2025年6月1日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 マラキ書2章15
    ヨハネによる福音書13章21〜30
●説教 「裏切りのパン」小宮山剛牧師
 
   夜
 
 本字の聖書箇所の最後にこう書かれています。「夜であった」。この出来事が起こったのが夜であったからそう書いたとも言えますが、わざわざ「夜であった」と書いているところに、今日の聖書箇所で起こった出来事の意味を暗示しているように思われます。
 「夜」という言葉は、1日の仕事を終えて休息し寝床につくというだけではなく、様々なドラマが展開するときでもあります。夜は、演歌やムード歌謡の歌詞で歌われる舞台でもあります。また政治家たちが料亭で政治資金を使って談合し、昼間の公の物事をひそかに決めていく時でもあります。そのように「夜」という言葉は、妖しげな雰囲気をただよわせる言葉でもあります。
 本日の聖書の箇所も、引き続き最後の晩餐における出来事です。この最後の晩餐がなされたのもまた夜です。そしてそれは劇的に展開していきます。弟子の一人であるイスカリオテのユダの裏切り、そしてペトロがイエスさまを否認する。イエスさまの逮捕。逃亡する弟子たち。総崩れとなるイエスさまの集団‥‥。そのような展開に至ります。それらを見る時、まさに「夜であった」という言葉が意味を持ってきます。
 イエスさまの弟子の中で、もっとも有名なのは誰かと言えば、それはまちがいなくユダでしょう。ここに人々が聖書に見る最大の謎の一つが幕を開けます。
 
   裏切りの予告
 
 その劇的な幕開けの序章が21節のイエスさまの言葉です。21節 「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」この言葉は12弟子に向っておっしゃった言葉だと思われます。12弟子と言えば、イエスさまがお選びになった弟子たちで、イエスさまのもっともおそばにいた弟子たちです。そのうちの一人がイエスさまを裏切ろうとしていると言われます。衝撃的な発言です。
 ちなみにこの「裏切ろうとしている」と訳されているギリシャ語は「引き渡そうとしている」というのが直訳です。それは「裏切り」というような意図を含んだ言葉ではありません。例えば、単純に荷物を配送業者から受取人に引き渡すという意味です。しかしこのイエスさまを「引き渡す」というのが、誰に引き渡すのかと言えば、それはイエスさまを捕らえて抹殺しようとしているユダヤ人指導者に引き渡すということですから、その行為自体がイエスさまを裏切る、ということになります。
 イエスさまは心を騒がせられました。「はっきり言っておく」というフレーズは、これも何度も解説いたしましたが、「アーメン、アーメン」という言葉です。大切なことをおっしゃる時の言い方です。したがって、イエスさまは心を騒がせて、「アーメン、アーメン、私は言う。あなたがたのうちの一人が私を引き渡す」とおっしゃいました。
 
   誰だ?
 
