2025年5月25日(日)逗子教会 主日礼拝説教・サマリ
●聖書 サムエル記下11章1〜3
    ヨハネによる福音書13章12〜20
●説教 「低くなる誇り」小宮山剛牧師
 
   米騒動
 
 「お米がない!」「お米が高い!」ということが大きな問題になっています。これまでは、日本人の米離れということが言われてきました。実際、戦後の日本の米の消費量は一貫して減ってきました。日本人が米以外のものを多く食べるようになったからです。昨年秋までは、お米も安く売られていました。ところがその後、急にお米が高くなり、ご存じのような騒ぎになっています。所轄の大臣の首が飛ぶことまで起きています。このような状況を見ると、日本人にはやはり米が大切だったのだな、と思わされます。
 同じように、現在の日本は「宗教離れ」の状況です。バブル期を境にして、宗教団体は一貫して信者数を減らしています。神を信じる人が減っているんです。しかしこれも、急になにか大きな危機が来たようなときに、多くの人が「やっぱり神さまが必要だった」ということになるのではないでしょうか。そんなときに右往左往して、おかしな団体に行ってしまうことになったらたいへんです。良い時も、悪い時も、私たちの造り主である神さまを礼拝する。このことがたいせつです。
 
   互いに足を洗い合いなさい
 
 さて、先週はイエスさまが弟子たちの足を洗われたというところを読みました。今日の所では、イエスさまが弟子たちに対して、互いに足を洗い合いなさいということを教えておられます。
 まず12節で、イエスさまがおっしゃいました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」すなわち、なぜわたしがあなた方の足を洗ったか、分かるか?と。先週も申しましたように、昔は上下関係がはっきりしていました。お金持ちの家では、足を洗うのは召使い、すなわち奴隷の仕事でした。奴隷は主人の所有物でした。主人と奴隷では、身分が全く違いました。ところが、弟子たちの師匠であり先生であるイエスさまが、弟子たちの足を洗われました。つまりイエスさまが奴隷のすることをなさいました。これは弟子たちにとって、驚き以外の何ものでもありませんでした。
 そして今日の所では、イエスさまが弟子たちの足を洗ったことについて、ゆっくりと、ていねいにさとしておられます。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」イエスさまが今なさったことについて教えられるのです。あなたたちの足を洗ったよねと。
 13節でイエスさまは、「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである」とおっしゃいました。たしかに弟子たちから見たら、イエスさまは先生であり、主、つまりご主人様です。
 14節に行きますと、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」‥‥主であり、師匠であるイエスさまが弟子たちの足を洗った。それはたいへん恐れ多いことであり、もったいないことです。だからその師であるイエスさまが「先生であり師匠である私があなた方の足を洗ったんだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と、念を押すようにおっしゃっいました。
 もっと言えば、19節の「わたしはある」という言葉です。これはこのヨハネの福音書で時々出てくる言葉で、神さまをあらわす言葉です。すなわち、イエスさまが神であることを暗示しています。そうすると、神さまが弟子たちの足を洗われたことになる。もうこれは恐れ多いを通り越して、ありえないようなことです。神さまが弟子たちの足を洗い、そして「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」とおっしゃったら、これはもう本当に弟子たちは互いにへりくだって足を洗い合わなければならんでしょう。
 15節ではこうおっしゃっています。「わたしがあなたがにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」‥‥あなたがたも互いに足を洗い合うように、模範を示したのだと。なんだかイエスさまには申し訳ないのですが、だんだんくどくなってくるように思います。何度も同じことを繰り返しておっしゃっています。
 16節では「はっきり言っておく、僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。」 僕、すなわち奴隷は主人より下だよね、遣いに出される人は遣わす人の言うことを聞くよね‥‥と、そのように、互いに足を洗いなさいということを言ったのが私なんだから、あなたがたは当然私の言うことを聞かないとならないよねと、念を押しておられます。17節「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」これも釘を刺すような言葉です。
 いかがでしょうか。ここまで読んでいますと、イエスさまが足を洗い合うということをたいへん強調し、何度も念を押しておられることが分かります。弟子たちにたいして丁寧に、くれぐれも守りなさいという言い方です。それほどまでに、互いに足を洗い合うということが大切なことなんだと、教えておられます。「くれぐれも言っておくが、互いに足を洗いなさい」と。
 
