2025年7月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 エゼキエル書36章26
    ヨハネによる福音書14章16〜24
●説教 「神とわたし」小宮山剛牧師
 
   愛について
 
 本日のヨハネによる福音書の聖書箇所には「愛」という言葉が7回も出てきます。「愛」抜きに語ることができないのが今日の聖書箇所です。しかし、こう言ってはなんですが、実は私は「愛」について語るのが苦手なんです。そういうと「牧師のくせになんだそれは」と言われそうですが、本当です。
 もちろん、聖書で言う「愛」とは何かということを、客観的に説明することはできます。たとえばここで使われている「愛」は原文のギリシャ語では何かとか、あるいは「愛」という言葉が辞書ではどう説明されているかとかですね。またここで言う「愛」が男女間の恋愛のことではなく、人格的なものであることだとか、聖書では愛はもっとも大切な徳目であるとか‥‥そういった客観的なことは説明できます。
 しかしでは「愛」というものがお前は分かっているのか?と聞かれたとすると、全く自信がありません。たとえば同じヨハネが書きましたヨハネの第一の手紙にはこう書かれています。(Tヨハネ 4:18)「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」
 愛には恐れがないというのです。完全な愛は恐れを締め出すと書かれています。そんな「完全な愛」が自分にあるかと言われれば、「ありません」としか答えようがありません。そもそも「完全な愛」というものが分かっているかと言えば、分からないのです。私たち人間はみな罪人です。ジョン・ウェスレーによれば、罪とは愛のないことをいうわけですから、私たちは誰も完全な愛ではないことになります。
 もちろん、電車に乗って座っていて、お年寄りが立っていたら席をゆずることぐらいはしてきました。今はゆずられる側になりましたが。また道端で困っている人がいれば「どうしましたか?」と声をかけるぐらいのことも普通にできます。しかしそれらは言わば小さな親切というものであり、「完全な愛」と言われると、「ない」としか答えられません。
 そもそも「なにが愛か?」ということだって、人によって考え方が違うと思います。もうずいぶん前の話になりますが、「情けは人のためならず」ということわざがありますね。このことわざの解釈が世代によって違うということが話題になったことがありました。「情けは人のためならず」ということわざのもともとの意味は、「人に情けをかけておくと、巡り巡って結局は自分の ためになる」という意味のはずです。ところが若い世代は別の意味にとっている人が多いというのでした。どういう意味にとっているかといえば、「人に情けをかけても、その人のためにならない」という意味にとっている若者が多いということで、驚きと共に話題となったことがありました。
 たしかに人間というものは経験からしか学べませんから、愛とか情けとかいわれても人それぞれ受け取り方も考え方も違うことになるでしょう。また時代によっても変わってくるものがあるでしょう。
 三浦綾子さんが、エッセイの中で次のようなことを書いておられました。‥‥ある主婦の身上話を聞いたそうです。この人は、男二人、女二人の兄弟の末っ子だったそうです。彼女の母が病弱なため、家が貧しく、 一度も新しい服を買ってもらったことがない。いつも姉のお下がりばかり着せられて育ったと涙をこぼしたそうです。しかし三浦さんは、話を聞いていて、一向に同情を憶えなかったそうです。なぜなら三浦さん自身が十人兄弟の五番目に生まれ、いつも姉のお古を着て育ったのだけれども、別段、姉を羨しいとも自分をみじめだとも思わなかった。だから、彼女が、なぜそんなことで涙をこぼすのかと、いささか苦々しくもあり、甘ったれているとも思ったそうです。しかしそこで三浦さんはハッとした。それは「わたしと彼女は『お下がり』を着て育ったという点では、共通の経験を持っている。だから、わたしも彼女も同じ経験をしたと思ったのだが、果たして、それは同じ経験であったのだろうか。同じ経験というのは、あるいは、この世にないのではないかと、気づいたのである。つまり、わたしの経験と、彼女の経験は似てはいるがちがう。何がちがうか。経験した人の性格、生き方がちがうということである。‥‥そのように書いておられます。(『丘の上の邂逅』小学館刊)
 「愛」ということも、そういう難しさがあります。どういう愛をうけたかによって愛に対する考え方やイメージが違ってしまう。自分の経験と他人の経験は違っています。自分自身も愛についてどれだけ知っているかといえば、わかりません。
 もう一つ愛について語ることの難しさは、イエスさまのおっしゃる愛を実行することの難しさにあります。この最後の晩餐の席で、すでに読んだところですが、イエスさまは弟子たちに対して「新しい掟」を与えられました。それは、(13:34)「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」‥‥ということでした。イエスさまが弟子たちを、私たちを愛されたように、あなたがたも互いに愛し合えと言われる。イエスさまの究極の愛は、十字架にかかってご自分の命を投げ打って私たちを救われたという愛です。命がけの愛です。私たちがそのような愛を実行するというのは、とてつもなく難しいことです。だから私たちは、「イエスさまが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合おう」などと、軽々に言えない。そういう難しさがあります。それで「愛」について語るのが苦手ということになります。
 
