2025年5月18日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 創世記43章24
    ヨハネによる福音書13章1〜11
●説教 「足を洗う」小宮山剛牧師
 
   洗足
 
 きょうのところから、ヨハネによる福音書の後半に入ります。これまではイエスさまが人々の間でなさったことが書かれていました。しかしそれが終わり、ここからは受難と復活に至ることが記されています。とくに、今日の13章から17章までは、弟子たちの前で語られたことが記されています。しかもそれは同じ場所、同じときに語られました。
 ところで、キリストを描いた絵で、もっとも有名なものは何でしょうか?‥‥おそらく、レオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」と答える方が多いのではないでしょうか。もちろん、イエスさまを描いた絵では、降誕のときや十字架の時の絵が多いでしょうが、1枚の絵という点では、やはりダ・ビンチの「最後の晩餐」を思い浮かべる方が多いでしょう。今日の13章から17章の舞台は、その最後の晩餐です。
 ただ、ここにはイエスさまが弟子たちにパンを与えたり、ぶどう酒を与えたりしたことは書かれていません。だからこれが最後の晩餐のときのこととは思えないほどです。2節に「夕食のときであった」と、さらりと書いているから、これが最後の晩餐のときのことであることがようやく分かる程度です。それは前にも申し上げましたように、ヨハネによる福音書は、ほかの福音書が書いていることはほとんど省略しているからです。そしてほかの福音書が書いていないことを書く。今日のところでいえば、イエスさまが弟子たちの足を洗ったということ。いわゆる洗足の出来事を書いています。
 「足を洗う」といいますと、ヤクザの組から抜けてかたぎになるような場合に使われますが、ここでも似ています。それはいったいどういうことなのか。ご一緒に味わってみましょう。
 
   愛し抜かれた
 
 1節に「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」と書かれています。父、すなわち天の神さまのところに移られる。その時が来たことを悟られました。これは、単に天の父なる神さまのところにお戻りになるということではありません。その前に十字架があるんです。十字架にかけられて死なれるという大きな出来事がある。それを経て天の父のもとへ移られるのだということを忘れてはなりません。もちろん弟子たちはそのようなことは何も知りません。
 続きを読みますと、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。
 このことで思うのですが、人は自分の死が間近に迫ったことを知ったとき、どうするでしょうか? イエスさまは、明日十字架にかけられて地上の命を終わるんです。明日自分が死を迎えることを知ったとしたら、人間はどうするでしょうか?‥‥絶望と恐怖で泣きわめくでしょうか? お酒を浴びるほど飲むでしょうか? あるいはできるだけおいしい物を食べようとするでしょうか? あるいはあきらめるでしょうか?‥‥
 イエスさまはそうではありませんでした。けれども、イエスさまは神の子であるし、死んだあと神さまが復活させて下さることを知っていたから、私たちと同列に扱うべきではないと考える人もいるでしょう。しかしイエスさまは人の子としてこの世に来られました。私たちと同じ人間としてこの世に来られたのです。ですから、死んだ後の復活ということも当たり前のことではなく、やはりそこには私たちと同じように「信仰」というものが必要だったに違いありません。ヘブライ人への手紙に次のように書かれています。
(ヘブライ11:1)「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
 そうすると、私たちが聖書を通して、死んだ後の復活、そして永遠の命というものを信じるというのと同じように、イエスさまもまた十字架の死の後の復活を信じるということが必要であったことになります。そして信じられたんです。
 そしてそのイエスさまは、明日、自らの十字架の死が迫っていることを悟られたとき、どうなさったかと言えば、そこに書かれているように「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のでした。もちろん、これまでも弟子たちを愛されたことでしょう。しかしこの福音書を書いたヨハネが、「この上なく愛し抜かれた」と感じるほどであったのでしょう。そしてイエスさまは、必要なことを教えられました。それがこの最後の晩餐の席上の出来事です。
 
  悪魔
 
 しかし、イエスさまが弟子たちをこの上なく愛し抜かれたその裏で、その弟子の一人がイエスさまを裏切ることを考えていたと書かれています。驚くべきことです。2節に「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」と書かれています。
 なにか悪魔がユダをロボットのように操っているように思われます。しかしそうではないでしょう。これは悪魔の誘惑に負けたということです。エデンの園で、エバが蛇の誘いに負けたのと同じです。その結果、既にこのときイエスさまを裏切る思いになっていました。たしかに他の弟子たちも、イエスさまが捕らえられた時にイエスさまを見捨てましたが、それは前もってイエスさまを裏切ろうとしていたのではありません。ユダはこのとき既にイエスさまを裏切る思いになっていました。そしてそれは悪魔の誘惑に負けていたのです。
 そのように緊迫した情勢が裏で進んでいる。十字架の時を前に、弟子たちを愛し抜かれたイエスさまと、イエスさまを裏切って売り渡すことを決めていた弟子がいたという展開です。
 
