2025年4月6日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 イザヤ書53章11
    ヨハネによる福音書12章20〜26
●説教 「一粒の麦、万粒の実」小宮山剛牧師
 
 昨日は誠行社にて小谷美江子姉の葬儀を執り行いました。当教会70周年記念証言集によりますと、小谷姉は関西出身のお父さまが戦後小樽に会社を設立し、小樽に住みました。全く知らない土地で良い友人と出会い、教会に通うようになり、深い考えもなく二人で一緒に小樽教会にて洗礼を受けたということです。その後、小谷兄は関西に戻られ、ご結婚されました。そしてこう書いておられます。「子育てに追われ、教会から遠ざかりましたが、常に心の中に神さまがおられ救われ感謝していました。」その小谷姉は2013年に当教会に転入会され信仰生活を続けられました。
 子育てで教会から遠ざかっていたときも、信仰が失われたのではなく、常に心の中に神さまがおられ、救われていた。教会から遠ざかっている方というのは多くいるように思いますが、神さまはその人のことを忘れられたのではない。再び導いて、教会の交わりに戻ってこられる。そのようなことを思いました。
 
   時が来た
 
 さて、ヨハネによる福音書ですが、きょうの箇所でイエスさまが「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)とおっしゃっています。これは注目に値する言葉です。なぜなら、これまでイエスさまは、「わたしの時はまだ来ていない」ということを繰り返しおっしゃっていたからです。
 例えば、第2章のカナの婚礼の出来事の時、イエスさまは母マリアに対して「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」(2:4)とおっしゃいました。それから7章でも「わたしの時はまだ来ていない」(7:6)とおっしゃっています。同じ7章の30節でも、人々がイエスさまを捕らえようとした時に、捕らえられなかったと書かれていまして、その理由について「イエスの時はまだ来ていなかったからである」(7:30)と書かれています。同じようなことは、8章のエルサレム神殿の境内での出来事でも書かれています。
 そのように、イエスさまの時はまだ来ていないということがこれまで繰り返し書かれていました。ところが、きょうのところではイエスさまご自身が「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃっている。これはただならぬことだということが分かります。これまでヨハネによる福音書に従って、イエスさまの歩みを共にして来ましたが、ついに時が来たか!‥‥という思いがいたします。
 しかしその「時」というのは、なんの「時」のことなのか?‥‥おそらくこの言葉を聞いたイエスさまの弟子たちもよく分かっていなかったでしょう。先週の箇所で、イエスさまがエルサレムに入られる時に多くの群衆がイエスさまを歓迎し、「ホサナ」と言って歓喜の声を上げた。それは、イエスこそ国と私たちを救ってくれる新しい王、メシアであると思ったからでしたが、弟子たちも同じように思っていただろうと思います。ローマ帝国打倒のために決起する時です。そしてエルサレムで王座に就く。イエスさまが「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃったのは、その時が来たのだ、と弟子たちも勘違いしたことでしょう。
 しかし私たちは知っています。これまでもここで申し上げてきましたように、「人の子が栄光を受ける時」というのは、実はイエスさまが十字架にかけられる時のことだったのです。それがなぜ「栄光」と言われるかというと、イエスさまが十字架で命を献げることによって、私たちの罪が赦されて救われるからです。イエスさまは、ご自分の命を捨てても、私たちが救われることを「栄光」とおっしゃっている。何という愛でしょう。いよいよその時が来たんです。いよいよです。教会暦でも、ちょうど来週は受難週。これもまた偶然とは思えません。
 
   世界宣教
 
 さて、しかし興味深いのは、なぜイエスさまが今日の箇所で「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃったのか、ということです。すると、最初から読むと、過越の祭の時に神さまを礼拝するためにエルサレムに来たギリシア人がきっかけであったことが分かります。ギリシア人がユダヤ人の過越の祭を守るためにエルサレムに来て、イエスさまの弟子の一人のフィリポに、イエスさまに会いたいと言った。それがきっかけであったと言います。
 まず、ギリシア人にもユダヤ人の信仰をもっている人がいたことが分かります。ユダヤ人は、とくにバビロン捕囚以降、世界各地に散らばって住んでいる人が多くいました。そしてユダヤ人は外国に住んでも同化せず、自分たちの宗教、つまり旧約聖書の宗教を守り続けました。律法を守り、その信仰を守り続けました。ですから、現地の人たちからは嫌われることも多かったのです。ただひとりの天地創造の神さまだけを拝んでいましたので、現地の神々を拝まなかったからです。
 しかし逆に、ユダヤ人は倫理道徳という面ではたいへん優れた人たちでした。律法に従って生きていたからです。たしかに今日でも、例えばエルサレムに行きますと、ユダヤ人が住んでいる地区というのは、ゴミも落ちておらず、女性が夜中でもひとりで歩けるということでした。しかしアラブ人地区に行きますと、ゴミが散らかっています。
 しかし誤解のないように申しますと、アラブ人も人は良いんですね。真夏のエルサレム、私たちが街を歩いていて、ペットボトルの水がなくなっているのを見ると、道端にたむろしていたアラブ人のひとりが、サッとペットボトルの水を差し出しました。くれると言うんです。困っている人がいれば助ける。そういうことが自然に出てくるんだなあと思いました。ユダヤ人も困っている人がいれば助けます。とくに障害を持った人とか、貧しい人にはとても親切です。とくにユダヤ教では、イエスさまの時代までには一夫一婦制が原則となっていました。これは上流階級では多くのおめかけさんがいるのが当たり前であった当時の世界で、その上流階級の女性たちがユダヤ教にひかれていたそうです。
 そのように、ユダヤ人の倫理道徳の高さに感銘を受けて、ユダヤ教を信じる外国人たちがいたのです。きょうのところで、イエスさまに会いたいと言ったギリシア人はそのような人たちだっただろうと思います。
 それを聞いたイエスさまが、「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃった。ついに時が来たという。いったいギリシア人がイエスさまに会いたいということと、十字架の時が来たというのは、どういう関係があるのでしょうか?
 それは、ギリシア人だけではなくて、そこに世界の人々のことを見られたのでしょう。ギリシアの向こうのローマ、そしてヨーロッパ、南に行けばアフリカ、東に行けば、アジア、中国、日本‥‥と、そのようにご覧になったのでしょう。つまり世界の人々の救いが求められている。そのことを、このギリシア人がイエスさまに会いたいと言ったことによって、時が来た、世界の民の救いをなすべき時が来たと言われた。そのように思います。
 そして世界の民の救いは、言うまでもなく、イエスさまが十字架にかかることによってのみ成し遂げられることです。
 
