2025年8月3日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編100編4〜5
ヨハネによる福音書15章16〜25
●説教 「神に属する人」小宮山剛牧師
終戦80年
本日は「平和聖日」です。そして今年は、太平洋戦争の終戦から80周年の年です。また今年は「昭和百年」でもあります。
昭和。それは激動の時代でした。逗子教会はここ数年、天に召される兄弟姉妹がたいへん多くなっていますが、その多くは終戦後に教会に行くようになったその当時若者であった方々です。そしてそれらの兄弟姉妹の葬儀を司る時に、その歩みを振り返りますが、あの戦争をくぐり抜けてきた方々であることを思います。
昭和初期、満州事変から始まった日中戦争。それを当時の軍部は拡大していきました。そして昭和16年のハワイの真珠湾攻撃によって、アメリカとの戦争に突入しました。無謀な戦争でした。多くの人々が命を落としました。日本人約310万人、アジアで約910万人の人が亡くなったと言われています。大きな傷跡を残しました。いまだに跡を引きずっています。
なぜ勝てるはずのない戦争を始めたのか?‥‥元東京都知事で作家の猪瀬直樹さんによれば、昭和16年の4月、近衛内閣のときに「総力戦研究所」というところに官僚や企業の優秀な若手を集めて、アメリカと戦争をしたらどうなるかという綿密なシュミレーションをさせたそうです。戦争は軍事力だけでは勝てません。その国の総力戦ですから、経済力や資源、輸送ルートの確保などをあらゆる面から徹底的に分析したそうです。すると「これは完全に負ける」という結論が出たそうです。しかしなぜそれが生かされなかったのか。それは内閣が東条内閣に変わり、戦争に傾く空気に変わり、データをごまかして日本に有利なデータに書き換え、その結果、勝てるだろうという判断に至ったということです。これは本当に絶句いたします。その結果、多くの人々を不幸に陥れ、破壊と殺戮がなされた。誤った情報に基づいて判断すると、とんでもないことになるということを教えられます。
これは今も同じです。誤った情報ではなく、正しい情報が必要です。そしてこのことは、私たちの人生に於いても同じです。誤った情報に従うと道を踏み外します。それは人間の情報だけではありません。人間の情報は、この世の情報だけです。神さまについての正しい情報が必要です。それによって私たちは自分自身が何者であるかを知ることができます。そして私たちは、イエス・キリストを通して正しい情報を与えられると信じています。イエスさまは、ご自分の命を私たちの身代わりにするほど、私たちを愛してくださっているからです。
イエスが選んだ
イエスさまは弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(16節)
しかし聖書を読むと、弟子たちがイエスさまを選んだように読めます。たとえばヨハネによる福音書では、最初の1章に、何人かの人がイエスさまの弟子となったことが書かれています。その最初はアンデレと、もう一人はおそらくこの福音書を書いたヨハネです。この二人は洗礼者ヨハネの弟子でした。しかし洗礼者ヨハネがイエスさまを指して「見よ、神の小羊だ」(ヨハネ1:36)と言ったのを聞いて、イエスさまに従いました。ですから二人は、自らの意思でイエスさまの弟子となった、すなわち弟子たちがイエスさまを選んだように見えます。
しかしイエスさまは今日のところで、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とおっしゃっています。すなわちこれは、「あなたがたがわたしを選んだように思っているかもしれないが、そうではない。実は、わたしがあなたがたを選んだのだ」ということです。
なぜイエスさまが選んだことになるのでしょうか?‥‥それは、彼らがイエスさまの弟子となる以前に、神さまの導きがあったということです。イエスさまと出会うための導きです。イエスさまがずっと準備してこられた。そうして、あの日、あの時、彼らはイエスさまと出会い、イエスさまの弟子となった。その時点では、彼らは自分たちの意思でイエスさまに従うようになったと思っていたけれども、そこに至るまでの人生における神の導き、大きなイエスさまの導きこそが決定的なことだったということです。
それはまったく私たちについても言えることです。私たちは自分から教会に足を運んだと思っているかもしれません。しかし実はここに至るまでに、主の導きがあったんです。私たちには分からないかもしれない。しかしイエスさま、神さまの見えない導きがあった。道を導いてきて下さった。そこが大事な点です。私のような者にも、心を砕いて導いてくださったイエスさま。私は自分のことを振り返ると、感謝しかありません。
なぜ選ばれたか