 すると弟子たちは驚き、顔を見合わせました。いったいそれは誰のことか?
 そこに「イエスの愛しておられた者」(23節)が登場します。イエスの愛しておられた者というのは、このあと時々出てきます。これは誰のことかと言いますと、使徒ヨハネのことであると伝統的に考えられてきました。イエスの愛しておられた弟子というと、「では他の弟子は愛されていなかったのか?」と思いますが、本当はすべての弟子がイエスさまによって愛されていたはずです。しかし、この福音書を書いた使徒ヨハネが、自分がイエスさまに愛されていたということを感謝して、そのように書いていると考えられます。そして自分の名前は伏せている。
 さて、ペトロがこの弟子に、主を裏切ろうとしているのは誰かをイエスさまに尋ねるよう合図を送りました。するとその弟子が、イエスさまの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と尋ねました(25節)。
 イエスさまの胸もとに寄りかかったまま、というのはいったいどういう姿勢か?と疑問に思いますが、それはどうしてもやはりレオナルド・ダ・ビンチの描いた最後の晩餐の絵を思い浮かべるからでしょう。実際はあの絵のように、テーブルとイスで食事をしたのではありません。前回も申し上げたように、床に日本の座卓のようなものを置いて食事をしました。その際に、あぐらをかくなどして食事をする他に、床に寝そべって食事をしたと考えられています。寝そべって食べるなどというと、たいへんお行儀が悪いように思いますが、当時の中東の習慣では、体の左側を下にして座卓のまわりに寝そべって、右手で食材を取って食べたと言われます。そのように座卓のまわりに人が並ぶと、頭が座卓の側に来て、足が外に投げ出される格好になります。そして、イエスが愛しておられた者がちょうどイエスさまの右側に寝そべっていたので、その頭はイエスさまの胸もと付近にあるわけです。その頭を振り向くようにして、「主よ、それはだれのことですか?」と尋ねました。
 するとイエスさまは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられ、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになったと書かれています。パン切れを何に浸したかということですが、スープか、ソースを付けてということだと思われます。
 イスカリオテのシモンの子ユダ、と長く名前を紹介していますが、イエスさまの弟子には他にもユダという人がいたため、それと区別をするためにそう書いています。一般にはイスカリオテのユダと言われます。しかしここではイエスさまは、イスカリオテのユダだけにパンをお与えになったのではないと思います。イエスさまは、その食卓の主人として、皆にソースを付けたパン切れを渡したのだと思います。しかしユダに渡したその時、サタンがユダの中に入った。そのことを書いているのだと思います。
 
   サタンが入った
 
 イエスさまからユダがパン切れを受け取った時、サタンが彼の中に入った(27節)。サタンとは悪魔です。サタンが入ったというのは、なんとも衝撃的なできごとです。この衝撃的なことを考える前に振り返ってみますと、イエスさまはすでに以前からユダの危うさを知っておられたことを思い出します。6章の終わりのところを読むと、イエスさまはご自分が選んだ12人の使徒について、「ところがその中の一人は悪魔だ」とおっしゃいました(6:70)。
 ということは、イエスさまがユダを選んだことは間違いだったのでしょうか?
 しかし旧約聖書を読むと、神さまも間違った人選をしたと思える所があります。それはイスラエルの最初の王であるサウル王が選ばれた時です。サウルは預言者サムエルを通して神さまから選ばれました。ところがそのサウル王が、神さまにちゃんと従わなくなりました。それで神さまは、代わりにダビデをサウルに変わる王としてお選びになったといういきさつがあります。
 神さまは人を見る目がないのでしょうか?‥‥しかし人間には自由意志というものがあります。神さまが期待してお選びになった人が、自分の意思で神さまに従わなくなることがありえます。神さまが最初にお造りになった人間はアダムとイブでした。そのアダムとイブも、エデンの園でヘビ扮するサタンにそそのかされて神さまに背いてしまいました。そのような例があります。
 ですからイエスさまがお選びになった12使徒の中にも、イエスさまの期待に反して、イエスさまを引き渡そうとするユダがいたというのは不思議なことではありません。
 また、イスカリオテのユダ以外にも、イエスさまからサタンといわれた使徒がいます。それはペトロです。イエスさまがご自分の受難を予告なさった時、ペトロは「そんなことがあってはなりません」といってイエスさまをいさめました。するとイエスさまは(マタイ16:23)「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とおっしゃいました。ペトロをサタンと呼ばれたのです。
 イエスさまはすでにこの福音書の6章で、「そのうちの一人は悪魔だ」と言って暗にイスカリオテのユダに警告をされました。それは悔い改めをうながされたのです。
 そして本日の最後の晩餐における場面に戻ります。27節です。サタンがユダの中に入った。これはどういうことを言っているのでしょうか? ユダがサタンに乗っ取られたということでしょうか? 2節にはこう書かれていました。「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」 それが今度は、サタンが彼の中に入ったと言います。すると、サタンが彼の中に入ったというのは、サタンの誘惑に乗ってしまったということでしょう。イエスさまを当局に引き渡す行動に移ったということです。それでユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。そしてあの言葉が続きます。「夜であった。」
 
