2025年6月22日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記2章9
ヨハネによる福音書14章1〜11
●説教 「信じる世界へ」小宮山剛牧師
道・真理・命
6節のイエスさまの言葉、「わたしは道であり、真理であり、命である」。この言葉は、よく知られている、非常に印象的な言葉です。イエスさまは、ご自身が「道」であり「真理」であり「命」であるとおっしゃいます。
「道」という言葉。これは日本人にとってなじみの深い、そして意味のある言葉です。たとえば柔道、剣道、茶道、華道、武士道‥‥といったものは、みな「道」という言葉がついています。道という言葉がつきますと、たとえば「柔道」は単にオリンピック種目でもあるスポーツとしての柔道、つまり試合に勝った負けたというということに目的があるのではなくて、それ以上の目的を持っているものと理解されます。茶道もそうです。単においしくお茶を点てることに目的があるというよりも、お茶を点てるということを通してそれ以上の意義を見出そうとしています。
「武士道」ということを世界に広めたのは、かつて5千円札にもなったキリスト者の新渡戸稲造です。現代では、数年前に亡くなられた笹森健美(ささもり・たけみ)先生がいます。笹森先生は、駒場エデン教会の牧師でありながら剣道の小野派一刀流の第17代宗家を務めた人です。剣術家でありながら牧師を務めたという人は他にはいないと思います。笹森先生ご健在の頃は、駒場エデン教会では礼拝が終わると机やイスが片付けられて、約30名の門下生が剣を振るう道場へと変わったそうです。その笹森先生は新潮社から『武士道とキリスト教』という本を出しておられます。
その中に書かれていることですが、あるときあるキリスト教主義学校から相談を受けたそうです。それは、学校に剣道部を作るという話がもちあがり、先生方からこのキリスト教主義学校内で武道をやってもいいのかと疑問の声が寄せられたということでした。それで笹森先生は学校に出向き、「こういう理由で矛盾しません。むしろ驚くべき共通点、類似点があるのです」と語られたそうです。その結果、剣道部が設立されることになったとのことです。先生は言われます。「たしかに武士道は規範や心得であり、キリスト教は宗教という大きな違いはあります。ただ、どちらも人の死に方、生き方を真剣に問う『道』です。そしてともに、死を前提にした生を考え、死の後にある生を教えています。言い換えれば、どちらもいかに死ぬかによって生を見つめ、いかに生きるかによって死を追求しているのです。」
ただいま水曜日の聖書を学び祈る会では、旧約聖書の「箴言」の学びに入ったところです。「箴言」は人生訓や処世訓を記したものであると言われますが、いやいやどうして、そんな浅いものではありません。先週の聖書を学び祈る会では箴言の第2章を読みましたが、その2〜5節にこう書かれています。
「知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。」
知恵を求めなさいと語っています。この場合の知恵とは、この世を賢く生きる知恵のことではありません。むしろ真理とも言うべき知恵のことです。この世の人が金銀財宝を求めるようにして知恵を熱心に求めるならば、神を知ることに到達すると語っているんです。求めなさい、ということです求め続けることを教えています。これは、今日の聖書で言う「道」のことであると言ってよいでしょう。
イエス・キリストが道
イエスさまが道である。このヨハネによる福音書の冒頭、1章1〜2節を見てみましょう。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」
これを日本における最初の聖書全巻翻訳聖書である明治元訳で見てみます。明治元訳聖書は、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン宣教師らを中心にして訳されたものです。
「太初(はじめ)に道(ことば)あり 道(ことば)は神と偕(とも)にあり 道(ことば)は即ち神なり この道(ことば)は太初(はじめ)に神と偕に在ありき」
こちらでは「道」と漢字で書いて「ことば」と読ませています。この「言」というのはイエスさまのことを言っているのですが、その言は単なる言葉ではない。「道」である言であるということです。たいへん味わい深いものがあります。
道というのは、人が生きる上での道です。道があるというのです。動物のごとく本能のおもむくままに生きればよいというのではない。歩むべき道があるというのです。それがイエス・キリストであると言っているのです。ですからこれはキリスト道とでも言うべきものかもしれません。きょうの14章6節では「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃっています。イエスさまが道であり、それは真理に到達し、命を得るに至る。そういう道であるということです。
イエスさまが道であるという時、私たちは納得できることがあります。それは私たちが神とキリストを信じているのに、なぜ苦しみや試練があるのかということです。道だからです。私たちが真理であり命に到達するための道だからです。剣道でも柔道でも、茶道でも、道を究めようとする家庭には必ず試練や苦難があるでしょう。しかしそれを乗り越えたときに、新たなすばらしい境地が開ける。キリストの道、神の道を歩んで行くと、試練や苦難がある。しかしそれは主が私たちを磨き、新たな境地に連れて行ってくださるためのものであるに違いありません。私たちがこの世をおもしろおかしく生きるという以上の意義と意味が人生にはある。そのことが、イエスさまが「道」であると言われたことによって分かってまいります。
イエスと神は一つ
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」 このような大きなことを言うことができる方というのは、大言壮語をしているか、あるいは本当に本当かのどちらかです。本当であるとしたら、それは神に等しい方です。イエスさまの弟子のフィリポの問いはそのような問いでした。
(8節)「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」
御父というのはもちろん父なる神さまのことです。
するとイエスさまが答えられました。(9〜11節)「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」
