2025年4月27日(日)逗子教会 主日礼拝説教/2025年度主題聖句
●聖書 出エジプト記40章33〜38
    エフェソの信徒への手紙1章20〜23
●説教 「キリストの体である教会」小宮山剛牧師
 
   教皇選挙
 
 ローマ教皇フランシスコが逝去されました。昨日はバチカンのサンピエトロ広場で葬儀が営まれました。世界各国の首脳の他、全世界から25万人の人々が集まったそうです。フランシスコ教皇の死に際して、私も哀悼の意を表したいと思います。
 教皇の葬儀が終わりますと、まもなく次の教皇を選ぶ教皇選挙が行われることとなります。この教皇選挙はラテン語でコンクラーベと呼ばれます。たまたまこの3月に「教皇選挙」という映画が日本でも公開されたことはご存じの方も多いと思いますが、私はその映画を3月の終わりに見に行ったのですね。この映画は封切られて7週間経つのに、いまだに映画動員ランキングの7位に入っているほどですから、意外にもけっこう人気があるようです。それを見るとコンクラーベと呼ばれる教皇選挙は、まさに根比べの選挙なのだということが分かります。見るとけっこうこの世の選挙に似ていました。もちろん、神のご意志を祈り求めながら投票するのでしょうけれども、様々な人間模様が展開されます。
 当教会もこのあと年に一度の教会総会が開かれ、役員選挙があるわけですが、ローマ・カトリック教会以上に神の御心を求めながら臨みたいと思います。
 
   教会はキリストの体
 
 さて本日の聖書箇所は、その教会総会で今年度の主題を決めるわけですが、その聖書箇所といたしました。主題は「教会はキリストの体」です。説教題はいつも私は、道行く人に関心を持ってもらえる題をつけようとして苦労いたしますが、今回の説教題は苦労したあげく、月並みなものとなってしまいました。まあしかし、「キリストの体である教会」って、なんだろう?という関心を持ってもらえれば幸いです。
 そのように、きょうのエフェソ書でも、教会はキリストの体であると述べています。世間の方々の多くは、教会とは教会の建物、すなわち教会堂のことだと思うでしょう。それで教会では、「教会とは、教会堂という建物のことではなくて、礼拝をする集まりのことをいうのだ」ということを繰り返し言っております。そもそも「教会」と訳されるギリシャ語は、「集まり」「集会」という意味ですから、教会とはキリストを信じる群れのことを言う言葉です。ですから、教会とは建物のことではないと言われますし私もそう言っておりました。
 しかし「では教会堂という建物はキリストの体ではないのか?」と聞かれましたら、そうとも言えないと答えることになるでしょう。教会の建物もまたキリストの体の一部であるということです。その理由は後ほど述べます。
 まず、教会がキリストの体であると言ったとき、それはキリストを信じる群れであり、そこに加わっている私たちが、キリストの体を構成していることになります。その場合の頭(かしら)はそこに書いてあります通りにキリストご自身です。その体が私たちです。
 現在、イエスさまは天に昇られた後ですから、その体は天国におられることになります。現在は、キリストの昇天と再臨の間の時代です。ですから、今は、世界に対しては教会がイエス・キリストの見える体となっていることになります。キリストを見たければ教会を見よ!ということになりますね。教会がキリストを証ししていることになります。だからがんばって清く正しく立派になるよう努力しろ!‥‥と、そのように説教するんでしょうか。そのように清貧で、清く正しく、努力して人々のお手本になるようなキリストに似た者になれればいいのですが、なかなかそうはいきません。
 そもそも私たち教会の群れは、どういう群れでしょうか?‥‥私たちは、キリストによって罪をゆるされたものの集まりです。キリストによって愛された者の集まりです。キリストによって選ばれたものの集まりです。清く正しく立派だから選ばれたのではありません。私たちはキリストの愛によって、ゆるされた罪人でしかありません。
 私は子どもの頃から教会に通っていました。その教会は問題の多い教会でした。案内とになりたいなという尊敬できる人もいました。いっしょうけんめい奉仕をする人もいました。しかしそうでもない人もいました。中には文句ばかり言う人もいました。信仰告白をしてからは教会総会にも出席しましたが、教会や牧師に対する批判や文句が飛び出して、とても出席したくなるような総会ではありませんでした。しかしだからと言って、私は教会を離れる気にはなりませんでした。もっとも大学生の時には、行った先の教会の人につまずいて、教会を離れてしまったのですが。神の奇跡によって戻ってきてからは、決して離れようと思いませんでした。それは、そのような困った人や、この世では軽んじられているような人をもキリストは、教会に招かれていることが分かったからでした。そして皆キリストを礼拝していました。そこに希望がありました。
 そういうキリストを証しするのが教会です。がんばってキリストに似た者となれ、と叱咤激励するのではなく、私たち罪人をゆるし招いてくださっているキリストを証しするのです。そしてキリストに似た者となるのは、私たちのうちに働く聖霊の力です。聖霊によって、だんだんとキリストに似た者としていただくのです。
 