   ユダと私たち
 
 イエスはなぜユダを止めなかったのか?という疑問が残ります。イエスさまはユダに対して「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われました(27節)。イエスのもとを出ていくのか、それとも留まるのか、判断をゆだねているようにも聞こえます。
 イスカリオテのユダについては、これまで多くの人が様々なことを考えてきました。伝統的な教えでは、ユダを厳しく断罪する解釈が多いようです。「ユダのようになってはいけない」という教えです。しかし古代の偽典である「ユダ福音書」では、イエスさまがユダによってわざと裏切らせ、そして十字架へ上っていくと言います。イエス・キリストの十字架の物語のために、ユダを利用したというものです。
 現代の文学や映画などでは、ユダに同情的なものが多く見られます。かつて賛否両論分かれた映画、日本では劇団四季の演じた「ジーザス・クライスト・スーパースター」では、ユダを同情的に描いていました。
 芥川龍之介、そして太宰治もまたユダを理解しようとして書いています。太宰治の小説『駆込み訴え』はユダの言葉だけで書かれていますが、イエスを心から愛していたのですが、それを分かってくれないイエスに対する憎しみへと変化する心の葛藤、そして、どうせイエスが殺されるのなら自分がそれをしようという気持ちにまで高まっていく心理を描いています。
 ユダはなぜイエスを裏切ったか?‥‥その真相は分からないかもしれません。しかしヨハネ福音書がユダが出ていったすぐ後に「夜であった」と書いていることには意味があると思います。ヨハネ福音書はその最初の1章で、イエスさまの命が「人間を照らす光」であったと書き、続けて「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:5)と書いています。
 ユダは光を理解しなかったとも読めます。イエスさまの命が人間を照らす光であったが、その光、永遠の命が理解できなかったとも読めます。
 ユダは、イエスさまを銀貨30枚で売って裏切ったことを後悔し、自ら命を絶ちました。ペトロはこの後イエスさまのことを知らないと言って裏切って、泣きました。他の弟子たちは逃げました。やはりイエスさまを裏切りました。しかし、恥ずかしながらそのあとも自分たちを責めつつも生きながらえました。そして復活のイエスさまの赦しを体験しました。イエスさまの十字架がある前に挫折し、イエスさまの十字架の死で打ちのめされましたが、復活のイエスさまが来てくださったことで光に包まれました。復活のイエスさまにお会いして、ゆるされたこと、そして永遠の命に招かれていることを知りました。喜びに満たされました。
 ユダはなぜそこまで待てなかったのかと、生き恥をさらすことができなかったのかと残念でなりません。考えてみますと、芥川龍之介も太宰治も、いずれも自ら命を絶っています。彼らは聖書を探究し、キリストについて考えながらも、復活を信じることができなかったと思います。イエスさまが人の子であることは理解しても、神の子であることを信じることができなかった。命の光が理解できなかった。だから絶望しか残らなかったのだと思います。
 イエスさまの復活は光であり、ゆるしであり、希望であり、揺るぎない喜びです。それは私たちの中から生まれるものではありません。向こうからやってくるものです。
 私も、若き日に一度イエスさまのもとを去った者です。1歳の時に死ぬところを、イエスさまによって命を救っていただきながら、去っていきました。これも裏切り者でしょう。そうしてイエスさまも神さまも信じなくなりました。しかしその私はまた命の危機に瀕することになりました。救急車で病院に運ばれました。意識が遠のきました。そのとき、わたしは神さまのことを思い出しました。そして心の中で叫びました。「神さま、助けて下さい。」‥‥イエスさまを裏切っておきながら、恥ずかしながら、もう他にすがるものがなかったのです。そうしてまた助かりました。
 こんな私でも救われたのです。「光は暗闇の中で輝いている」んです。その光とはイエスさまのことです。どんなに夜の暗闇の中でも、どんな絶望の中でも、もう生きている資格がないと思っても、光は暗闇の中で輝いている。恥をさらしてもいいんです。イエスさまはすべてを理解し、受け入れて下さいます。愛してくださっているからです。