2025年5月4日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 サムエル記下6章20〜23
    ヨハネによる福音書12章37〜43
●説教 「神の誉れと人の誉れ」小宮山 剛牧師
 
 先週散髪に行きまして、そこのご主人が私に「ゴールデンウィークは休むの?」といいますので、「いつもと変わらないよ」と答えました。その御主人は、私が牧師だということを知っていてそのように聞いたわけでして、しかも彼は、私がまだその床屋に通い始める前に、うちの教会でコンサートをしたときに来たこともあったそうです。私の「いつもと変わらないよ」という答えは、いつもの通り日曜日には礼拝をするよということです。
 この、いつもと変わらずに日曜日には皆と一緒に主の日の礼拝を守るということは、とても大切なことでして、いつもと変わらずに日曜日には礼拝を守るというのは、たとえ明日、巨大な小惑星が地球にぶつかって地球が滅びることが分かっていても礼拝をするということです。それは、巨大な小惑星どころか宇宙を支配しておられるのが、主なる神さまであることを信じ、その神さまに全てをお任せするからに他なりません。
 
   信じる、信じない
 
 さて、ヨハネによる福音書の続きとなりますが、37節に「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と書かれています。これは目の前にいる人々のことを言っているのではありません。これまでのイエスさまの働きのまとめの言葉です。つまりこれまでヨハネ福音書で様々なイエスさまがなさったこと、語られたことが書き記されてきましたが、結局人々は「イエスを信じなかった」という言っているのです。なんだか徒労に終わったということになり、悲しくなります。
 いっぽう42節を見ますと「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」と書かれています。片方では「イエスを信じなかった」といい、もう片方では「イエスを信じる者は多かった」と書かれている。これはいったいどういうことでしょうか?
 少し前のことを振り返ってみましょう。今読んでいる聖書の箇所は、教会が「受難週」と呼んでいる一週間のことで、この週のうちにイエスさまは十字架に張りつけにされます。その始まりである日曜日、イエスさまがロバの子に乗ってエルサレムに入られたとき、多くの群衆が「ホサナ」「万歳」と言って熱狂的にイエスさまを歓迎しました。それはイエスさまこそ来るべきメシア=キリストであると信じたからではなかったでしょうか。なのに、それから数日経った今日の箇所では、人々は「イエスを信じなかった」という言葉でまとめられています。
 もっと聖書を振り返りますと、たとえば6章では男だけでも5千人もの人々を、たった5つのパンと2匹の魚でもって満腹にさせたという奇跡がイエスさまによって行われました。そのときも人々は、イエスさまを来たるべき預言者であると信じ、イエスさまを王にしようとしました。信じたんです。ところがイエスさまが、ご自身が「天からくだってきたパン」であり、イエスの肉を食べその血を飲まなければ永遠の命はないとおっしゃったとき、人々はイエスさまの言葉を信じることができず、離れて行きました。いったん信じたけれども、イエスさまのお話を聞いて信じなくなりました。
 ちなみに、イエスさまの肉を食べ血を飲まなければ、というのはのちの教会の聖餐式のことを指しています。そしてイエスさまの肉を食べその血を飲むというのは、聖餐式によってキリストの体である教会の一部であることを確認することです。ここで、今年度の逗子教会の標語と重なります。
 また、ちょっと前の箇所、11章には、死んだラザロという人をイエスさまがよみがえらせるという奇跡がありました。その奇跡によって、多くの人がイエスさまを信じました。ところがその後、イエスさまが人々の前で、イエスさまが天に上げられるとおっしゃり、そして今日の箇所の直前である36節で、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」とおっしゃいました。それはつまり、イエスを信じなさい、ということです。ところがそれは今日の37節に続きます。すなわち「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」という言葉です。このときも、いったん信じたけれども、そのあと信じるのをやめた。
 このように、ヨハネによる福音書を読んでいると、人々がイエスさまを信じたり信じなくなったり、ということを繰り返しています。はっきり言いますと、4章に出てくるサマリア人たちを除いて、イエスさまの奇跡を見ると信じる。しかし、イエスさまご自身を信じるように求められると、信じない。そういう繰り返しです。
 これはまるで昔の私を見ているようです。奇跡が起きると信じる。しかし受け入れられないことがあると信じなくなる。また、それと同じような人を何人も見てきました。
 
 イエスさまご自身を信じるとは、どういうことでしょうか?‥‥そのときの「信じる」という言葉の意味ですが、それは「イワシの頭も信心から」というような「信じる」という意味ではありません。「イワシの頭も信心から」ということわざは、イワシの頭のようなつまらないものであっても、信じるという心が大切なのであり、そこに何かのご利益が生じるというものでしょう。しかしでは、イワシの頭を信頼できるか?‥‥と聞かれたら、そんなもの信頼できないに決まっています。そんなものに命を預けることはできません。しかし聖書で言う、イエスさまを「信じる」という言葉は、信頼するという意味です。ゆだねる、という意味です。おまかせするんです。
 たとえば、イエスさまが運転するバスがあったとしましょう。それに乗ることが、信じることであり、信頼するということです。そのバスが、途中、とてつもなく狭い崖っぷちの道を通ったとしても、運転手であるイエスさまを信じて乗り続ける。あるいは、そのバスが砂漠の中を走り、何日も砂漠の中を走り続け、水のあるところが全く見えなかったとしても信頼して乗っている。‥‥そういうことです。
 それがここで言う「信じる」ということです。イエスさまに信頼し、ゆだねるんです。
 
