2025年4月13日(日)逗子教会 主日礼拝説教・棕櫚の主日
●聖書 詩編119編105
    ヨハネによる福音書12章27〜36
●説教 「光あるうちに」小宮山剛牧師
 
   棕櫚の主日の民衆
 
 本日は教会暦で「棕櫚の主日」です。イエスさまがエルサレムの都に入られる時、民衆が勝利をあらわす棕櫚の葉(なつめやしの葉)を持ち「ホサナ」万歳、と歓声を上げて迎えたことを記念する日です。この礼拝説教では、ちょうど先々週にその箇所を読みました。そしてこの日は受難週の初めの日であり、この週の金曜日の朝に、イエスさまは十字架という処刑台にかけられ、死んで墓に葬られます。そのように、人々の大歓声をもって迎えられたイエスさまが、急転直下のごとく十字架にかけられるという、非常に緊迫した一週間の始まりの日です。
 話しは変わりますが、このところ新聞やテレビのニュースで毎日大きく取り扱われているのが、いわゆる「トランプ関税」です。アメリカの大統領になったトランプさんが、このたびアメリカに輸出する世界各国に対してたいへん高い関税を課すという決定をしたことで、世界が大混乱しています。そして連日のトランプさんの発言によって、世界中の国の株価が乱高下しています。つまり、それだけアメリカという国は大きな市場であり大国だということが分かります。そしてトランプ大統領は、これまでの同盟国関係よりも、一国主義、アメリカ・ファーストを大事にする。それは、第一に自国民が食っていけるようにし、満腹させるための政策をとっているということです。
 そういうわけで日本にも高い関税がかけられるということで、日本も動揺しています。日本の主力産業である自動車産業も、たいへんな打撃を受けることが予想されています。自動車だけではない。円安もあって、多くの日本製品がアメリカに輸出され、利益を得ている。つまりそれで暮らしている人々がいるわけです。生活に直結するといってもいいでしょう。ですから、連日のトランプさんの動向が大きく報道されるわけです。いっぽうでミャンマーの大地震のニュースなどはたちまち小さな記事となっています。
 このことが棕櫚の主日とどういう関係があるのかということですが、関係があるんです。先々週、この礼拝説教で棕櫚の主日の箇所を読みました。そのとき多くの人々が棕櫚の葉を持ってイエスさまを迎え、歓迎の叫びを上げました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(12:13)
 すなわち、イエスさまを新しい王になられる方であると期待していたことが分かります。その新しい王がメシアと呼ばれます。この当時ユダヤの人々は、ローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人独自の神殿税などの他に、ローマ帝国が課したさまざまな税金に苦しんでいました。とくに徴税人が集める税金は、彼ら独自の金額が上乗せされ、重い負担となっていました。そういう時代に、奇跡としるしを行うイエスこそ旧約聖書で預言されていたメシアではないかという気運が高まりました。つまり王となって生活を楽にしてくれるという期待感が第一にあったと思われます。そしてこの直前に、死んだラザロという人をイエスがよみがえらせたという奇跡が行われた。すると、人生わずか40年という時代、つねに死に直面して生きていた人々に命を与える神の人という期待が加わりました。あの旧約の列王記に搭乗するエリヤとエリシャのような大預言者が現れたと信じる宗教的理由からイエスさまを支持する人々です。そしてさらにそれに、熱心党と呼ばれるような民族主義者も加わったでしょう。この人たちは、神から選ばれた民であるユダヤ人が、異教徒であるローマ人に支配されていることを忌み嫌う人たちです。
 そのように、棕櫚の主日にイエスさま万歳といって歓迎した人々は、イエスこそ生活苦を救ってくれる王だと期待する人、癒やしと命を与えてくれる大預言者が王となってほしいという宗教的理由から支持する人々、そして民族主義者が期待する民族解放闘争のリーダーとして期待する人たちがいたと思われ、イエスさまを歓迎する人々の思惑はそのように様々でありました。それらが一体となって、イエスさまを歓迎しました。しかし第一の理由は、イエスさまがたった5つのパンと2匹の魚によって大群衆のお腹を満腹になさった奇跡、そのとき多くの人々がイエスさまを王にしようとしたように、やはりこの生活の現状をなんとかして救ってほしいという経済的理由であったに違いありません。いつの時代もそうです。今日も国民が首相や大統領に期待することも、第一に「我々が食っていけるようにしてくれ」です。
 
