2025年7月20日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編92編13〜16
ヨハネによる福音書15章1〜10
●説教 「ぶどうの木」小宮山剛牧師
まことのぶどうの木
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」きょうのヨハネ福音書の5節でイエスさまはそのようにおっしゃっています。今日の聖書箇所は、聖書の中でもよく知られている箇所であり、また愛されている聖書箇所の一つです。また「ぶどうの木」は当教会の教会報の題名です。
今日のイエスさまのお話は、たとえとして語られています。まず、ぶどうの木ですが、イスラエルにはたくさん植えられています。逗子教会の駐車場にも鉢植えのぶどうの木が植えられていて小さな実を付けますね。日本ではぶどうというと山梨県が有名ですが、ぶどうの栽培はぶどう棚を作ってそこにぶどうの枝が伸びていく方法をとっています。しかしイスラエルでは棚は組まれておらず、せいぜい支柱を立てる程度です。
ぶどうは、まずぶどう酒、ワインを作るために植えられます。そしてまたイスラエルのワインはたいへんおいしいです。またそのほかに、干しぶどうにして保存食にします。そのようにイスラエルにとってぶどうはなくてはならない身近な作物です。ですからイエスさまがこのお話をなさったとき、聞いている弟子たちはすぐにぶどうの木の光景を思い浮かべることができたでしょう。そういう身近な素材を使って、イエスさまは弟子たちに語られています。
最初の1節で「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と言われています。イエスさまが「まことのぶどうの木」。ここでは「まことの」に強調点があります。すなわち、イエスさまは真実であり、その真実であるイエスさまが、ぶどうの木にたとえるとどういうことになるのかを語っておられます。
しかもこのたとえでは、イエスさまと弟子たち、すなわちイエスさまと私たちの関係について語っておられます。それが5節の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉です。イエスさまがぶどうの木であり、弟子たちが枝である。
旧約聖書では、イスラエルの民族がぶどうの木にたとえられることがあります。しかしそれに対してイエスさまは、ここでは1節で言われているように「わたしはまことのぶどうの木」であると言われます。つまり旧約聖書ではイスラエルがぶどうの木にたとえられてきたけれども、イエスさまと弟子たちが一体になったもの、これこそ「まことのぶどうの木」であると言われます。イエスさまと弟子たちが一体になったもの、それは教会のことです。今年度の逗子教会の主題は、「教会はキリストの体」ですが、まさにその教会です。それがぶどうの木にたとえられている。イエス・キリストに私たちがつながる。それは一体として見たときに「ぶどうの木」にたとえられるのです。
父なる神は農夫
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」この「わたしの父」とはもちろん父なる神さまのことです。そして2節に行きますと、その農夫である神さまがなさることを述べておられます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」
実を結ばない枝は父なる神さまが取り除かれる。私たちひとりひとりが枝であるとしたら、実を結ばない枝は取り除かれるということでしょうか? つまり私たちが実を結ばなければ、私たちが取り除かれるということでしょうか?
