f2025年6月15日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 レビ記19章17〜18
ヨハネによる福音書13章31〜38
●説教 「新しいおきて」小宮山剛牧師
三位一体主日
本日は教会暦で、「三位一体主日」です。先週がペンテコステ、すなわち聖霊降臨日だったわけですが、その次の主日が「三位一体主日」です。聖霊降臨によって聖霊が現れた。それによって、父、子、聖霊なる三位一体の神さまが私たちの前に現れられたことを記念する日です。私たちの神さまが、単独なる神さまではなくて、父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神の三位一体の神であることが、まさに真理であり、キリスト教のもっとも大きな特徴です。
そして私たちが今学んでいるヨハネによる福音書は、その三位一体の神さまについて、非常にていねいに書き記している福音書です。
新しい掟
本日の箇所の34節で、イエスさまが「あなたがたに新しい掟を与える」と言っておられます。これはたいへん注目すべき言葉です。このヨハネ福音書において、イエスさまが掟について語られるのは初めてです。いわゆる最後の晩餐の席。ヨハネによる福音書は、ここからしばらくイエスさまの長いお話し、告別説教と呼ばれる言葉を弟子たちに向かって語られます。その最初の所で「あなたがたに新しい掟を与える」と言われます。
新しい掟とはいったい何だろうか? イエスさまが与えられる掟とはいったい何だろうか? そういった思いを持ってイエスさまの言葉に耳を傾けてみますと、34節でこう語られています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
「互いに愛し合いなさい。」しかしこれは「新しい掟」なのでしょうか? むしろ、言い古されてきた言葉のように聞こえます。言葉はこの通りではありませんが、たとえば「仲良くしなさい」という命令。これは子どもの頃から、親やまわりの大人から、あるいは幼稚園などで言われてきた言葉のように思います。私たちもまた、子どもがケンカしているのを見ると「これこれ、ケンカしちゃダメだよ。仲良くしなさい」と言います。
また、この時直接イエスさまから言葉を聞いている弟子たちにとっても、耳慣れた言葉でした。旧約聖書のレビ記の中に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟が書かれています(レビ19:18)。あるいはそれだけではなく、当時の律法学者も、心を尽くして神を愛することと共に、「隣人を自分のように愛する」ことはもっともたいせつな掟であると思っていました(マルコ12:33)。「互いに愛し合う」ということは「隣人を自分のように愛する」ということを前提としなければ成り立ちませんので、同じことを言っていると言うことができます。
そういたしますと、イエスさまがお与えになる「新しい掟」である「互いに愛し合いなさい」という言葉は、とくに目新しいものではないということになります。
主イエスが愛したように
そうすると「互いに愛し合う」ことのいったいどこが「新しい掟」なのか?首をかしげることになります。そうしてもう一度イエスさまがおっしゃった34節を見ますと、このようにおっしゃっています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という言葉が語られています。イエスさまがあなたがたを愛したように、お互いに愛し合う。このことが新しいことであり、「新しい掟」であると言えるでしょう。そしてこのことは同時に、私たちに対しても語られていることになります。
イエスさまが愛したようにと言われます。それは具体的にはどういうことを指すでしょうか。この最後の晩餐の舞台が始まる13章の冒頭にはこのように書かれていました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13:1)
弟子たちをこの上なく愛し抜かれたイエスさまは、どうなさったかというと、すでに読んできましたように、たらいに水を汲まれ腰に手ぬぐいをして、弟子たちひとりひとりの足を洗われました。これは当時の奴隷(しもべ)の仕事でした。そのようにして、弟子たちの足の汚れを現れました。しもべとなって仕えられました。
そしてご承知のように、この最後の晩餐のあった翌日、イエスさまは十字架にかけられます。その十字架は何のためだったでしょうか?‥‥それは私たちを救うためでした。本来ならば私たちは自らの罪のために死ななければなりませんでした。罪の支払う報酬は死だからです(ローマ6:3)。しかしイエスさまは私たちの身代わりとなって死なれました。そのことを信じることによって、私たちは罪から救われることとなりました。
そのイエスさまが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とおっしゃいます。
愛することの難しさ
そういたしますと、「互いに愛し合いなさい」というこの新しい掟は、非常にハードルが上がったように思われます。イエスさまが弟子たちを、そして私たちを愛されたように‥‥となりますと、「とても無理だ」と思わざるを得ません。
考えてみますと私たちは愛ということをよく知らないかもしれません。「愛し合いなさい」と言われて愛し合えるものではありません。「愛されたことのない子は、愛することを知らない」と言います。それは確かにその通りでしょう。「愛しなさい」と言われても、愛というものがどういうものであるかを知らなければ愛することも分かりません。
私は、人生を生きていて、いろいろな人のお話をうかがい、また見聞きするに従って、人間というものの難しさを知ってきました。よく愛というものの例として、親が子を愛する愛が挙げられることがありますが、しかし世の中にはいろいろな親がいるわけです。いっしょうけんめい子どもをたいせつに育てる親もいれば、子育てにあまり関心がない親もおり、あるいは育児放棄をする親もいます。虐待をする親もいます。虐待をする親は、やはり子どもの時に虐待を受けて育ったというケースが多いといわれます。