   足を洗い合う
 
 ところで、足を洗い合うというのはどういうことでしょうか? もちろん、実際にたらいに水を汲んできて、腰に手ぬぐいをして相手の足を洗っても良いのでしょうけれども、それは、あることのしるしであると言うことができます。それは前回も学びましたように、足を洗うということは、私たちが毎日の生活の中で犯す過ち、罪を洗い清めることです。前回の個所でイエスさまが「既に体を洗った者は、全身清いのだから足だけ洗えばよい」(10節)とおっしゃったところで、「既に体を洗った」というのは洗礼のことを指していました。そのように、足を洗うということも、実際に人の足を洗うということというよりも、やはり罪やけがれを洗い清めるということです。イエスさまが足を洗って下さる。つまりイエスさまが、日々の罪をゆるし、清めて下さる。
 では、今日イエスさまがおっしゃっている「互いに足を洗い合う」というのはどういうことでしょうか?
 それはまず、僕が主人の足を洗うという態度に表れているように、仕えることです。低くなって、僕のようにして仕える。なんのために仕えるかといえば、相手がキリストを信じるように、悔い改めるように仕えるんです。
 イエスさまが弟子たちの足を洗われたのは、弟子たちの成長を願って仕える姿です。すなわち、相手の成長を願って仕えていくということです。ただ自分が相手に仕えているということで、自己満足するのではない。相手が成長するために、さらに信仰が成長することを願って、仕えていくのです。
 へりくだる、仕える、ということは、何か相手の言いなりになる、ということではありません。自分もキリストに従い、相手も信仰が成長するように、キリストの御心に従って歩むことができるように、身を低くして仕えるということです。
 そのように、イエスさまは、あなたがたもそのようにしなさい、互いに愛し合いなさい、とおっしゃいます。互いに仕え合いなさい、とおっしゃいます。互いに、成長するように仕え合いなさい、祈り合いなさいということです。
 しかし、なぜイエスさまは、くどいほどに教えておられるのでしょうか?‥‥それは第一に、私たちが忘れやすいからでしょう。たとえば「今日は、なにが起きても神さまに感謝しよう」と思っても、お昼頃になるともう忘れています。忘れやすいんです。だからイエスさまは、くれぐれもということでおっしゃっているのでしょう。
 第二に、私たちには足を洗いたくない人がいるからです。「ほかの人の足は洗うことができても、あの人の足は洗いたくない」。つまり、「あの人の幸福のためには祈りたくない」「あの人はゆるすことができない」と、そういう人がいる。
 しかしイエスさまはどうでしょう。イエスさまは、イエスさまを裏切る者の足も洗われました。18節がそのことを表しています。そのことを心にとめなさい、と。あなたがたもそのように足を洗い合いなさいと言われます。
 
   謙遜
 
 この「洗足」という出来事で思い出すことがあります。それは以前もご紹介した、アンドリュー・マーレーの『謙遜』という本です。私が最初にその本を手にしたのは、まだ20代の求道者の時代のことでした。隣町の教会に出入りしていた時に、そこのアメリカ人の宣教師が、この『謙遜』の学習会に参加しないかと誘って下さいました。そしてその本を買いました。本の表紙には、フォード・マックス・ブラウン(Ford Madox Brown)という19世紀の画家の描いた、洗足の絵が描かれていました。‥‥ペトロと思われる弟子の前に、イエスさまがひざまずき、たらいの水で洗ったペトロの足を、腰に巻いた手ぬぐいで拭いておられる。それを他の弟子たちが身を乗り出すようにして見ている‥‥そういう絵です。それはまさに、神の御子である主イエス・キリストが、まるで奴隷のようになって、へりくだって足を洗っておられる姿でした。
 私は、その宣教師のもとでの「謙遜」についての学習会で、非常に新鮮で、また衝撃的な印象を受けました。私はそれまで、人から称賛を受けたり、人から認められたりすることを喜びとして生きてきました。この世の中が、人を蹴落として生きていくような社会です。その中で勝ち抜いて、人の上に立つことが成功することだと。
 しかし私がその学習会で学んだことは、全くそれとは違うことでした。キリスト信仰の世界は全く違っているということを知りました。この世の中が、高い所に登っていく、そして人よりも上に立つことを喜びとする社会であるとしたら、キリスト信仰の世界は全く反対であるということでした。低く下っていく、そこに真の喜びと平安が見出されていくということでした。そしてもし私たちがキリストを信じているのに、何の喜びも平安もないとしたら、それは謙遜が欠如していると、マーレーは言うのでした。
 そしてその謙遜とは、何よりもイエスさま御自身に見られるものであると、マーレーは言います。イエスさま御自身が、御自分の弟子たちよりも身を低くして、足を洗われた。そしてそれは何よりも、イエスさまが私たちを救うために十字架におかかりになった。ご自分を低くして、私たちのために命を投げ打たれた。その意味を知りました。
 マーレーはまた、この世は「謙遜の学校」であると言います。神さまから謙遜の尊さ、喜びを教わるための学校です。そして今日のイエスさまの弟子たちに対する教えは、まさしく、謙遜の学校というにふさわしいものでした。
 
   負債
 
 ところで、元に戻って14節をもう少し丁寧に見てみます。「ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」。この「互いに足を洗い合わなければならない。」この「ねばならない」というギリシャ語は、もともと「義務がある」、あるいは「負債がある」という意味です。ですから、次のようになります。‥‥「あなたがたには互いに足を洗いあう義務がある」。あるいは「あなたがたには互いに足を洗いあうという負債がある」。
 なぜ「義務」があるんでしょうか? なぜ「負債」があるんでしょうか?‥‥そんな義務や負債は自分にはないように思います。「負債」というのは「借り」があるということです。そうすると、疑問に思えないでしょうか。いったい私たちは、誰に負債があるというのでしょうか?
 「そんな負債なんかないよ」と言いたくなります。確かに、それはお互いの間の負債はないかも知れません。けれども、私たちは神さまに対しては負債があるのです。罪という負債があるのです。そのことは、キリスト者であるならば知っているはずです。そしてその返しきれないほど大きな負債を、イエスさまが十字架で支払って下さった。罪が赦された。‥‥そういう「借り」がイエスさまに対してあるということになります。
 16節で言われているように、私たちキリストの「僕」は、主人であるキリストにまさるはずがありません。しかしその主人であるイエスさまが、僕となって私たちに仕えてくださった、足を洗ってくださっている。だから私たちも、互いに足を洗い合う必要があるのだ、とおっしゃるのです。キリストにしていただいた借り、言い換えれば恩を返していくということです。
 17節で、「このことが分かり、その通りに実行するなら、幸いである」とおっしゃっています。「幸い」なのです! 互いに足を洗いあうということは、すなわち、互いに仕え合うということは、苦痛どころではない。「幸い」である。そこに神さまの祝福が現れます。平安が与えられます。