2025年7月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 詩編55編17〜19
    ヨハネによる福音書14章25〜31
●説教 「恐れのない世界」小宮山剛牧師
 
 アメリカ大リーグのドジャースの大谷翔平選手の活躍のニュースを楽しみにしている方も多いと思いますが、その大谷選手が大リーグに挑戦するときに記者会見で言った言葉があります。「いいことも悪いことも、最終的に自分にとってプラスになると解釈している」と言ったそうです。たいへん前向きな言葉だと思います。そして大谷選手はその通りに歩んできているなと思います。
 聖書にも同じような言葉があります。(ローマ8:28)「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。私たちの神さまは、すべてをプラスになるようにして下さると言うことですね。そうすると、試練にも意味があるということになります。大谷選手の言葉から聖書の言葉を思い出したという次第です。
 
   聖霊到来の約束
 
 さて、今日の聖書箇所の27節で、イエスさまはふたたび「心を騒がせるな」とおっしゃっています。この章の最初でもイエスさまは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とおっしゃいました。
 なぜイエスさまが「心を騒がせるな」とおっしゃったか。それはイエスさまご自身が弟子たちのもとを去っていくことをお話しになったからです。イエスさまと一緒でなければ何もできない弟子たちにとって、イエスさまが去って行かれることは想像もつかないことでした。それで心を騒がせる弟子たちに対して、「心を騒がせるな。おびえるな」とおっしゃいました。
 なぜ心を騒がせる必要がないのか?‥‥それは、イエスさまは去っていくけれども、代わりに聖霊なる神さまがお出でになるからというのです。それが28節で言われる「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」ということです。イエスさまご自身は、この世を去って行かれるけれども、代わりに聖霊なる神さまが来てくださる。聖霊なる神さまがいらっしゃるということは、イエスさまが戻ってこられるということと同じ。しかもイエスさまを信じる者すべてと共に聖霊はいてくださる。すなわちイエスさまはいてくださる。これは喜ぶべき事ではないか。そう言われるのです。
 今日の聖書箇所の最初、25節では「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」とおっしゃいました。今までわたしが語ってきた言葉ということですね。それらは過去の言葉ではないと言われます。それが26節です。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
 今までイエスさまがあなたがたに語ってきた言葉は、イエスさまがいなくなったら意味がなくなるような言葉ではない。遺言のようなものでもない。イエスさまの代わりに父なる神さまが送ってくださる助け主、すなわち聖霊によって引き続き真実となる言葉なのです。聖霊がイエスさまの言葉を思い起こさせてくださり、それが変わらぬ約束であることを保障して下さるのです。聖霊によってイエスさまの地上でのお働きが継続される。イエスさまが共にいてくださるということです。それで、聖霊なる神さまによって、現代の私たちにもイエスさまの言葉は真実となり、その約束も真実となります。聖霊は目には見えませんが、たしかにおられる。それは信じるということです。
 一昨年、私は心筋梗塞で救急車で運ばれ、一命を取り留めたわけですが、術後は最初は集中治療室で絶対安静を命じられました。そして次はその近くの部屋に移され、次にはナースステーションから遠い一般病室へ移されました。それは順調に経過しているからなのですが、入院中は常に小さな携帯用の心臓の状態を無線でモニターできる装置(なんという名前なのか分かりませんが)を体に取り付けていたんですね。しかし退院するときはもちろんそれは取り外されます。そうすると、それまでずっとあったものがなくなるわけで、そうするともちろん異常があってもそれはナースステーションに情報が行くわけではなくなります。それを考えると少し不安を覚えました。しかし、「ああ、イエスさまが共にいてくださることを信じるというのは、こういうことなんだなあ」と、あらためて思いました。イエスさまが共におられる。そこに平安があることがあらためて分かりました。
 