   一粒の麦
 
 そしてイエスさまはおっしゃいました。(24節)「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 これはクリスチャン以外の方々にもよく知られている言葉です。ある人の死が、感銘を呼び起こし、多くの人の生き方に影響を与えるようになった、という意味で使われたりします。
 ここでは人間が「麦」にたとえられています。日本人にとっては麦よりも「稲」、つまり米の方がなじみかも知れません。麦で言えば、麦の種は畑に蒔かなければ、一粒のままです。しかし畑に蒔きますと、それが地中で芽を出し、成長し、やがて穂をつけて多くの実を結ぶようになる。その時、畑に蒔かれた一粒の麦は形がなくなっている。つまり畑に蒔かれて死んだわけです。しかしそれは、多くの次の麦の実を結ぶ。
 これはまずイエスさまご自身のことを言っています。これから十字架への歩みを進まれるイエスさま。十字架で死なれます。それはまさに一粒の麦が地に落ちて死んだようなものです。しかしイエスさまの死は、多くの人々の救いという豊かな実を結ぶことになる。ギリシア人もアジア人も、ヨーロッパ人も。世界の民が救われることになる。神さまにお目にかかれることとなる。しかしそれは、イエスさまが十字架で死ぬ、一粒の麦が地に落ちて死ぬということによってなされること。‥‥そのことを指しています。
 
   自分の命
 
 さらに続けてイエスさまはおっしゃいました。(25節)「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
 これを読むと、なにか自分の命を愛することを否定するようにも読めます。反対に自分の命を憎むことを奨励しているようにも読めます。そうすると自殺を奨励しているような印象を受けます。いったい何をおっしゃっているのでしょうか?
 もちろん自殺を奨励しておられるのではありません。私たちの命は神さまによって与えられた尊い命です。そのことは創世記の第2章を読めば分かります。十戒にも「殺してはならない」と命じられています。自殺を奨励しておられるのではないことは明らかです。
 では、たとえば殉教を奨励しているのでしょうか?‥‥たしかに、イエスさまの昇天後、聖霊によって誕生した教会は、世界に向かってキリストを宣べ伝えていきました。やがてローマ帝国は、キリスト教を迫害するようになりました。そのような中で、多くの殉教者が出ました。イエスさまの12使徒のうち、11人までがキリストを宣べ伝えたことによって命を落としました。しかしそれらの使徒たちや、殉教者たちは、死ぬためにキリストを宣べ伝えたのではありません。ではここでイエスさまがおっしゃっていることはどういうことでしょうか?
 ここで洗礼の意味について書いてある聖書箇所を読んでみましょう。ローマの信徒への手紙6章4節です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
 洗礼は、キリストと共に古い自分に死ぬことです。そしてキリストの復活にあずかる。すなわち、キリストによって与えられた新しい命に生きることです。私たちは、洗礼を受けた時に、古い自分に死んでいるんです。古い自分とは、罪に基づく欲望によって生きることです。それがここで言われている「自分の命を愛する者」ということです。自分中心に、自分のこの世の欲望を満たすことを求めて生きる。かつての私もそうでした。しかしキリストと出会ってから、そのように生きるのではなく、キリストの御心を求めて生きる、キリストと共に生きる道のあることを知りました。それが「新しい命」です。そしてそれは永遠の神の国に続く命です。
 まさにその新しい命を私たちに与えるために、イエスさまは一粒の麦となろうとされている。それが十字架です。
 26節でイエスさまは「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」とおっしゃっています。イエスさまに仕える。イエスさまを信じて、イエスさまに従っていく。その時、父なる神さまは、私たちを大切にして下さるといわれます。私たちは神さまに大切にされるんです。困難の中でも、苦しい中でも。今私たちが、イエスさまに仕えようとしているならば、父なる神さまは私たちをたいせつにして下さる。主イエスに仕えてまいりたいと思います。