犯罪者の犯罪は憎むべきものですが、中にはよくよく聞いてみると、子どもの頃親からはほったらかしにされて親戚に預けられ、その親戚からはいじめられて育った、というような話を聞くと、不憫にもなります。
人間は経験以上のことはなかなか分かりません。ですから「愛」ということを経験しないと、なかなか「愛」が理解できません。そこに「愛する」ということの難しさがあります。「互いに愛し合いなさい」と言われても、なかなか難しいものです。しかもそれが、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とイエスさまに言われますと、「無理です」と答えるしかなくなってしまうように思います。
新しい栄光
そう考えると、何か迷宮に入ってしまうような気がいたしますが、ここでもう一つの新しいものに注目してみたいと思います。それは今日の聖書箇所の冒頭の、ユダがイエスさまを裏切るために出て行ったときにおっしゃった言葉です。(31節)「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」
「栄光」というのは、スポットライトのように光を受けることです。賞賛されるべきことです。どうして、イスカリオテのユダがイエスさまを裏切るために出て行ったときに、そのようにおっしゃったのでしょうか?‥‥これはイエスさまの十字架が目前に迫ったということなのではないのでしょうか?‥‥だとしたら、イエスさまが裏切られ、逮捕され、十字架に張りつけにされる。そのことが人の子、すなわちイエスさまが栄光を受けられることだということになります。
さらに、続く32節でも「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」とおっしゃっています。ここではまず、神が人の子イエスさまによって栄光をお受けになった。イエスさまが十字架にかけられるということが、実は私たち人間の身代わりになって死ぬことであるとすれば、そのようにして私たちが救われることは神の御心にかなうことであり、神さまが栄光をお受けになるということになります。
その栄光とは、愛の栄光です。愛のない私たちを救うために、罪人である私たちを救うために、自らの身を犠牲とされる。この究極の愛。十字架という死刑台は、そのイエスさまの愛、神の愛の結晶した姿であるがゆえに、栄光だと言われるのです。
これは普通この世でいうところの栄光ではありません。なぜなら、十字架というのは極悪人が張りつけにされる死刑台だからです。栄光どころか、屈辱であるに違いありません。しかしその十字架が、私たちを救うためにキリストが命を投げ打たれたものであるという時に、はじめて「栄光」となるのです。ですからそれは愛の栄光、新しい栄光です。この新しい栄光のもとで、新しい掟を見る必要があります。
愛なき者に愛を
イエスさまは新しい掟として「互いに愛し合いなさい」とおっしゃいました。しかしイエスさまご自身は、互いに愛し合うのではなく、一方的に愛してくださいました。
今日の聖書箇所は、イスカリオテのユダがイエスさまを裏切るために出て行くところで始まり、ペトロがイエスさまのことを否認する予告で終わっています。ペトロがイエスさまを否認する。これも裏切りに違いありません。この弟子の中の2人の裏切りの間で、「人の子は栄光を受けた」と言われ、また新しい掟の話をなさったのです。
つまりこの二人の罪、またこの二人に代表される人間の罪をお引き受けになる。それが十字架の愛です。それが栄光と呼ばれています。
考えてみますと、ユダもペトロも、本当の愛というものを経験したことがなかったのかもしれません。ユダは、もしかしたら子どもの頃に愛というものを知らずに育ったのかもしれません。お金しか信頼できるものがなかったのかもしれません。そのような生い立ちが、お金によって師を裏切るという行動に走らせたのかもしれません。
また、ペトロも「あなたのためなら命を捨てます」と言いましたが、イエスさまはそのペトロが今晩ニワトリが鳴くまでに三度イエスさまを裏切ることを予告なさいました。つまり、ペトロがイエスさまを見捨てることをご承知の上で、愛されたのです。考えてみると、ペトロも自分のために命を捨ててくれるほどの愛を知らずに育ったのではないでしょうか。
しかしイエスさまは、ユダとペトロを見捨てるのではなく、この二人の足も洗われました。そしてユダが出て行ったときに、「人の子は栄光を受けた」とおっしゃいました。それは愛の栄光だと申し上げました。この二人に代表される、私たち愛のない人間を救う愛の栄光です。そのような愛によって、私たちが愛されている。そのことをまずお示しになるのです。
戦後活躍した小説家の椎名麟三は次のようなことを述べています。‥‥「僕は義しき者ではない。これはお世辞ではなく、残念ながら事実そうなのである。だが、この不義なる者は、キリストから、お前みたいな奴はゲヘナ(地獄)の火に入れる、といわれたとき、威嚇ではなく、感動を生ずるのはどういうわけなのだろう。感動は愛においてしか成立しないものだ。だから僕は、感動においてふるえ上がるかわりにキリストの愛を喜んでいるのであるが、一体この喜びは、どこから来るのだろう。僕は、その言葉の背後に、少くとも僕のために、この地上に生れ、苦しみ、十字架にかかり、そして復活したキリストを見ているからである。(椎名麟三、『私の聖書物語』、中公文庫)
「互いに愛し合いなさい」とイエスさまから言われつつも、なかなか互いに愛し合うことの難しい私たち。しかし十字架に行かれるイエスさまは、そのような私たちをしっかりと愛していて下さる。そして復活によって命を与えてくださる。そのイエスさまに心から感謝をしつつ、「私たちも互いに愛することができるようにしてください」と祈るのです。そしてイエスさまに従って行くのです。