2025年5月11日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書2章11〜12
    ヨハネによる福音書12章44〜50
●説教 「真実いのちのことば」小宮山剛牧師
 
   母の日
 
 本日は「母の日」です。そして今年も讃美歌の510番「幻の影を追いて」をご一緒に歌いました。この讃美歌は、母が我が子の救いを祈る姿を歌っています。すなわち、我が子が神を信じて教会につながることを祈る姿です。
 その各節のおりかえしの部分の中に、「母は涙乾く間なく祈ると知らずや」とあります。この詞の「母は」というのは、母が自分のことを言っている言葉です。すなわち「我が子よ、母である私がお前のために涙乾く間もなく祈っていることを知っているだろうか」という詞です。たいへん心に感じるものがあります。私たちは、自分のことを省みます。「果たして自分は、我が子が、あるいは愛する者が主を信じて救われるために、涙乾く間もなくと、ここまで愛を込めて祈っているだろうか」と。そのよう祈る者でありたいと思います。
 
   イエスを信じるよう求める
 
 本日のヨハネによる福音書の冒頭の箇所で、イエスさまが叫んでおっしゃっています。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。」
 イエスさまが叫ぶ。そうすると私たちは、大事なことを言うためにおっしゃっているんだな、と思います。ところでこれは誰に向かって語っているのでしょうか? と言いますのも、すでにこの前に読んだ箇所、36節を見ますと、こう書かれているからです。‥‥"「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」
 これは多くの人々の前で語られました。そして、この「光」というのはイエスさまことです。その光を信じるように、つまりイエスさまを信じるようにおっしゃいました。そしてイエスさまは、立ち去って身を隠されたと書かれています。すなわち、イエスさまは最後に光であるイエスさまを信じるようにおっしゃってから、人々の前から姿を消されたのです。ですから、今日イエスさまが叫んで語られたのは、多くの人々の前で語られたのではなく、弟子たちの前で語られたことになります。
 弟子たちというと12使徒を思う人もいるかも知れませんが、イエスさまの弟子には、12使徒以外にも多くの弟子たちがいました。その弟子たちの前で叫んで、つまり大声で語られたのがきょうの言葉です。
 44〜45節「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」
 「わたしを遣わされた方」というのは、天の父なる神のことです。イエスさまを信じると言うことは、父なる神さまを信じることと同じである。さらに、その続きのイエスさまの言葉、「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。」イエスさまを見るということは、天の神さまを見るのと同じことだと言われる。これは普通の人間が言えることではありません。
 このようなことを言う人というのは、本当のことを言っているのか、あるいはイエスさまはほら吹きでおかしな方なのかの、どちらかということになります。しかしイエスさまがなさってきたことを見ると、イエスさまがおかしな方であるとは思えません。またイエスさまが語ってこられた言葉を見ても、それはむしろ私たちの心に響くものであって、とてもおかしな人の言葉であるはずもありません。
 ですからここに「信じる」ということが必要になります。イエスさまは、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」とおっしゃっています。つまり、イエスさまを信じるということは、なにか目新しい、珍しい神を信じるということではなくて、旧約聖書に証しされてきた神を信じるということです。すなわち、聖書が語ってきた天地創造の神、私たちの造り主なる神さまです。なにか目新しい神を信じるということではありません。
 
   信じることがむずかしい時代
 
 しかしいずれにしても、「信じる」ということが求められています。
 現代は「信じる」ということがむずかしい時代になってきています。先日の教会総会の最後の懇談のところで私がデータを用いて季節しましたように、現在はほぼすべての宗教が低迷しています。伝統的な仏教、神道だけではなく、新宗教も軒並み信者の数が減っています。キリスト教も例外ではありません。そういうことを説明いたしました。しかし、かといって現代人が超常的なものや、あの世の存在を信じなくなったわけではないことも、データを示して説明いたしました。つまり現代人は、超常現象や迷信を信じなくなったのではなく、宗教離れを起こしているということです。
 宗教を信じることがむずかしい時代になっているという背景には、様々なことが考えられますが、やはりその背景の一つには人間不信が増大しているということが挙げられるでしょう。たとえば、私のところに来るメールですが、毎日どれぐらいの数の詐欺メールが来ると思いますか?‥‥だいたい30通から50通の詐欺メールが来ます。まともなメールの十倍は詐欺メールが来ます。
 その他にも、FacebookなどのSNSサイトで、有名人を勝手に使った詐欺広告によって多くの被害者が出たのも記憶に新しいことです。また、電話。最近は、電話しても出ない方が、とくに中高年の方に増えました。詐欺電話や迷惑電話が増えたからです。また、メールを送っても届かないケースも増えています。それは先ほど申し上げたように、詐欺メールが増えたので、スマホのセキュリティのレベルを高く設定している人が、とくに中高年の方に多く、それによってメールがはねられて、メールを送っても届かないケースが増えているからです。それで教会からのメールも「届かない」とおっしゃる方がいます。こちらがメールを送っているのにです。
 そうしますと、電話もしても出ない、メールを送っても届かない。じゃあ、そういう方にはどうやって連絡をしたらいいのか?ということになり、結局は手紙やハガキに戻ることになります。ところがその郵便も、ご存じのように、翌日配達がなくなり、数日経たないと届かないということになってしまいました。そのように科学技術の進歩も、詐欺などの人間の罪によって、結局役に立たなくなるということが起こっている。人間の罪によって、ますます人間が信じられなくなる。信じるということが難しくなっている。そして、人間を介して伝えられる神の言葉も信じられなくなる。そういうことが背景の一つにあると思います。
 本当に、なにを信じたら良いのか、という世の中です。では人間は、なにも信じられないで生きていけるのか?‥‥それは「ノー」だというのが聖書の答えです。人間は神を信じて生きていくように造られているからです。
 では神とはどういう存在か?‥‥それは聖書を読んで初めて分かることです。そしてその神さまがどんな方かということが、イエスさまを見て分かるということです。それが45節「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」という言葉です。
 しかし現代の私たちは、直接イエスさまを見ることができません。イエスさまがどんな姿をしていたのか、知ることもできません。ところで聖書を読むと、聖書にもイエスさまがどんな姿をしていたのか、ひと言も書いていないことをご存じでしょうか?‥‥イエスさまがどんな顔をしていたのか、どんな体格だったのか、背が高かったのか低かったのか、またどんな服装をしていたのか‥‥何も書いていません。外見についてひと言も書いていないんです。
 これはどういうことでしょうか?‥‥それはつまり、「わたしを見るものは」とイエスさまがおっしゃるとき、それはイエスさまの外見のことを言っておられるのではないのだということです。「わたしを見るものは」というのは、イエスさまがたしかに人として目に見える形でこの世に来られたこと、そしてイエスさまが何をなさったのか、なにを語ったのかを見ることだということに他なりません。ですから、わたしたちもイエスさまを見ることができるということです。
 
