2025年6月29日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 箴言3章34
    ヨハネによる福音書14章12〜15
●説教 「かなえられる祈り」小宮山剛牧師
 
   祈りへの招き
 
 本日は短い箇所ですが、やはりここで区切って読んだほうが良いと思いました。とくに私たちの注目を集める言葉は、13節14節の言葉ではないでしょうか。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
 イエスさまの言葉です。しかもこれは約束です。イエスさまのお名前によって父なる神さまにお願いするならば、何でもかなえていただける。‥‥なんという力強い約束でしょうか。たいへんすばらしい言葉です。これが本当なら、私たちの人生は無敵になるように思えます。
 しかし一方では、実際に祈り願っても、そのようにならないことが多い。そのように思われる方は多いと思います。それはいったいどうしてだろうか? そんな疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。そういう期待と疑問の入り交じったような思いを抱えながらでもけっこうです。今日もイエスさまのみことばに耳を傾けてまいりましょう。
 
   もっと大きな業
 
 前回の聖書箇所を11節で区切り、きょうの聖書箇所を12節からといたしましたのは、適当に区切ったのではありません。12節の冒頭に「はっきり言っておく」とおっしゃっています。「はっきり言っておく」と言われると、なんだか叱られているみたいに感じるかもしれませんが、すでに何度も申し上げているわけですが、本当は「アーメン、アーメン、わたしは言う」と原文には書かれています。これをもっと日本語に近づけて訳すとすると、私なら「そうだ、たいせつなことを言っておくよ」と訳すでしょう。
 そしておっしゃったことが、「わたしを信じる者は、わたしが行う業(わざ)を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」ということです。イエスさまを信じる者は、イエスさまのなさっている業を行うばかりか、もっと大きな業を行うようになると言われます。ということは、イエスさま以上の存在となるということでしょうか?
 この「業」という言葉は、ギリシャ語では「仕事」とか「行い」、あるいは「仕事によって生み出された結果」とか「作品」のことを指す言葉です。そうすると、最大の業、行いは、イエスさまが十字架にかかられて私たちを救われたということ以外の何ものでもありません。その十字架以上の業はありません。しかしここでイエスさまがおっしゃっていることを考えると、ここでは、そのイエスさまの十字架の救いを土台にしてなされる業、ということになります。これからイエスさまがかかられる十字架を前提にしての話です。
 そうすると、それ以上の業とは何か? それを考えるときに、まずイエスさまがこの世に来られた目的を考えてみるとわかりやすいと思います。そうすると、このヨハネによる福音書3章16節が思い起こされます。そこにはこう書かれていました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 これが神さまが、独り子イエスさまをこの世に送ってくださった目的です。独り子であるイエスさまを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るということです。すなわち、イエスさまを「信じる」ようになるためです。
 その視点で考えますと、どうでしょうか。ヨハネによる福音書を振り返ってみても、これまでイエスさまは多くの「しるし」すなわち奇跡を行ってこられました。それでイエスさまを信じる人がおおぜい出てきました。しかしイエスさまが肝心なことをお話しになると、多くの人が去るということを繰り返してきました。
 そしてイエスさまがいよいよ最後の一週間のためにエルサレムの都に入られるときには、多くの群衆がイエスさまを歓迎しました。イエスさまが救い主であると信じて、大歓迎しました。しかしイエスさまが捕らえられて十字架に向かわれるときには、その大群衆の姿は消えることとなります。代わりにイエスさまをののしる人々が現れます。
 この福音書の12章37節には、イエスさまのこの世における働き、すなわち業の結果どうだったかということが書かれていました。「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」
 結局人々はイエスさまを信じなかったとまとめて書かれているんです。しかしそのすぐあとにはたしかに次のように書かれていました。(12:42〜43)「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」
 信じた人々もいたが、公に言い表さなかった。‥‥ローマの信徒への手紙10:10には「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と書かれています。しかしこのイエスさまを信じたというユダヤ人議会の議員さんたちは口で告白しなかった。それは救われたとは言えないということになります。
 弟子たちはどうでしょうか? イスカリオテのユダに裏切られました。このあと出かけたゲッセマネの園でイエスさまが逮捕されたときには、みなイエスさまを見捨てて逃げて行きました。こっそりあとをついていったペトロは、イエスさまのことを知らないといってイエスさまを裏切り、見捨てました。
 このようにしてみると、イエスさまは弟子たちからは裏切られ、見捨てられ、また人々からも見捨てられ、あるいは信じるということに至らずという結果になったことが分かります。イエスさまは人々の救いのために働かれたのに、目に見える結果は出せなかったということになります。惨憺たる結果のようです。
 しかし現代、つまり今はどうでしょうか? 世界中にキリスト教会が建っています。教会はキリストの体です。この逗子にも、富山にも、震災の地、能登にも建っています。そしてイエス・キリストを信じる群れがあり、主を礼拝しています。これをずっとさかのぼれば、最初の教会、そうです、ペンテコステの聖霊降臨にさかのぼります。そして聖霊をいただいたキリストの使徒たち、弟子たちがキリストの福音を世界に宣べ伝え始めた結果です。イエスさまがおっしゃった「もっと大きな業」というのはこのことを指していると言えるでしょう。つまり、イエスさまを信じるものが次々と現れる。そのために弟子たちが、そして私たちが用いられるということです。
 もう一度12節を見てみましょう。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」
 イエスさまが父なる神のみもとへ行かれるからだとおっしゃいました。父なる神のみもとへお帰りになる前に、イエスさまの十字架がありました。そして復活がありました。そのゆえです。イエスさまの救いの結果です。そして聖霊が弟子たちに注がれて、世界中に福音が宣べ伝えられました。大きな業です。
 