   洗足
 
 最後の晩餐の食事の席で、イエスさまは食事の席から立ちあがって上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました。そして、たらいに水をくみ、弟子たちの足を洗われたと書かれています。
 これは弟子たちにとって驚き以外の何ものでもありませんでした。なぜなら、人の足を洗うというのは、僕(しもべ)、すなわち奴隷の仕事だったからです。当時のユダヤの庶民はサンダルを履いていました。そして道は舗装などしてありませんでした。私が子どもの頃も、舗装をしていない道路はたくさんありました。そうするとそういうところをサンダルで歩くと、土ぼこりで足が汚れるんですね。その足を洗うのが、ユダヤでは僕の仕事でした。昔の日本流に言えば、下男、下女の仕事でした。現代の日本は、上下関係があまりなくなりましたから、そう言われてもピンと来ないかもしれません。なにしろ今は、上司が部下に気を使わなくてはならない時代になりました。そうすると、いったい何にたとえればよいでしょうか。ヤクザにたとえればよいでしょうか。昔、ヤクザからクリスチャンになった方の話を聞いたときに、彼は言いました。親分にお茶を出す時には姿勢を正して両手で出さなければなりません、と。もし片手で出したとしたら、手を叩き切られますと言いました。それほど以前のヤクザは上下のけじめに厳しい社会だそうです。そうすると、今日の所はヤクザの親分が、下っ端の子分の足を洗うようなものです。ありえないことです。しかしそれをイエスさまはなさいました。
 しかも、嫌々(いやいや)弟子の足を洗ったのではありません。愛し抜かれたんです。進んで洗われたんです。弟子たちを愛して、そのようになさったのです。それは次回の話になりますが、弟子たちにも互いに愛し合うことを教えるためでもありました。
 さてそうすると、ペトロが言いました。「わたしの足など、決して洗わないでください」と。イエスさまに足を洗っていただくなんて、恐れ多いということです。今言いましたように、上下関係の厳しい時代での話です。先生が弟子の足を洗うなんて、ありえないことです。
 するとイエスさまはおっしゃいました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」するとペトロはあわてました。イエスさまに、あなたはわたしと何の関係もなくなるなんて言われたら、ペトロは絶望です。それでペトロはあわてて、「主よ、足だけでなく。手も頭も」と答えました。‥‥これはいかにもペトロらしい答えです。思わずほほえんでしまいます。
 するとイエスさまは答えておっしゃいました。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」
 さて、ここで「既に体を洗った者は、全身清い」というのは、どういうことでしょうか?「既に体を洗った」とは?‥‥既にお風呂に入って体を洗ったということでしょうか? それとも、沐浴をしたということでしょうか?‥‥なにかこれはそういう外面的なことを言っておられるのではないように思います。
 これについて、古代の教会のリーダーであるアウグスティヌスは、洗礼のことだと言っています。たしかにそうでしょう。洗礼は、イエス・キリストを信じるときに受けますが、それは罪と穢れが洗い清められることです。罪人であるけれども、イエスさまを信じることによってゆるされて救われることです。
 では、「足だけ洗えばよい」というのは、どういうことでしょうか? 洗礼によって全身が清くなったのなら、どうして足が汚れるのでしょうか? それは洗礼を受けて救われた後も、私たちはこの世の中を生きていきます。そうすると、舗装されていない道路をサンダルで歩くと、土ぼこりで足が汚れるのと同じように、この世の中を歩いていると罪や過ちを犯して汚れます。ですから私たちの足を、イエスさまに洗って清めていただかなくてはなりません。「足だけ洗えばよい」とは、そのことをおっしゃっているのです。これもアウグスティヌスが言っていることです。それゆえ、私たちは毎日主の祈りを献げなくてはなりません。主の祈りの中にこのような言葉があります。「我らに罪を犯した者を我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と。
 FEBCの機関紙の3月号のリスナーからの手紙に次のような投書がありました。‥‥それは、昔19歳の時に信仰に入った方の手紙でした。信仰に入った後に、「私は本当に救われているのだろうか?」という疑問が起こり、心の中が真っ暗になってしまったそうです。その中でその人を絶望に陥れたのは、ヘブライ人への手紙6章4〜6節だったそうです。そこにはこう書いてあります。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」これは自分のことを言っているのだと思ったそうです。そして、これらの聖句がなければ「神は愛である」と言うことができるけれども、神様はー体何の目的で恐ろしい聖句を聖書の中に散りばめておられるのでしょうか?‥‥という内容でした。
 この質問の答えは、まさにきょうのイエスさまによる洗足の出来事が与えてくれるでしょう。そもそもこの方が、ヘブライ人への手紙のその箇所を読んで、自分のことを言っているようだと思った時点で、その人は自分の罪に気がついているのです。自分の罪に気がつくことを、悔い改めといいます。ですから、ヘブライ人への手紙のその箇所では「再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」と書かれていますが、その人は既に悔い改めているわけですから、イエスさまに足を洗っていただければいいのです。
 このように、洗礼によって全身を清めていただく。その後の罪、過ちは、毎日祈りによってイエスさまに足を洗っていただく。赦していただく。こうして希望をもって歩んで行くことができます。イエスさまの愛があるからです。そして、全身を清くする洗礼も、日々の足の汚れを洗っていただくことも、両方ともイエスさまの十字架のおかげです。
 
   皆が清いわけではない
 
 11節では「皆が清いわけではない」とイエスさまがおっしゃっています。ユダの裏切りの思いを知っていてそのようにおっしゃいました。イエスさまの愛が通じない。弟子たちを愛する、イエスさまの愛が通じない。
 ゲーテは言いました。「難しいのは、愛することではなくて愛されることである。」
 イエスさまは、ユダの足も洗われました。ユダの悔い改めを待たれるんです。
 私たちの足を洗ってくださる主。この世の中を歩んでいて、傷つき、傷つけ、罪を犯し、また穢れる。そのような罪穢れを洗ってくださいます。ゆるして下さいます。そのことを毎日の祈りの中で覚えたいと思います。そして感謝したいと思います。