   神とイエスさまと私たち
 
 そこで21節を見てみます。イエスさまはこうおっしゃっています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」すなわち、イエスさまを愛する、ということをおっしゃっておられます。
 そこで、今日の聖書箇所には、「愛」という言葉が7回出て来ると申し上げましたが、誰が誰を愛することについて書かれているかを分析してみたいと思います。そうしますと
 @「わたしを愛する」「わたしを愛さない」‥‥イエスを愛する・愛さない‥‥4回
 A父(神)がその人を愛する‥‥2回
 Bイエスがその人を愛する‥‥1回
つまり、私たち同士の愛について言っておられるのではなく、父なる神さま、またはイエスさまと弟子たち(私たち)の間の愛について言っておられることが分かります。神さまが私たちを愛する、イエスさまが私たちを愛する、そして私たちがイエスさまを愛するということです。神さま・イエスさまと私たちの関係です。その愛の中に生きよ、とおっしゃっています。
 わたしたちが神さまとイエスさまを愛する愛は、まことに不十分なものです。しかし神さまとイエスさまが私たちを愛する愛は、確かなもののはずです。そして私たちは、その神さまとイエスさまの愛を受けたいと思う。本当にそう思う。それは事実であり真実です。だから、その神さま、イエスさまの愛が私たちに与えられていることを教えていただくのが先ということになります。
 
   孤児にはしない
 
 21節でイエスさまは弟子たちにおっしゃいました。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。」
 イエスさまに対する愛。しかし弟子たちはこのあとどうしたでしょうか?‥‥このあとイエスさまは弟子たちを伴って、ゲッセマネの園に行かれました。祈るためにです。そこでイエスさまは、祭司長やファリサイ派の遣わした下役たちによって捕らえられました。そのイエスさまを捕らえるために下役たちを先導してきたのが、イエスさまの弟子であるイスカリオテのユダでした。その時弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げて行ってしまいました。またペトロは、イエスさまが連れて行かれた先の大祭司の邸宅にこっそり行きましたが、「あなたもイエスの仲間だ」と言われて「そんな人は知らない」と言って3度もイエスさまを否認しました。
 このように、弟子たちはイエスさまを裏切り、見捨てました。イエスさまは「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される」とおっしゃったのにもかかわらず、イエスさまを見捨てて裏切ったのです。愛がない。いや愛がないとは言わないまでも、イエスさまのおっしゃる愛からはほど遠いに違いありません。
 先にイエスさまはペトロがイエスさまを否認することを予告なさっていました。つまりそういう弟子たちであることを、ご存じでありました。ご存じの上で、18節でこのように言っておられます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」
 戻ってこられるということは、いったん行ってしまわれるということです。どこに行かれるかと言えば、十字架です。十字架に行かれる。そして死なれる。しかし復活してまた弟子たちの所に戻ってこられる。イエスさまを裏切り、見捨てた弟子たちの所に。神に対する愛、イエスさまに対する愛の足りない弟子たちの所に戻ってこられる。「あなたがたをみなしごにしておかない」と言われます。イエスさまがいなければ、親のいない子どものような寂しさを味わうことになる。そんなに弱い弟子たちであることをご存じで、イエスさまに対する愛の足りない弟子たちの所に戻ってこられると言われます。
 さらに「戻ってくる」というのは、復活のあとイエスさまは天に帰られるわけですが、そこから戻ってこられることも同時に語っておられます。それは世の終わりの再臨のことではなく、ペンテコステの聖霊降臨のことをも指しています。16節で言っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたと一緒にいるようにしてくださる。」
 「弁護者」は「助けぬし」とも訳すことができます。弟子たちの、私たちの助け主を送ってくださる。それはなにかというと「真理の霊」であると17節で言われています。真理の霊とは聖霊のことです。さらに19節でおっしゃっています。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」
 イエスさまは復活されたあと天国に昇られますが、それで私たちの所からいなくなられるのではない。代わりに父なる神さまが、真理の霊と呼ばれる聖霊を送ってくださる。そして聖霊が来られるということは、イエスさまが戻ってこられるということと同じことなのです。なぜなら、(20節)「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」
 聖霊が私たちと共におられるということは、イエスさまが共におられるということです。そしてイエスさまが共におられるということは、父なる神が共におられるということでもある。それが三位一体の神ということです。この愛の足りない私たちと共に生きられる神さまです。
 
   イエスのなさった業の続きをする教会
 
 前回の12節で、イエスさまは、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」とおっしゃいました。その「大きな業」というのは、イエス・キリストのことを宣べ伝えてイエスさまを信じる人が現れてくるということです。キリストの体である教会が建てられていくということです。そのための助け主、すなわち弁護者が聖霊なる神さまです。
 ヨハネによる福音書が書かれたのは、1世紀末のローマ皇帝によるキリスト教会への迫害が始まった時代です。まだまだ少ない教会は、皇帝による迫害によってなくなってしまうかとも思われたことでしょう。しかしイエスさまはキリスト者の群れをみなしごにしてはおかないで、助け主である聖霊なる神さまを送られました。それはただ今申し上げたように、イエスさまが共におられるというのと同じことです。
 そして教会は迫害の中で成長していきました。聖霊の働きがあったのです。聖霊を通してイエスさまが働かれたのです。奇跡を現してくださったのです。そのようにして、イエスさまの約束がたしかであったことを示されたのです。
 もう亡くなりましたが、ラジオ牧師と言われた羽鳥明先生は、愛についてこう言っておられます。「私たちがひとりぼっちでいる時、いちばんよく考えるもの、それがあなたの一番愛しているものではないでしょうか」。少なくとも、私たちの主イエスさまが私たちのことを愛しておられるという時、神さま、イエスさまは私たちのことを一番よく考えておられるに違いありません。
 イエスさまが私たちを愛し、私たちを最善の道を歩むよう導かれていることを信じたいと思います。
 このあと聖餐にあずかります。これこそイエスさまがご自分の身を私たちに献げてくださったしるしです。そして私たちと共におられるしるしです。感謝をもって受けたいと思います。