   なんでもかなえる約束
 
 そして13節に続きます。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。」
 しかし最初に申し上げたように、実際には、わたしたちが祈ったようにかなえていただけることばかりではないように思われます。
 そこで考えてみなくてはならないことは、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とイエスさまがおっしゃった言葉は、何でも私たちの思い通りにしてくださるということか?ということです。もしそうだとしたら、「アラジンと魔法のランプ」の物語のようになってしまうでしょう。アラジンが魔法のランプをさすると魔神が現れ、願い事を何でもかなえてくれるという‥‥。イエスさまはその魔神のようになってしまいます。すなわち、私たちが主人であり、イエスさまが魔神、召使いのようになってしまいます。これは本末転倒です。イエスさまは私たちの主、主人だからです。
 では次に、イエスさまを信じることの目的はなんでしょうか?‥‥今日の聖書の13節ではこのようにおっしゃっています。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」
 父なる神さまが、子であるイエスさまによって栄光を受けるためであると言われます。私たちは様々な願いを持ちます。しかしその願いが神さまが栄光を受けることにならない願いもあります。たとえば極端な話ですが、泥棒が空き巣に入るときに「神さま、うまく盗むことができますように」と祈ったといたします。この祈りはかなえられるでしょうか?‥‥かなえられないことは、言われなくても分かります。神さまが栄光を受けることにならないからです。そうすると、何でもかんでも願い事はみなかなえられるということではないことが分かります。そうすると、何が神さまが栄光を受ける結果になるのかということを考えるようになります。
 前回、イエスさまが「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃったところを読みました。イエス・キリストは道です。真理である神に到達するための道です。永遠の命へと続く道です。神さまは私たちをそこへ導こうとされます。
 そうすると、私たちの願いがかなえられるという時、それはむしろ私たちに対する神さまの願いがかなえられるためにこのように言われたに違いありません。礼拝で毎回祈っている「主の祈り」も、前半は神さまの願いを祈る祈りになっています。そして先ほども示しました、この福音書の3:16の言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 神さまの願いは、私たちがイエスさまを信じて救われることです。そして神に到達し、永遠の命を受け取ることです。これがもっとも良いことであります。それが「父は子によって栄光を受ける」ということです。イエスさまが自らの命を投げ打って、私たちを救ってくださった。その十字架の結果が現れることです。
 
   イエスの掟
 
 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
 この約束は、弟子たちに向かって語られました。イエスさまを知らない人に向かっておっしゃったのではありません。そして今日15節まで読んだ理由は、15節まで一続きだと思うからです。(15節)「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」。
 「わたしの掟」とはなんでしょうか? それは13章34節です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」です。この言葉があってこその、イエスさまの約束です。‥‥互いに愛し合う。イエスさまがお与えになった、この新しい掟を無視してはならないのです。互いに愛し合うことにならないような祈り願いは、かなえられないのです。「そのことは知っているでしょ」とイエスさまは念を押しておられるように思います。
 しかし互いに愛し合うような結果になる祈り願いであれば、なんでもかなえてあげよう。互いに愛し合うようになるならば、それは父なる神さまが、子なるイエスさまによって栄光をお受けになる。
 わたしは今まで多くの祈りをかなえていただきました。一方、かなえられていない祈り願いもありました。それらを思い起こしました。かなえられた祈り願いには、一見自分の一方的な願いを祈ったのであって、愛することとは関係ないように思われる願いもありました。しかしその願いがかなえられた結果、やはり愛するということ、さらに互いに愛するということへと導かれました。イエスさまの言われたとおりだと思いました。
 一方、愛をもって祈り願ったのに、かなえられていない祈り願いもありました。しかしそれは、まだかなえられていないように見えるだけかもしれないと思いました。神さまのご計画の中で、かなえられるときが来るのだと思います。
 今日のみことばに励まされて、祈りを熱くする者でありたいと思います。そして主の業、奇跡を目撃する証人になりたいと思います。