   地から上げられる
 
 ところが、きょうの聖書箇所を見ますと、民衆の期待の中エルサレムに入ったイエスさまが、31節で「わたしが地上から上げられる」ということをおっしゃった。それで人々は、びっくりしました。‥‥おいおい、せっかく王になるためにエルサレムの都に入られたのに「上げられる」すなわち天国に引き上げられるというのはいったいどうしたことか? 王になってわれわれの生活を楽にしてくれるのではなかったのか?天国に行ってしまわれるって?あのエリヤが天から迎えに来た火の馬車に乗って天国へ行ってしまったように?それは困る‥‥そういう困惑です。34節の「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました」という人々の反応は、そこのことをあらわしています。
 「律法によって」聞いてきたという、その「律法」というのは旧約聖書のことです。どこにメシアは永遠におられると書いていあるかというと、おそらくイザヤ書やダニエル書、そして旧約聖書続編の中の書物の中に書かれている預言のことを指しているのでしょう。しかし一方ではイザヤ書には、53章に書かれている預言があります。そこに書かれているのは、メシアが苦しみを受けて死なれることが書かれている。すなわち人々の罪を贖って死なれるメシアのことが書いてある。しかしそこは読み飛ばしている。自分たちに都合の良いメシアを作り上げていると言えます。だからイエスさまの言葉が理解できませんでした。
 こうして、期待と興奮で棕櫚の葉を持ってイエスさまを歓迎した群衆の中に、戸惑いのようなものが生まれていくこととなります。自分たちを食わせてくれるメシア、いつまでも地上にいて死人をよみがえらせ、病気を癒やし続けてくれるメシア、あるいは民族主義者熱心党のように、ローマ帝国からの独立戦争のリーダーとなって戦う革命家としのメシア‥‥そのようないくつかの異なる期待を持っていた人々みんなを困惑させているイエスさまの言葉です。
 しかし、イエスさまが32節で「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃったことについて、ヨハネ福音書は続く33節で「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」と書いています。するとこの「上げられる」という言葉の意味は、一つには十字架に上げられる、すなわち十字架につくという意味になります。そしてもう一つ意味があります。それは、十字架に上げられて死んで墓に葬られたあと、天に上げられるということ。この二つの「上げられる」という意味が込められている。
 そしてそのとき「すべての人をご自分のもとへ引き寄せる」とおっしゃる。私たちをイエスさまのもとに引き寄せてくださる。救われるんです。私たちの罪を赦し、神の国のイエスさまのもとに引き寄せてくださる。本当のメシア、キリストであるイエスさまの救いというものは、そういうものでありました。私たちと神さまとの間を隔てる私たちの罪。これが解決されなければ、私たちの未来がないからです。イエスさまはその私たちの罪を担い、十字架に上げられる。そして私たちが神さまの所に行くことができるようになるために、天に上げられる。そしてそこから聖霊が降り、この地上にいながら聖霊によってイエスさまと共に歩むことができるようになる。
 この絶対の救いの道を開くためにイエスさまは十字架に上げられて死ぬ。そして復活を経て天に上げられる。そのことをおっしゃった。しかしこの時そのことを理解した人は誰もいませんでした。イエスさまの弟子たちでさえも、理解していませんでした。しかしイエスさまは、人々のその無理解の中をひたすら十字架に向かって進んで行かれる。一粒の麦となって命を献げるために進んで行かれる。それが棕櫚の主日から始まる受難週のイエスさまの姿です。
 