   救うために来られた
 
 46節では、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と言われています。暗闇とは、人間の罪のことです。そしてサタンのことです。その中に捕らえられることのないようにして下さる。
 47節では「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」と言われています。世を救うために来られた。これは、この先の十字架のことを言っておられます。イエスさまがご自分を十字架に献げて、私たちを救う。そのためにこの世に来られました。
 しかし裁きがないのではありません。48節でこう言っておられます。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」
 世の終わりの日、その時に神の裁きがある。先週、ローマ・カトリック教会の新しい教皇が決まりました。その教皇を決めるための選挙、コンクラーベは、皆さんもニュースでご承知の通り、バチカンのシスティーナ礼拝堂で行われました。そのシスティーナ礼拝堂の壁画は、ミケランジェロの描いた「最後の審判」の絵です。世の終わりに最後の審判がある。滅びる者と救われる者が分けられる。
 その時に滅びることのないように、イエスさまは来られた。だからそのイエスさまを信じるように、との招きが語られています。
 
   永遠の命
 
 50節で「父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである」と言われています。「父の命令は永遠の命」というのは、なんだかふしぎな言い方です。
 この「命令」という言葉は、ギリシャ語では「掟」という言葉です。そうしますと、このあとの13章の最後の晩餐の席で、イエスさまが語られた「新しい掟」のお話があります。
13:34「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
 そのように、「新しい掟」とは「互いに愛し合いなさい」ということです。互いに愛し合う。そのイエスさまの掟に生きたとき、永遠の命の中を生きている。この世でイエスさまから与えられた新しい命、次の永遠の神の国へと続く命を生きていることになる。
 
 先月、私の尊敬する牧師の大橋弘先生が天に召されました。大橋先生は、更新伝道会の先輩で、私よりも20歳ほど年上の先生でした。いつも私に御著書や、説教を送って励まして下さっていました。その大橋先生が、御著書の中で書かれていた、あるエピソードが私の心に深く留まっています。それは、戦争中、陸軍の特攻隊員だった田中静雄さんという人の話です。田中さんはクリスチャンでした。
 その田中さんが、大橋先生に次のようなお話を聞かせてくれたそうです。戦争中、南方のある島にいた時、アメリカ軍の総攻撃を前にして、田中さんの属する飛行師団が島から撤退することになったそうです。将校や兵士はみな飛行機に分乗できました。ところが田中さんの操縦する飛行機が満員で、看護婦の乗る余地がありませんでした。そこで看護婦を置いていこう、ということになったそうです。なんということでしょうか。その時、茂木始という一等兵が、私は乗らなくてもいいから、ぜひ看護婦を乗せていってくれと頼んだそうです。そして茂木一等兵が残り、代わって看護婦を押し込めるようにして乗せて、田中さんの操縦する飛行機は飛びました。そして、その後の茂木一等兵の消息は不明のままだということです。その南の島で亡くなったものと思われます。
 田中さんは涙を流し、何度も目に手をやりながらこの話をしたそうです。そして、「茂木さんはクリスチャンでした」と言ったそうです。これは世の中に全く知られていない出来事です。一人の看護婦に代わって、砲弾の降り注ぐ島に残る‥‥。私はこの話を読んだとき、「クリスチャン」という言葉の意味を、心に深く留めました。
 「互いに愛し合いなさい」。もし私がその場にいたら、茂木一等兵のように看護婦に代わって死ぬことが分かっている島に残ることができたかといえば、できなかったかも知れません。しかし少なくとも、その茂木一等兵の姿に、私たちを救うために、私たちに代わって十字架で死んでくださったイエスさまを強く思い浮かべることができる。この茂木一等兵の出来事は、そのことを証ししている。そのイエスさまの愛を深く心にとめることができる。そしてこんな私をも救ってくださるイエスさまに、深く感謝することができる。そして私のところにも、光が射し込んでくるのが分かる。そのことを心から、心から感謝する者であります。