まだ分からないのか、と。そして父なる神とご自分が一つであることを語られます。それは「信じる」ということに属することです。「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」。イエスさまがこれまで何をしてこられたか。その業です。婚礼の席で足りなくなったぶどう酒のために、水をぶどう酒に変えられました。後ろ指さされて生きてきたサマリアの女性をキリストを証しする人に変えられました。役人の病気の息子を癒やされました。ベトザタの池のほとりで38年間病気で寝たきりだった人の病気を癒やされました。5つのパンと2匹の魚で男だけでも5千人の人々の空腹を癒やされました。夜の荒れる湖の上で揺れる舟に乗った弟子たちのところに、水の上を歩いてきてくださいました。生まれつき目の見えなかった盲人の目を見えるようにされました。死んで墓に葬られたラザロを、よみがえらせました。‥‥他の福音書に書かれていることも含めると、数限りなく病気を癒やされ、悪霊を追放し、人々を立ちあがらせてこられました。
そういった業そのものによって信じなさい、と言われます。今申し上げたのは、これまでイエスさまがなさってこられた業です。ではこれからイエスさまは何をなさろうとしているのか?‥‥それこそが、私たちみなの救いです。十字架です。
場所を用意しに
1節を見てみます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」
この直前に、ペトロの否認の予告がありました。「主よ、どこに行かれるのですか?」と問うたシモン・ペトロに対してイエスさまがおっしゃいました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」するとペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」するとイエスは答えられました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」この同じ夜が明けないうちに、あなたはわたしのことを三度知らないと言うだろうと。
そして今日の最初の1節に続きます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」‥‥今イエスさまがペトロがイエスさまを見捨てることを予告されました。主であるイエスさまを見捨てることになるという予告は、ペトロ本人にとって、また他の弟子たちにとっても、たいへんショッキングなことだったでしょう。しかしそれに対してイエスさまは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われたのです。それはあたかもこのように言われているかのようです。すなわち、「心を騒がせるな。そんな弱いあなた方を救うためにこそ私は行くのだ。そのことを成し遂げてくださる神を信じなさい。そして私を信じなさい」と!
続く2節を見てみましょう。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」‥‥「わたしの父の家」とはどこのことでしょうか? 父なる神さまの言えと言えば、神の国、天国です。天国には住む所がたくさんあると言われます。これは意外な感じがしませんか? まず神の国が神の家にたとえられています。そして「住む所がたくさんある」と言っておられます。天国に住むところが「たくさんある」。ここでは「広い」と言われているのではありません。天国は広いに違いないと思いますが、「住む所がたくさんある」というのは意外な印象です。
アメリカで広く使われている聖書NIVはここを、My Father’s house has many
rooms と訳しています。「部屋」ですね。また英国欽定訳聖書は、In My Father's
house are many mansions と訳しています。mansion、英国では邸宅ですね。
天国が「広い」というと、何か震災の時などに用意される避難所のような、つまり体育館のような場所を連想いたします。しかし「住む所」、room、mansion となりますと、ちゃんとした住居という印象になります。そうすると、天国の住居とはどんな所?とその形を思ってしまいますが、むしろここは、避難所のようにまとめて住んでいるのではなくて、ひとりひとりのことが考えられているとみるべきでしょう。
そもそも天国ではどういう生活をすることになるのか、聖書にはただ一つのことを除いてはほとんど何も書かれていません。ただ一つのこととというのは、天国では父なる神さまの玉座とイエスさまに直接お目にかかって、天の御使いたちと一緒に礼拝がなされているということです。天国の大礼拝です。
その天国に、弟子たち、私たちの場所を用意しに行くといわれます。つまりそのままでは天国に私たちの場所はないということです。なぜ場所がないかと言えば、それは私たちが神に背いた罪人だからです。今日の旧約聖書は、創世記の2章9節を読んでいただきました。それは人間が罪を犯す前のエデンの園のことです。エデンの園の中央には、命の木と善悪の知識の木が生えていました。しかしこのあと人間が神さまを信じずに悪魔にそそのかされて善悪の知識の木の実を取って食べてしまいました。罪を犯したのです。その結果、人間はエデンの園から追い出されました。そして神は、人間が自分たちの力ではエデンの園に戻って命の木の実を食べることのできないようにされました。
しかし聖書の一番最後、ヨハネの黙示録の22章に出てくる神の国、神の都には命の木が再び出て来ます。イエスさまが場所を用意してくださったのです。すなわち、イエスさまが「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われたのは、どうやって場所を用意されたかといえば、それはイエスさまが十字架にかかったことによります。私たちのために、私たちが神の国で住むところのできるために、場所を用意しに行かれる。十字架に向かって歩まれる。ご自分の命と引き換えになさって。
そして3節で「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言われます。
私たちのために場所を用意しに行かれる。そしてまた戻ってこられて、私たちを迎えてくださる。イエスさまは私たちをお迎えに来てくださるのです。ここにも洗足のイエスさま、私たちの僕のようになられて仕えてくださるイエスさまの姿があります。
この世においては信じることによってイエスさまと共に歩み、そしてやがて神の国へ連れて行ってくださる。ここに私たちひとりひとりに注がれるキリストの愛を見ることができます。