しかしこれは、枝を丸ごと取り除くのではなく、枝を刈り込むことです。なぜなら4節では「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われているからです。私たちがイエスさまにつながっていれば、イエスさまも私たちとつながっていてくださるからです。だから私という枝がイエスさまを信じているのに実を結ばないからといって取り除かれるということではありません。私たちが農夫である神さまによって、手入れをされる。枝の余分なところを取り除かれるのです。
以前、山梨県の勝沼のクリスチャンが経営するぶどう園をお訪ねしたことがありました。そこでいろいろ興味深いお話をうかがいました。その時に聞いたのは、ぶどうは新しいぶどうの枝に実を付けるそうです。その時、一つの枝にはぶどうの房を一つだけにして、あとは切ってしまうそうです。ですから一つの枝に一つのぶどうの房です。なぜそうするかというと、味をよくするためだそうです。
ここでイエスさまがおっしゃっていることもそうです。枝が伸びていってたくさん実を付ければいいじゃないかと素人は思うけれども、そうではない。良い実を結ぶために残りの部分は切ってしまう。そのように手入れをなさるんです。
枝を切って手入れをするというのは、私たちについてはどういうことでしょうか?‥‥私は思うんです。私たちに臨む試練や、艱難といったものがその一つであると。私たちは試練や艱難に遭いたくない。しかし私自身をふり返って思うんです。もし私が今まで試練や艱難に出会うことがなかったとしたら、私は神を信じるようにはならなかっただろうと。そして鼻持ちならない高慢な人間になっていただろうと。私は、死に直面して神さまを思い出しました。クリスチャンになってからも試練がありました。しかし試練があったからこそ、神さまに祈るということを学びました。また病気になって苦しんで、人の苦しみも分かるようになりました。牧師となってからも、壁に突き当たり、艱難に出会って、聖霊の力を知るようになりました。キリストに頼る尊さを学びました。振り返ってみると、試練や艱難に出会ったからこそ、へりくだることを学びました。神さまイエスさまのありがたさを知り、その力を知りました。
3節でイエスさまは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と言われています。イエスさまの御言葉によって、私は主の恵みを知りました。罪がゆるされていることを知りました。
どうすれば実を結べるのか
さて、ぶどうの実はどうやったら実を結ぶことができるのでしょうか? ぶどうの実は枝に付きます。枝ががんばって実を結ぶのでしょうか? ぶどうの実に限りません。逗子教会の花壇には夏みかんの木があって、最近多くの実が付きますが、枝ががんばっているようには見えません。
ぶどうは、枝が幹につながってさえいれば、おのずと実を結びます。つながってさえいればいいんです。つながっていれば、自然に水や養分が幹から供給されて実を結びます。がんばるんじゃないんです。幹につながっていればいいんです。
そしてイエスさまというぶどうの木につながるにはどうしたらよいのでしょうか?‥‥4節でおっしゃっています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」私たちがイエスさまにつながっているならば、イエスさまもつながっていてくださるんです。私たちがつながろうとしたのに、「あなたは罪深いからダメです」「あなたは穢れているからダメです」とは言われません。そういうことはイエスさまが十字架で全部ゆるし、清めて下さるからです。ですから私たちがイエスにつながっているならば、イエスも私たちにつながっていてくださる。つながるとはイエスさまを信じることです。キリストの体である教会につながることです。そして「豊かに実を結ぶ」と約束されています。
つながっていない枝
一方、つながっていないとどうなるのか?‥‥6節で言われています。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」
教会横の桜並木も、たまに地面に落ちている枝があります。車が接触して折れたんでしょうか。あるいは強風で落ちたのでしょうか。そうするとそれは枯れます。幹につながっていないからです。するとそれは処分するしかありません。
聖書を全部通して読むと分かります。神さまが極めて良くお造りになった人間が、神さまに背いて罪を犯し、死が入り込んだ。悪くなってしまった。だからそのままでは私たち人間は滅びるということです。暗黒の死に落ちこむ。そういうことが書かれています。しかしその悪くなってしまった人間、罪人となった人間、愛を失った人間を救うためにイエスさまが来られました。父なる神さまがイエスさまを遣わしてくださいました。そしてこのあとイエスさまは十字架にかかられて、私たち滅びる人間の身代わりとなってくださいました。そのせっかく私たちを滅びから救うために来られたイエスさまを信じなかったら、どうやって救われるというのでしょうか。