ではなぜ私たちをお選びになったのでしょうか? 私たちが良い人、善人だったからでしょうか?‥‥そうではないことは、私たち自身がよく知っています。善人だったから選ばれたのではない。むしろ逆に、イエスさまに選ばれなければ、ものごとの良し悪しも、善も悪も分からなかったというのが本当です。きょうのところでも「互いに愛し合いなさい」とお命じになっていますが、その言葉が尊い言葉であるかということも分からなかったのです。
「わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
ここで選んだ理由として二つのことをおっしゃっています。一つは「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」です。もう一つは「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」です。この二つの理由を挙げておられます。
実を結ぶというのは、この15章のはじめにイエスさまが語られた「ぶどうの木」のたとえです。イエスさまがぶどうの木であり、私たちはその枝であるということ。そしてその枝にぶどうの実が成るということです。その実とは、私たちのうちに働く聖霊によって結ぶ実であり、愛であり、喜びであり、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5:22〜23)です。
さらに実を結ぶということは、ぶどうの実は人が食べるためであるように、世の中の役に立つということでもあります。私たちぶどうの枝は、キリストというぶどうの木の一部ですから、キリストの実を結ぶことになります。すなわち私たちを通して、そしてぶどうの木は教会のことでもありますから、教会を通して世の人々がキリストに出会うということです。キリストを伝えるということです。
そのように、私たち自身が成長し、また世の人々のために用いられるために選んだと言われたのです。そして私たちのことを友と呼ばれます。
憎まれる
ところが今日の箇所では、「世があなた方を憎む」(18節)と言われます。19節を見ると「わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と言われます。イエスさまがこの世に憎まれた。だからあなた方も憎まれると言われます。誰も憎まれたい人などいません。ではなぜ憎まれると言われるのでしょうか?
「世」とおっしゃっておられますが、ここでは「世」というのは真の神を信じない世界、キリストを信じない世界のことです。すなわち罪の中にいる人々のことです。そして、かつては弟子たちも、私たちもそこにいたのです。そこからキリストの憐れみによって選ばれ、救われて神の国の住人とされました。この世の理屈とは違う神の世界に移されました。
この世の理屈と違うというのは、たとえばイエスさまは繰り返し「互いに愛し合いなさい」と言われますが、この「愛する」ということが、この世とは違っています。マタイによる福音書の山上の説教では、イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43)とおっしゃいました。たとえばこの尊い言葉は、戦争をしている時に成り立つでしょうか? 政府が「敵をやっつけろ」と命令している時に、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という言葉は、邪魔になるでしょう。この世の考え方と対立することになります。
先の戦争中に「鬼畜米英」という言葉がありました。私の母は、アメリカ人には角が生えていると本気で信じていたと言っていました。敵は人間ではなく鬼だから倒せ、ということです。そのような時代ですから、教会も苦労しました。クリスチャンは苦労しました。しかしその苦労があったからこそ、終戦後、多くの若者が教会へ詰めかけてイエスさまを信じるようになりました。
いずれにしても、「世」というのは罪の世です。愛のない世です。しかし神さまは、そのようなこの「世」を愛されました。ヨハネによる福音書の3章16節で言われているとおりです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」世を滅ぼすのではなく、救うためにイエスさまを送られました。そのイエスさまが十字架と復活を得て、天に帰られることになります。しかし弟子たちに聖霊を送って下さいます。それはイエスさまが共にいて下さるということです。そしてこの世を救いに導く器として、教会を用いられるのです。
ねたみと迫害
23節で「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる」とおっしゃっています。このとき現にユダヤ人当局が、イエスさまを十字架の死刑にしようとしています。ユダヤ人は旧約聖書の民であり、真の神を信じていたのではないでしょうか? なのになぜイエスさまを憎み、さらにその神さまを憎んでいると言われるのでしょうか?
