2025年7月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 サムエル上18章1
    ヨハネによる福音書15章11〜15
●説教 「永遠の友イエス」
 
11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
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   喜びを与えるために来られたキリスト
 
 「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」(11節)とイエスさまはおっしゃいます。「これらのこと」というのは、前回の個所でイエスさまが語られた「ぶどうの木」のたとえのことだとも言えますし、あるいはこれまでイエスさまが弟子たちに対して語ってこられたことすべてとも考えられます。
 いずれにしても、イエスさまが弟子たちに語ってこられたのはなんのためであったかと言えば、それは弟子たちが喜びで満たされるためであると言われます。弟子たちとはイエスさまを信じて着いて来ている人のことですから、それはすなわち私たちのことでもあります。イエスさまは私たちが喜びで満たされるために語ってこられたのです。これはとてもすばらしいことではないでしょうか。私たちが喜びで満たされるためにイエスさまはお出でになり、教えを語られた。
 クリスチャンというと、世間の人はどういうイメージを持たれるでしょうか?‥‥これはもと教団議長を務められた山北宣久先生が本の中で紹介しておられる話ですが、ある教会に新しい牧師が赴任してくることになりました。教会役員たちがそろって駅まで迎えに出ましたが、誰も牧師の顔を知りません。どうしようかと話し合っているうちに、列車がホームに到着してしまいました。彼らは目を皿のようにして、改札を通ってくる人をひとりひとり注意深く観察しました。そしてついに、あの人に違いないと全員の意見が一致した人がいました。それで皆はその人のところに駆け寄り、声をかけました。「牧師先生ですか?」するとその人は、けげんそうな顔をして言いました。「なんのことでしょうか。わたしは長いあいだ胃を患っていて入院中なのです。今日は所用でちょっと家に戻ってきたところなのですが‥‥」(山北宣久著、『福音のタネ、笑いのネタ』教文館)
 今はどうか分かりませんが、たしかに昔は牧師というとちょっと暗く難しい顔をしているものだと思われていたように思います。また、牧師だけではなく、クリスチャンも真面目だけれども堅物で面白みがない人のように思われていたかもしれません。また世の中の人の中には、何かキリスト教というものを深刻な顔をして、むずかしい道を歩むことだと思っている人がいるように思います。そこには聖書が人間の「罪」ということを問題にしているからだということもあるかもしれません。
 しかしイエスさまは今日の箇所でもはっきりとおっしゃっています。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」と。聖書が「罪」というものに焦点を当てているのも、何か人を落ちこませるために言っているのではありません。人間の問題の本質に導くためです。
 三浦綾子さんが『道ありき』という自伝の中で書いていることですが、三浦さんが体調を崩し、背中が痛いのだけれども、いくつかの病院で検査をしても異常を見つけることができませんでした。しかしある病院で検査をしたところ、カリエスであると診断され、ギプスベッドに絶対安静で寝ていなければならないと命じられたそうです。そして次のように書いています。‥‥「病室に帰ってからわたしは思った。(自分の背骨が結核菌にむしばまれているというのに、レントゲンにハッキリ写し出されなかったばかりに、こんなに足がフラフラになるまでわからなかった。このままもしわからずにいたとしたら、わたしの骨は全く腐ってしまって、死ぬよりほかになかったのではないだろうか)そしてまた思った。魂の問題にしても、同じことが言えるのではないだろうかと。罪の意識がないばかりに、わたしは自分の心が蝕まれていることにも気がつかないのではないだろうか。腐れきっていることに気がつかないのではないだろうか。つくづく恐ろしいとわたしは思った。」(三浦綾子『みちありき』、新潮文庫)
 その後長い長い闘病生活を送り、その果てに癒されるということになります。そのように、病気の原因が分かってこそ治療ができます。聖書が人間の「罪」を問題にするのも、私たちが平安を失い喜びを失い力を失っている原因を指摘しているわけです。そしてイエスさまは、その私たちの罪という原因を取り除くために来られました。私たちが罪人であることを知らせ、さらにその罪人である私たちが主イエス・キリストによってゆるされ、祝福され、真の喜びに満たされるために来られたのです。
 
   イエスの喜び
 
 イエスさまは「わたしの喜びがあなたがたの内にあり」(11節)と、「わたしの喜び」とおっしゃっています。わたしの喜び、すなわちイエスさまの喜びです。このことから、イエスさまは喜びに満たされていたということが分かります。この喜びというのは、笑いが止まらないというような喜びではないだろうと思います。それはおそらく、平安な喜びです。何ものによっても揺るがないような平安です。
 もちろん、このヨハネによる福音書の中でもイエスさまが涙を流されたり、あるいは憤られたこともありました。しかし、根本には喜びと平安で満たされていたのです。
 そのイエスさまの喜びとは、どういうところから来る喜びでしょうか?
 第一に、父なる神さまがイエスさまを愛しておられるということから来る喜びです。そのことは9節でも言われていました。「父がわたしを愛されたように」と。父なる神さまが、イエスさまを愛しておられる。そのことをよく知っておられるイエスさまには喜びがありました。愛あるところに喜びもあるからです。
 第二に、愛することから来る喜びです。これも9節で言われています。「父がわたしを愛されたように」の続きです。「わたしもあなたがたを愛してきた」。このように、父なる神さまから愛されることから来る喜びと、弟子たちを愛することから来る喜びです。愛することからも喜びが来るのです。
 