だからこの言葉は、イエスさまを信じてイエスさまというぶどうの木につながりなさいという招きの言葉です。
ぶどうの実
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)。
結ぶ実、その実とはなんでしょうか?‥‥このことについては、使徒パウロの書いたガラテヤの信徒への手紙が次のように書いています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22〜23)。なんともうるわしい、良い実です。しかし考えてみると、「えっ?この愛のない私が、愛という実を結ぶというの?喜びの少ない私が喜んでいるようになるの?平安のない私が、平安になるの?短気でイライラしてばかりいる私が平安に、そして寛容になれるの?人に親切にできない私が、親切になれるの?‥‥」と、そんなふうに不思議に思うことばかりです。
しかしこれはがんばってそうなりなさいと言っているでしょうか?‥‥「霊の結ぶ実」と書かれています。聖霊が私たちに働いて結ばせてくださる実です。イエスさまというぶどうの木につながって、聖霊が私たちに働いて、このような実を結ばせてくださる。信じられないような話ですけれども、楽しみにすることができます。信じて良いと聖書は言っています。
ところで、実はなんのためにあるのでしょうか?‥‥ぶどうの実で言えば、ワインにするためであり、干しぶどうにするため。すなわち、食べたり飲んだりするためです。他人がです。言い換えれば、人々の役に立つために実を結ぶと言えます。そして8節でイエスさまはこうおっしゃっています。「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」
父なる神さまは、私たちがそうなることを心から願っておられる。しかし、この私たちが神さまの栄光を受けるように用いられることなど、ありえないように思いますが。この罪人であり、失敗ばかりしてきた私が、どうして神さまが栄光を受けるようになることができるのでしょうか?
ノンフィクションライターの最相葉月さんが出された『証し・日本のキリスト者』の中に書かれていることを一つご紹介します。それは奄美大島のカトリックのクリスチャンのご婦人の証しです。彼女は小学生の時に教会に通うようになりました。貧しくて遊ぶ場所もなかったので、子どもたちはよく教会で遊んだそうです。そして教会に遊びに行くうちに洗礼を受けたそうです。小さい頃からよく聞かされていたのは、人を愛しなさいという言葉でした。やがて成人して結婚した夫のお父さんが再婚して商売を立ち上げたそうです。その再婚相手、つまりこの人のお姑さんはキリスト教が嫌いな人でした。それで家の目の前に教会があるのに10年間教会に行けなかったそうです。しかもお姑さんは彼女をいじめたそうです。また彼女は子どもを2人亡くしたそうです。
やがてお姑さんは糖尿病を患い、2年間入院生活を送ったそうです。店は娘に任せて、お姑さんの実の娘と交代で病院に泊まり込んだこともあったそうです。そしてこう書かれています。‥‥"「もし、ばあちゃん(お姑さん)の手足が立たなくなっても、私が手となり足となって奉公してあげようと思ってたんだよ」っていったんです。そうしたら、だまーってね。夜泊まるときは、ロザリオの祈りを唱えながら、この人の罪をお赦しくださいって祈り続けたんです。そうしたらある晩、眠る前に手を合わせて、ばあちゃんがいったんです。「神様、私はこの娘をいじめて、いじめて、いじめ抜いてきた、この娘を病気にさせないでください」って。三回いったんです。ああ、この人は信仰を持つ人だと思ったの。自分の罪を最後に告白できた。これまでのことが全部流れ落ちました。私にとってはおっきな奇跡でした。"
そしてお姑さんの葬儀を済ませて、すぐに教会にかけ込んだそうです。教会に行けなかった間も祈りは忘れなかったそうです。そしてこう書いています。「いろんな困難を乗り越えて生きてきたから、信仰の恵み、信仰の力が私を助けてくださった。」
これは良い実を結んだのではないでしょうか。聖霊が良い実を結ばせてくださったのではないでしょうか。祈りがかなえられたのではないでしょうか。
7節の言葉、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」このみことばが、真実であることを思わせてくれます。
イエスの愛の内に留まる
9節でイエスさまがおっしゃっています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」
「わたしの愛に留まりなさい」「わたしの愛の内に留まりなさい」と主は言われます。ぶどうの木につながる。それはキリストの愛の内に留まることです。キリストの愛の中で生きる。聖霊が結ばせてくださる実に希望をもって歩みたいと思います。