの福音書を書き記しています。彼は書き記すことによって、イエスさまを証ししました。なんのためにイエスさまが来られたのかということを、なんのために十字架にかかられたかということを、そしてその愛が真実であることを、ヨハネはペンによって証ししました。
その同じ聖霊が、私たちにも臨んでくださいます。使徒たちをこれほど変えたほどの聖霊が、信じる者に働かれる。イエスさまが共に歩んでくださる。大いなる励ましです。