   栄光
 
 きょうの箇所の最初の27節で、イエスさまは「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃいました。そして、「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」と父なる神さまに祈られました。イエスさまが十字架の時を前に心騒ぐとおっしゃる。そして父なる神に祈られる。‥‥これは、イエスさまの十字架の前の晩のゲッセマネの祈りを思い出させます。人の子として来られた神の子イエスさまが、十字架にかけられて命を落とすという出来事を前にして、心騒ぐとおっしゃっている。これは十字架の死が恐ろしいということをおっしゃっているのではありません。十字架の前には、祭司長や宗教家など議会の議員たちがイエスさまにこじつけの罪を着せて死刑を宣告する、唾を書きかけ、殴りつける。神の代理であるはずの人たちが神の子イエスさまをそのように扱う。そういう人間の罪の生々しい現場を見なければならない。そして、イエスさまの弟子たちがイエスさまを裏切り、見捨てる。そういう人間の罪の最も見たくないものを見ることになる‥‥。イエスさまが心を騒がせられるお気持ちも分かります。
 すると天から声があった。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(28節)‥‥天の父なる神さまの声です。
 「わたしはすでに栄光を現した。」‥‥最初に「栄光を現す」という言葉が出て来たのは、このヨハネによる福音書でどこだったでしょうか。それはイエスさまがなさった最初のしるし、ガリラヤのカナでの婚礼の席でのことでした。婚宴で足りなくなったぶどう酒を補充するために、水をぶどう酒に変えるという奇跡をなさいました。このことを聖書は、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行ってその栄光を現された」(2:11)と書いていました。
 そうすると、イエスさまがなさってきたしるし、すなわち奇跡は、全て栄光を現すものであったことになります。水をぶどう酒に変えて婚宴という若い夫婦の祝いの席を続けられるようになさる。町の人々から後ろ指を指されて生きていたサマリアの女を回心させ、人々をキリストに導く者へと変えられる。役人の息子の病を癒やす。ベトザタの池で38年間、すなわち人生の大半を寝たきりで生きてきた病人を癒やす。少年の提供した5つのパンと2匹の魚でもって万余の人々の空腹を満たされる。湖が荒れてこぎ悩んでいる弟子たちの舟の所に湖の上を歩いて近寄り助ける。姦通の罪を犯したために皆から石を投げられて死刑になるはずの女を救われる。生まれつきの盲人の目を見えるようにする。死んで墓に葬られて4日も経つラザロをよみがえらせる。‥‥そういったしるしは、栄光でありました。
 栄光という言葉のギリシャ語は「光を輝かせる」という意味の言葉です。たしかにそれらのしるしは、それらの人々に光を輝かせるものでした。イエスさまが光り輝くものでした。
 そして天の父の言葉は、「わたしはすでに栄光を現した」に続いて、「再び栄光を現そう」と言われました。再び栄光‥‥これはイエスさまの十字架と復活を指していました。十字架でイエスさまが死ぬことが栄光。すなわち、光を輝かせるものである。なぜイエスさまが十字架で死ぬことが光を輝かせるものなのでしょうか?
 先週の日曜日の午後、映画「パッション」の鑑賞会を開きました。開催を決めたのが遅かったので、お知らせするのが遅くなり申し訳なかったのですが、この映画は俳優でもあるメル・ギブソンが2004年に監督として作った映画で、イエス・キリストの最後の12時間を描いています。つまり、ゲッセマネの園でのイエスさまの逮捕から、真夜中のユダヤ人議会での裁判、そしてローマ総督ポンテオ・ピラトの前での裁判と鞭打ち、十字架の判決、そして十字架の道行きを進み、ゴルゴタの丘での十字架の処刑に至る。それらが、それまでの映画にはないリアルさと生々しさで描かれています。その鞭打ちの刑の残酷さは、こちらの胸が締め付けられるほどです。そして十字架につける判決が出て、引き出され、イエスさまの目の前にこれから担いでいく十字架が置かれる。そのとき、映画ではイエスさまがその十字架の横棒を抱くんですね。しかもいとおしそうに。その場面がこちらです。(映像)
 すると、同じく十字架につけられる他の犯罪者がイエスさまに言います。「なぜ十字架を抱きしめる?」と。しかしこの場面こそ、メル・ギブソン監督が強調したかったことだと思いました。イエスさまが、この十字架を担ぐ、そして十字架に張りつけにされることを待っておられた。ついにこの時が来た。父なる神が栄光を現す時が来た。そのようにして十字架の横の棒を抱きしめたイエスさま。
 なぜ十字架が栄光なのか。屈辱であるはずの十字架が、なぜ栄光と言われるのか?‥‥それは愛の光が輝くからです。私たちひとりひとりを救うためにご自分の命を投げ打ってくださる。神の子である方が、私たちを救うために命を投げ打たれるという愛です。この究極の愛。それが十字架で輝く。私たちを救うための愛の輝きです。その栄光です。
 
   光あるうちに
 
 聖書に戻りまして、天の父なる神さまの声を聞いた人々には、「雷が鳴った」と思った人と、「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った人がいました。天使が話しかけた声だと思った人は、幸いです。なぜなら旧約聖書の時代は、神さまの声は天使を通して語られると信じられていたからです。
 真剣に神を求める人には、神の声として聞こえます。聖書を読んでも、神を求めない人が呼んでも、単なる本に印刷された言葉にしか聞こえません。しかし神を求め、救いを求める人が読むと、それがやがて神の言葉として聞こえてきます。
 イエスさまは、36節で「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」とおっしゃいました。光のあるうちに。この光はイエスさまの光のことです。もちろんイエスさまの光は、いつもあります。しかし人がその光に気がつくチャンスは、人生のうちに何度あることでしょうか。人の人生の歩みの中で、何度か救いを求める思い、神を求める思いになることがあるはずです。それはイエスさまの光が射したのです。そのようなときに、ぜひとも光を求め始めてほしい。そして光に出会ってほしい。キリストのもとに来てほしい。そのように思います。そのチャンスを逃したら、次は光を求めるようになるのは、いつになることでしょうか。
 「光のあるうちに、光を信じなさい。」私たちに射し込む光。そのキリストの愛の栄光、輝きに照らされて歩みたいと思います。