次の24節です。「だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。」
イエスさまの業とは、奇跡の業です。病人を癒やす奇跡、5つのパンと2匹の魚で多くの人を満腹になさる奇跡です。それはだれが見ても神さまがイエスさまと共におられるしるしです。しかし彼らはイエスさまを憎みました。そこにはねたみがありました。それは、「我々は神の律法を忠実に守ってきた我々なのに、イエスの方が神に愛されているのはなぜか?」というねたみです。その結果、彼らはイエスさまを十字架につけてしまいました。
自分たちこそが神のしもべである。そしてイエスさまが神のもとから来られたことを信じなかった。イエスさまを憎むのは、すなわち神を憎むことです。それが彼らには分からなかった。そうしてイエスさまを迫害しました。イエスさまが迫害されたのだから、あなたがたも迫害されると言われます。イエスさまを信じる者の歩みは、この世の理屈と違うからです。
では、キリスト教国なら迫害はないでしょうか? ふつうはそう思います。しかしどうでしょうか。たとえばロシアのプーチン大統領は、ロシア正教の信徒であるに違いありません。しかしプーチン大統領に、「あなたのしている戦争は間違っている」と国民が言ったとしたら、どうなるでしょうか?
そのように、たとえキリスト教国と呼ばれる国であったとしても、本当にイエスさまの言葉に従おうとしたら、迫害を受ける、あるいはさまざまなあつれきがあるだろうと思います。しかしイエスさまは、そのような中で私たちの友として歩み、主の恵みを表して下さいます。
榎本先生の導き
チイロバ牧師こと榎本保郎先生は、戦争中兵隊として中国に行っていました。すると隣のベッドに寝ている人が、夜中にベッドの中でごそごそして、わけの分からんことをつぶやいている。それで気味悪くなって「お前、なにを言うとんのや?」と声をかけると、「お祈りしてんのや」という。それで「お祈りって、どこの神さんにお祈りしとんのや?」と聞くと、「キリストや」と答えた。それでびっくりしたそうです。そんな敵性国家の宗教を信じてるやつが隣にいるなんで、けがれがこっちまで移ってくるように思ったそうです。ところがその人は、それ以来、時間があると榎本先生にキリストの話をするんだそうです。しかし榎本先生は、「いやや。日本には天照大神がある」というようなことを答え、頭から彼をけなしていたそうです。
やがて外出がゆるされる日が近づいて来ました。するとその男は、榎本先生に親切にしてくれる。たとえばごはんのおかずを残して、それをくれたりとかです。そうして外出の日となりました。しかし新兵は、ひとりでは外出がゆるされないのだそうです。すると彼が榎本先生に「頼みがある」という。何かと言えば、教会に行きたいので一緒に行ってくれと言ったそうです。榎本先生は即座に「そんな所には絶対に行かへん」と拒否した。しかし彼は「教会について行ってくれたら、中華料理をタダで食べさせてもらうから」と言った。それでついて行くことにしました。そして二人で教会の前まで行ったけれども、榎本先生は「変な神さまのところに行ったらいかん」と思って、中に入らず門のところで待っていたそうです。しばらくすると彼が中から出て来て「料理ができたよ」と言った。それでごちそうには勝てず、中に入って席に着き、料理を食べようとしたそうです。すると、「ちょっとお待ちください」と神父さんが言った。なにかと思ったら、食前の祈りをしたそうです。榎本先生はその時、生まれて初めて食前の祈りを知ったそうです。そういうことがあった。
そして榎本先生は、この彼から信仰に導かれたのだそうです。そしてやがて牧師となった。のちに、この人のお父さんである牧師が亡くなって、その記念式の説教を頼まれてしたそうです。記念式が終わった後、彼があいさつをしたそうです。そしてこう言ったそうです。「皆さん、今日わたしは奇跡を見ました。それは今日説教をして下さった榎本牧師です。彼は私と同じ同年兵でした。彼は、私がキリスト教の話をすると、クソミソに言ってけなしておりました‥‥」と。そして「その彼が、今牧師となって神さまのことを語っている。これは神さまでなくしては、絶対にできないことだ」と語ったとのことです。これは、彼の祈りが聞かれたんじゃないですか?
神さまでなくてはできないことです。そのような尊い導きが、たしかに私たちひとりひとりの上にある。そして私たちが祈りに覚える隣人の上にある。このことを感謝したいと思います。