   平和
 
 あなたがたはわたしが去るからといって心を騒がせる必要はない。父なる神が代わりに聖霊を遣わしてくださるからだ。そのようにイエスさまは言われました。それが言葉を変えて言えば、27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」「平和」です。
 ギリシャ語の「平和」という言葉は「平安」とも訳すことができます。日本語では「平和」というと、国際関係が平和であること、また互いの人間関係が平和であることを意味し、「平安」というと、心の中の穏やかな状態を意味します。ギリシャ語ではその両方を意味します。
 しかしイエスさまはこのとき、当時の地中海世界の国際共通語であるギリシャ語でお話しになったのではなく、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語(またはアラム語)でお話しになったに違いありません。それがギリシャ語の「エイレーネー」という言葉に訳されているわけです。そうするとイエスさまは本当は何とおっしゃったのかということになりますが、それはおそらくヘブライ語で「シャローム」という言葉を使われたに違いありません。シャロームという言葉はどこかでお聞きになったことがあると思いますが、ユダヤ人が日常的に使っている挨拶の言葉です。朝でもシャローム、昼でもシャローム、夜でもシャロームと言います。便利な言葉です。しかしその言葉の本当の意味は、いわゆる「平和」とか「平安」の言葉のイメージをはるかに超えます。それは神が与えてくださる本当の幸福のことです。この世の平和とは違うんです。
 この世の平和というのは武力による平和です。「ローマの平和」という有名な言葉がありますね。ローマの平和というのは、ローマ帝国に皇帝が即位してから約200年ぐらいの間の時代を言います。ラテン語で「パックス・ロマーナ」と呼ばれます。それは地中海諸国を征服して支配したローマ帝国の軍隊による平和です。たしかにローマ帝国によって占領された国の民族はおもしろくなかったかもしれませんが、しかし帝国内で戦争がなくなったことは、多くの人々にとっては、やっと戦争がなくなって暮らすことができるという意味では喜ばしいことでした。生きていくことがまず大事だからです。
 そして「すべての道はローマに通ず」という言葉が生まれました。道路網が整備されたんです。広いローマ帝国の各地から首都ローマに通じる道路です。その道路はローマ軍が各地に急行できるように作られましたが、同時にその道路網が整備されたことによって商業が発展しました。つまり安全に人が国々を行き来できるようになりました。そしてローマ帝国内の共通語としてギリシャ語が広がりました。言葉だけはローマ人の話すラテン語ではなく、ギリシャ語が広まりました。
 実はキリストの福音がローマ帝国内でどんどん広がっていった背景もそこにあります。新約聖書がユダヤ人の言葉であるヘブライ語ではなく、ギリシャ語で書かれたのも、初めからローマ帝国内に宣べ伝える目的をもって書かれたのです。そして「すべての道はローマに通ず」の道路網を使って使徒たち、弟子たちがキリストの福音を各地に宣べ伝えていきました。しかも帝国内には民族間の戦争もなくなったので、以前に比べれば安全にです。
 マルコによる福音書によると、イエスさまの宣教の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。時は満ちた、とおっしゃったんです。それは奇しくもイエスさま降誕前に成立した「ローマの平和」が実現したのとちょうど時が重なります。「時が満ちた」とイエスさまがおっしゃった時、それは神が定めたときが満ちたという意味でおっしゃったのですが、それは世界の歴史上で見ても時が満ちたものでありました。
 しかし「ローマの平和」は、あくまでも力による平和です。イエスさまが与える平和は、この世が与える平和とは違うとおっしゃっていますが、この世が与える平和は、残念ながら武力による平和です。真の平和ではありません。今日の世界と同じです。人間が罪人だからです。愛が足りないからです。
 