   預言の成就
 
 人々がイエスさまを信じなかったのは、旧約聖書の預言が成就したのだと書かれています。40節を見ると、人々が信じることができなかった理由を預言者イザヤが次のように述べていると言って、イザヤ書6章10節を引用しています。こう書かれています。
「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
 神が人々の心をかたくなにされたので、イエスさまを信じなかった。そのように読めます。これは驚きです。神がイエスさまを信じないようにされたとは、どういうことでしょうか?
 これは、人々が、救いを求めることがなかったということでしょう。救いを求めることがなかった。だからイエスさまのお話を聞いたとき、信じることができなかった。単なるご利益信仰だったのです。その結果、イエスさまのお話が理解できなかった。そして神は人々を放置された。つまり、信仰に至るような聞き方を人々がしなかったんです。
 いっぽう、38節にもイザヤの預言を引用しています。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
 この預言の言葉は、イザヤ書53章1節の引用です。イザヤ書53章と言えば、もう皆さん覚えられたと思いますが、旧約聖書の預言の中でも、もっともストレートにキリストの受難を預言した箇所です。このイザヤ書53章を読むと、イエスさまの十字架がはっきりと見えてきます。そしてイエスさまの十字架の意味が、はっきりと書かれています。たとえば、イザヤ書53章3〜5節を読んでみましょう。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
 この「彼」というのが、イエス・キリストのことを予言しています。キリストが、私たちの神に対する背き、罪を代わりに負って下さった。罪人である私たちを救うために、苦しみを受けられた。‥‥そういうイエスさまの姿が浮かび上がってきます。すなわち、神がお遣わしになったキリスト・イエスさまを信じない人々。そこに見られる人間の罪。その罪を担うために、十字架に行かれる。そういう私たちを救うためにこそ、十字架へ行かれる。
 ですから、人々が「信じなかった」で終わりではない。そういう人々が、本当にキリストを信じるようになるために、救うために、イエスさまは十字架へ行かれました。
 
   主の信仰
 
 加藤常昭先生が、キリスト教放送局FEBCの番組の中で語っておられたことをご紹介します。
 加藤先生が、ある人から「先生は、洗礼を受けて以来、一度も信仰がぐらついたことはありませんか?」と聞かれたそうです。それに対して加藤先生は、「いいえ、自分は信仰がなくなりそうになったことはありません。」と答えたそうです。すると相手はびっくりしたような顔をして、「自分が不信仰だと思ったことは無いんですか?」とまた聞いた。そうすると加藤先生は、「いや、自分の信仰が確かではないと思うことはあるでしょう。けれども自分が立派なしっかりした信仰を持ってるかどうかにすべてがかかっているわけではないから、そんなことはたいした問題ではありません」と答えたそうです。私の心が時にぐらつくことがあっても、神はしっかりと私を捕らえていて下さる。不信仰に勝っていてくださるから、だからそのことをめぐって心配することはありません。‥‥そのように語っておられました。
 自分に目をとめると、そこには弱く、ぐらつきやすい信仰の自分が見えます。しかし目を神に向けると、こんな弱い私をしっかりととらえてくださることが分かります。そのような神さま、そしてとりなしてくださるイエスさまがいらっしゃることを忘れないように、そして感謝し賛美するように、私たちは礼拝をしています。そして、一人になったときも聖書を読み、祈ります。讃美歌を歌うときは声を出して歌い、主の祈りも信仰告白も声を出していたします。
 
   神の栄誉、人の栄誉
 
 42節には、議員の中にもイエスさまを信じる者が多くいたと書かれています。しかし、「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」。そのために、イエスさまを信じることを公に言い表さなかったと書かれています。言うと、イエスさまを信じていることが分かって、会堂から追放される。それを恐れたというのです。それを聖書は、「神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだ」と述べています。
 今日の旧約聖書はサムエル記下6章の、ダビデ王が主の箱の前で裸になって踊ったという箇所を読みました。ダビデ王は、エルサレムを都と定めました。そしてイスラエルにとってもっとも神聖な、神の臨在のしるしである主の契約の箱をエルサレムに運び入れました。そのとき、ダビデはうれしくて、主の契約の箱の前で裸になって飛び上がって踊りました。それを見ていたダビデの妻のミカルは、王たる者がなんと恥ずかしいまねをしたのかと言ってさげすみました。しかしダビデは、主に感謝をして踊ったのだと答えました。ダビデは、人の誉れよりも神の誉れを得ることを選びました。
 ヨハネによる福音書に戻りまして、議員たちの中でイエスさまを信じた人たちは、反対に神の誉れよりも人の誉れのほうを選びました。ここにもイエスさまの運転するバスに乗らない人々がいます。イエスさまの運転するバスに乗るためにはどうしたらよいのでしょうか?‥‥それは「バスに乗る」と口に出して言うことです。つまりそれが信仰を告白する、ということです。
 ローマの信徒への手紙10章9〜10節にこう書かれています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
 洗礼式では、「信仰を告白しますか?」との問いに対して「告白します」と口ではっきりと言います。口で告白することに意味があるんです。それがイエスさまを信じるということです。このぐらつきやすい信仰の持ち主である私を、かみさまにしっかりと捕まえていただく。イエスさまの信仰にあやかる。救っていただくんです。
 そのイエスさまが私たちを導いて、すばらしい世界を見せてくださる。そのことを信じます。