   互いに愛し合う
 
 そしてイエスさまは12節で言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」
 互いに愛し合う。それは「愛される」喜びと「愛する」喜びです。父なる神さまとイエスさまがそういう関係であるように、弟子たちどうしにも、つまり私たち同士にもそのように互いに愛し合うことを求めておられます。「わたしがあなたがたを愛したように」と。
 「わたしは誰からも愛されていない」という人がいます。しかし少なくとも、イエスさまはその人を愛しておられる。私たちを愛しておられる。そのことがたしかであるということです。
 
   友なるイエス
 
 またイエスさまは、私たちのことを「友」と呼んでおられます。(14節)「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」
 友とはどういう存在でしょうか? 私たちは誰を友と呼ぶでしょうか?‥‥一般には気の合った人で、気軽に付き合える人のことを友と呼ぶのではないでしょうか。しかし誰を友と呼ぶかというのは主観的なものです。人によってずいぶん違います。自分は友だちだと思っていた人が、その人から見れば自分は友だちとは思われていないとか。あるいは友だちだと思っていた人から裏切られたとか。あるいは「私には全然友だちがいない」という人もいます。‥‥そのように「友」という言葉からさまざまな人間関係を思い浮かべます。
 イエスさまのおっしゃる「友」とは、どういうことを言うのでしょうか?
 この「友」という言葉のギリシャ語は「フィロス」という言葉です。それは「愛されている人」とか「私の大事な人」という意味があります。すなわち、イエスさまが弟子たち・私たちのことを「友」と呼ばれる場合、それは愛によって言われるのであり、大事に思ってくれているということです。気が合うとか合わないとかいうことではありません。14節をもう一度見ると、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」とおっしゃっています。そうすると何かイエスさまの戒めを守ることが、イエスさまの友となる条件であるかのように読めます。イエスさまの戒めというと、互いに愛し合いなさい、ということになります。それを守ったら友にしていただけるということでしょうか?
 ヨハネによる福音書をここまで読んできて、イエスさまが友と呼んだ人がいます。それはベタニア村のラザロです。ラザロが死んだとき、イエスさまは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(11:11)とおっしゃいました。しかしこれは、ラザロが「互いに愛し合いなさい」というイエスさまの戒めを完全に守っていたという意味ではありません。完全に愛することは人間には難しい、いや、できないことだからです。だからここでは、互いに愛そうとする心のことを言っておられると考えるべきでしょう。そのことは15節を見ても分かります。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」イエスさまの言葉を聞いた。すると互いに愛し合おうという気持ちが生まれます。
 そしてまたイエスさまが「ぶどうの木」のたとえのところで言われた、「わたしにつながっていなさい」(15:4)ということです。そうすれば「わたしもあなたがたにつながっている」とイエスさまは約束されました。
 ですから14節でイエスさまがおっしゃった「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」という言葉、その「わたしの命じることを行う」というのは、イエスさまというぶどうの木につながっていることであり、また「互いに愛し合いなさい」と言われたイエスさまの言葉に従っていこうとすることです。私たちを愛してくださるイエスさまの言葉であるから、従っていくことを願う。そのとき「あなたがたはわたしの友である」というイエスさまの言葉が真実となります。
 さらにイエスさまは、有名な言葉をおっしゃいました。13節です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」
 これはたしかにその通りでしょう。しかし友のために自分の命を捨てるということは、とても難しいことです。「はい、わかりました」というわけには行きません。しかしこれは、私たちを「友」と呼んでくださるイエスさまご自身のことを言っています。イエスさまは弟子たち、すなわち私たちイエスさまを信じる者を「友」と呼んでくださり、そして十字架に向かって行かれました。十字架の上で命を捨てられました。私たちの身代わりとなって。私たちを救うために。ここに大いなる愛があります。私たちの真実の友の姿です。
 
   ダビデとヨナタン
 
 きょうの聖書は最初に、旧約聖書サムエル記の、ダビデとヨナタンの友情を示す場面の一節を読んでいただきました。ヨナタンはイスラエルの最初の王であるサウル王の息子です。
 どうやってダビデとヨナタンが友情で結び付いたのか。それは、ダビデがイスラエルを攻める敵であるペリシテ人の巨人ゴリアトを倒した時からです。もう一度読みますとこう書かれています。「ダビデがサウルと話し終えた時、ヨナタンの魂はダビデの魂に結び付き、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(サムエル記上18:1)
 この友情は、信仰による友情でした。ダビデはただ主なる神さまへの信仰によって、無敵の巨人の戦士ゴリアトに立ち向かいました。ダビデは主を信頼する人でした。ヨナタンも主を信頼する人でした。2人とも主である神さまとつながっている。その2人が真実の友となりました。
 
   愛する喜び
 
 先ほど、イエスさまの喜びは、父なる神さまによって愛されている喜びであり、もう一つは愛する喜びであると申し上げました。愛されることが喜びであることは分かるけれども、愛するということが喜びであるとはどういうことか、と思うかもしれません。
 ロシアの文豪トルストイがこんなことを書いています。「われわれの苦悩とわれわれの罪とのあいだの関連は、われわれの目には見えないけれど、なんと言ってもやはりそうした関連が現実に存在しているのである。『私の善に対して私は悪をもって報いられた。』 しかしもしあなたが善を行った相手を愛しているならば、愛していることであなたが受けた幸福によってすでにあなたは報いられているのである。」(トルストイ)
 愛をもって善を行ったのに、それが通じない。むしろ反対に悪意をもって応じられる。耐えられないようなことです。しかしトルストイは、「愛していることで受けた幸福によってすでに報いられている」と言います。たとえ愛した相手からなんの報いがなかったとしても、「愛する」ということにすでに幸福がある。これは、キリストなくしては成り立たないことです。
 愛するに値しない私たちを愛してくださるキリスト・イエスさま。私たちには真実の友がいます。それがイエスさま、その方です。