   キリストの与える平和
 
 しかしイエスさまが「わたしの平和を与える」といわれたとき、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言われました。その「平和」とは、先ほど申し上げたように「シャローム」という言葉です。そのシャロームとは、単なる平和、平安に留まりません。「シャローム」という名詞の語源は、「全き」という形容詞や、「完成する、無傷に保つ」という動詞の名詞形の意味です。すなわち、穢れが清められる、いのちを取り戻す。もっと言えば、神が創造された時の輝きを回復されるということです。神さまが最初に人間をお造りになった、罪人となる前の状態、何もかも極めて良かったと言う状態の回復を目指すものです。それが究極の平和であり、平安であり、シャロームです。それは、この世が与えることができないもの、ただ神だけが与えることのできるものです。
 そしてそれは、一夜にして与えられるようなものではありません。イエスの働きの続きとして聖霊なる神さまが弟子たち、私たちの所に遣わされる。イエスさまの働きが継続されるんです。その聖霊によって私たちが、本来の人間の姿に変えられていく。変えられていくんです。未来に向って。神への信頼、喜びと感謝、希望と平安が増し加えられていくんです。キリストと似た者へと永遠に成長していくんです。それが「シャローム」の表しているものです。
 現在この聖書台にかかっているカバーの色は緑色です。典礼色では緑は、シャロームを表します。そのシャロームの目的を成し遂げるために、イエスさまは去って行かれますが、代わりに聖霊が遣わされる。それでイエスさまは、28節「わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」とおっしゃいます。
 
   ここから出かけよう
 
 30節「世の支配者が来る」とおっしゃっています。この「支配者」という言葉は単数形になっています。つまり「支配者たち」ではなく「ひとりの支配者」。ですから、これはサタンのことを指しています。サタンにそそのかされた人々が、イエスさまを捕らえに来る。十字架にかけるために。しかしイエスさまは続けておっしゃいました。「だが、彼はわたしをどうすることもできない。」
 サタンはイエスさまをどうすることもできない。たしかに、イエスさまを捕らえさせて十字架につけさせるけれども、それはイエスさまの目的を阻止することではない。いや、むしろ反対にイエスさまによる私たちの救いを成就することになります。ですから、イエスさまが私たちを救うという働きを、世の支配者はどうすることもできないのです。イエスさまの救いは妨げられない。イエスさまの愛を妨げることはできないのです。
 31節でおっしゃいました。「さあ、立て。ここから出かけよう。」 Let's Go!と言われました。イエスさまを十字架につけるために手ぐすね引いている人々の所に、あえて向かって行く。それはつまりこういうことです。「神の子が何をするか、どうなるかを見届けなさい。そのためにここから出かけよう」「わたしが行くのは、今述べたことのためだ。シャロームのためだ。これから神の愛が輝くのをしっかりと見ていなさい」。
 十字架に向かうことによって切り拓かれる救い。ご自分の死によって、私たちにほんもののシャロームを与えられる。キリストの愛があふれています。
 「さあ、立て。ここから出かけよう。」‥‥私たちも礼拝を終えて、またこの世の中に出かけて行きます。お気づきの方もいるかと思いますが、先週から礼拝が終わって玄関から帰られる方に、私はあいさつの言葉を変えました。それまでは「さようなら」とか「お元気で」と言っていたのですが、先週から「いってらっしゃい」ということにいたしました。以前当教会のウェルカム礼拝にお招きした小林克哉牧師が、そのように言っていることを思いだしたのです。「さようなら」というと普通の別れのあいさつです。しかし「いってらっしゃい」というのは、帰ってくるのを前提にしていますね。
 教会は神の家です。そして、礼拝の最後は祝祷です。その祝祷は、礼拝が終わって、神の家である教会からこの世に派遣される時の祝福の言葉です。つまり教会が神の家で、そこから世の中に派遣されるという形です。そして一週間してまた礼拝という神の家に戻ってくる。そうするとたしかに礼拝が終わって帰るときに「いってらっしゃい」というのがいいなと、あらためて思ったという次第です。
 礼拝が終わって、世の中に派遣される。それは一人で出ていくのではありません。弁護者であり助け主である聖霊なる神さまと共に出かけて行くのです。すなわち、イエスさまと共に出かけるのです。「さあ、立て。ここから出かけよう」とおっしゃるイエスさま。共に行ってくださるんです。ひとりぼっちではありません。私たちは、「主よ、共に行ってくださることを感謝します」と言うことができるんです。心から「シャローム」と言うことができます。