   教会に与えられた使命
 
 23節には、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と書かれています。「すべてにおいてすべてを満たしている方」とは、もちろんイエス・キリストのことであり、神のことです。
 『新約聖書ギリシャ語小辞典』の著者である織田昭先生は、この23節を「教会はキリストの体であって、すべてのものを全てのものでもって充填しておられるキリスト、または神、その方の充填物である」と訳しておられます。そしてこの「充填物」という言葉は「詰め物」と言い換えても良いと述べておられます。
 その「詰め物」というのは、たとえて言えばピーマンの肉詰めとか、虫歯で開いた穴をふさぐ詰め物というようなものだと言っておられます。これはたいへん分かりやすいです。ピーマンの肉詰めという料理は、ピーマンの中に肉を詰めなければ料理になりません。確かにピーマンだけでも食べることはできますが、それは肉を詰める入れ物であって、肉を詰めなければピーマンの肉詰めというおいしい料理にならない。
 それと同じように、この世界つまり宇宙は神が造られたわけですが、その宇宙と世界は入れ物です。ではその世界という入れ物に、なにを詰めるかというと、キリストの体である教会だというわけです。これはあまりにも大きなことで、本当にふしぎなことに思えます。しかし考えてみますと、神さまがなぜ世界をお造りになったか。それは、たとえば庭師が庭に木を植えたり石を置いたりして、その庭を観賞するためではありません。神さまが世界をお造りになったのは、その世界の中に神がお造りになった被造物(それは私たち人間を含みますが)がキリストを信じ、礼拝して賛美し、神の御心に従って生きるようになるためです。そのための入れ物がこの世界です。
 そうすると、この世界の中で、キリストを信じ、神を礼拝賛美して神の御心に従って生きようとしているのは誰でしょうか?‥‥それは教会です。キリストの体なる教会です。そのキリストの体である教会が、この世界の詰め物だというわけです。早く言えば、教会がないとピーマンの肉詰めの肉がないのと同じことになる。この世界、この宇宙は、入れ物だけで、中身がないことになってしまいます。世界の存在する意味がなくなるのです。中身がなければそれは空虚です。虚無です。
 ですから、キリストの体である教会があって、初めてこの神がお造りになった世界は意味が与えられる。世界は意味を持ったものとなるんです。言い換えれば、世界は教会にならなければならないのです。それによって全宇宙が作られた意味が生じます。
 教会って、そんなにもすごいものなんです。あらためて驚かされます。そんなにもすごいものが教会。それゆえ21節では、キリストを「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」と述べ、キリストを永遠にすべてのこの世の力の上に置かれたと言っています。この世の国や権力が存在したとしても、キリストの体である教会が存在しなければ、この世界は無意味なものとなるんです。全世界、宇宙を造られた真の神を礼拝し、その御心に従うキリストの体なる教会がなければならないのです。
 私たちはこのことに心を打たれます。そのように世界に意味を与えるために、この罪人である弱く小さな私たちを主は招かれたのだということにです。それゆえ私たちが礼拝をするということは、そして教会に連なっているということは、この世界を成り立たせる詰め物となっているということです。私たちキリストを信じて礼拝する者が、神の造られた宇宙に意味を与えているということです。
 
   教会堂もキリストの体の一部
 
 さて、最初に申し上げましたが、教会とは教会堂という建物のことではなくキリストを信じて礼拝する者の集まりのことを言う、という言葉についてです。これは第一義的にはそのとおりなんですが、では教会堂もキリストの体だと言ってはダメなのか?と言えば、そうではないと私は申し上げたいと思います。
 とかくプロテスタント教会では、目に見えるグッズを撤去して、教会堂も殺風景という傾向があります。しかしだからと言って、教会堂には神聖な意味がないのかと言えばそうではありません。
 私の前任地の教会で、あるとき全く見知らぬ大柄な男の人が入ってきて、「礼拝堂はどこですか?」と言いました。その教会では2階が礼拝堂で、靴を上履きに履き替えて上がってもらう建物でしたから、そのようにして案内しました。来た理由をなにも言わなかったので、「何者かな?」と、ちょっと不審に思いました。しばらく経っても降りてこないので、心配になって2階の礼拝堂に行ってみました。するとその人は、十字架の聖壇に向かってひれ伏してお祈りしているではありませんか。その姿勢に、誠に聖なるものを感じました。そして私はまた下に降りました。しばらくして彼も降りて来て「ありがとうございました」と礼を言って去って行きました。後で礼拝堂に行ってみると、献金かごにちゃんと献金がしてありました。
 わたしはそのことを思い出します。教会堂という建物があり、十字架のついた聖壇があるからこそ、そこは聖なる祈りの場となるということを強く思いました。もちろんそれは、教会堂でなくても、家でもどこでも聖なる祈りの空間となります。だからどこで祈って礼拝しても良いのです。しかし一般の方が、切なる思いを持って祈りをささげたいときに、教会という建物に来て、十字架の前でひざまづいて祈る。そのとき教会堂もまたキリストの体の一部であると言えると思います。教会堂は、私たち信徒の聖なる献げ物によって建てられたのです。そして献堂式を行って、神のもの、キリストのものになったのですから、それはキリストの体の一部です。
 その教会堂を掃除する清掃当番の方がいます。清掃当番ではなくても、自由に来て掃除をされる方がいます。またなにかの時にきれいに掃除をされる方がいます。それらの兄弟姉妹が会堂を掃除するのは、単に建物を掃除しているのでしょうか?‥‥そうではないでしょう。私には、キリストの体をきれいにして差し上げているのだと見えます。尊いことです。
 この私たちもキリストの体の一部とされている。そしてそのことが、この世界の全てを満たしておられる神とキリストのものとして、世界に意味を与えている。それどころか宇宙に意味を与えている。とんでもなく大きなことに用いられています。恐れをもって感謝しつつ、信仰生活に励みたいと思います。