2025年3月30日(日)逗子教会 主日礼拝説教
●聖書 ゼカリヤ書9章9
ヨハネによる福音書12章12〜19
●説教 「子ロバに乗るイエス」小宮山剛牧師
正義を建前にする謀略
逗子教会の横を流れる田越川沿いの桜も開花し、本格的な春の到来を感じさせてくれます。
最初に、前回の聖書箇所で触れなかった11節12節を見たいと思います。こちらは桜の開花とはほど遠い、人間の罪のその深い暗闇を感じます。そこに出て来るのは祭司長たちです。祭司長たちは、エルサレムの神殿における礼拝を管理する人たち、つまり宗教者のうちでも偉い人たちです。この人たちが、イエスさまだけではなくラザロをも殺すことを相談しました。それはなぜか?‥‥イエスさまが死んだラザロをよみがえらせたことによって、多くの人々がイエスさまを信じるようになったからだというのです。
たいへん恐ろしいことです。イエスさまばかりか、イエスさまが奇跡を行った証拠であるラザロも抹殺するという。そんな恐ろしいことをたくらむのは、凶悪なテロリストか独裁国家の独裁者のようです。
しかもやっかいなことに、彼らはイエスさまとラザロを抹殺することが正しいことだと信じているんです。それはちょっと前にも出てきましたが、群衆がイエスをメシアと信じて、新しい王にしようとして暴動を起こすかも知れない。そうすると支配者であるローマ帝国が黙っていない。軍を派遣して戦争となり、多くの国民が死ぬし、神の住まいである神殿が破壊されるに違いない。‥‥そうならないためには、イエスとラザロを消さなければならない。それが国民と国を守る正しい選択だ。‥‥そう考えていました。人を殺す上になりたつ正義とは、いったいなんなのでしょうか。恐ろしい正義です。
そういう緊迫した状況のまま、きょうの聖書箇所に入ります。
歓迎する群衆
きょうの聖書箇所は、都であるエルサレムに入城されるイエスさまのことが書かれています。過越祭というユダヤ人にとってたいせつな祭り。その過越祭をエルサレムで守るために、国の内外から多くのユダヤ人がすでに集まっていました。ユダヤ人は、当時から世界各地に住んでいました。その海外にいるユダヤ人も、かなりの人が過越祭を祝うためにユダヤに戻ってきていました。その結果、過越祭のときには、ふだんは数万人というエルサレムの人口が、何倍、何十倍にも膨れ上がるという状態でした。
イエスさまがエルサレムの都に入られる時、そういう人たちも加わって、多くの人がイエスさまを歓迎しました。その理由は、17節に書かれていますが、イエスさまが死んだラザロをよみがえらせたという奇跡について聞いたからでした。それで人々は、イエスこそ救い主メシアであると思いました。それで人々は、なつめやしの枝を持ってイエスさまを歓迎しました。
なつめやしの枝と葉は、王様や将軍が戦争で勝って戻ってきた時に、その勝利を祝い、祝福することをあらわしました。ですから、イエスこそ救い主であり真の王であると信じて歓迎したのです。
ちなみにこの「なつめやし」ですがこれまでの聖書はこれを「しゅろ」と訳していました。この横の鉢にも棕櫚が植わっていますけれども。今年は4月13日に迎える受難週の最初の日は教会暦で「棕櫚の主日」と呼ばれますが、このことから来ています。それがなぜ「なつめやし」になったのかと言えば、現地に生えているのは棕櫚ではなくなつめやしだというのが正しいからだそうです。しかしそうすると「棕櫚の主日」が「なつめやしの主日」と改めなければならないことになってしまいます。私は、なつめやしも棕櫚も、同じヤシ科の植物だそうですから、「棕櫚」のままでよいのではないかと思います。余分なことを申しました。
イエスさまを迎えた群衆は、なつめやし、棕櫚の葉を振って叫び続けました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。」(13節)
この「ホサナ」というヘブライ語は、日本語で「万歳」というように訳されます。祝福あれ、という意味です。しかしもともとの意味で言うと、「どうかお救いください」という意味です。つまり、この方こそまことに王であり救い主であると信じて「救ってください」という気持ちをこめて祝福しているんです。王や英雄に対する期待です。ここでは群衆は「イスラエルの王に」と叫んでいますから、イエスを真の王と信じて期待しているわけです。
その理由は、先ほど述べましたが、ラザロをよみがえらせたからです。そして同時にこれまでイエスさまがなさってきた、数々の奇跡、しるしについて聞いたことでしょう。ですから、イエスという方は単なる政治的な王なのではなく、死人をよみがえらせることのできる大預言者でもある、神の人であるという賞賛の声がこのホサナに込められています。
当時は平均年齢が40歳にも満たないような時代です。病気になればほとんどなすすべもない。死が身近にある。死の陰を感じながら生きている。ですから、イエスさまが死人をよみがえらせたというしるしは、人々を一気に期待と興奮のるつぼと化したに違いありません。
旧約聖書でも、死人をよみがえらせた預言者がいます。それは列王記に出て来るエリヤとエリシャです。そのエリヤとエリシャのような力を持った預言者であり、同時に救い主としての王。見たことのない比類なき存在です。その方が今、都であるエルサレムに入ろうとされている。この方を王として立て、支配者であるローマ帝国に反旗を翻すのだ‥‥。そのように盛り上がったことでしょう。
ロバの子
そのときイエスさまは、ロバの子に乗ってエルサレムに向かわれたと書かれています。弟子たちは、なぜイエスさまがロバの子に乗って行かれたのか、分からなかったと書かれています。
聖書は、ロバの子に乗られたのは聖書の預言の成就なのだと述べています。それが15節で、その言葉は旧約聖書のゼカリヤ書9章9節の言葉です。
(ゼカリヤ 9:9)"娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。"
なお、ヨハネ福音書では「歓呼の声を上げよ」という言葉が、「恐れるな」に変わっていますが、説明は省略いたします。
「娘シオン」というのは、都市はヘブライ語では女性名詞なんです。その住民もです。だから「娘」といわれています。すなわちそれは、神の民よ、というような意味です。そして、喜んで大いに踊れ、という。それはあなたの王がロバの子に乗ってやってくるからだと。そう預言しています。
王がロバの子に乗ってくる。ふつう、王が都に凱旋する時は、きらびやかな甲冑鎧を身にまとって馬に乗り、騎兵隊や戦車隊、多くの歩兵を従えて入場します。馬です。しかしイエスさまは、庶民と同じのみすぼらしい身なりで、ロバの子に乗ってシオン、エルサレムに来られる。馬に乗ると高いところから見下ろす形になりますが、ロバは馬より小さい。そしてロバの子はさらに小さい。ですからそれに乗っても、まわりで立っている人々と同じ高さの目線になります。そういうへりくだった王だというのです。
さらにこの王がどういう王かというと、15節で引用しているゼカリヤ書9章9節の次、10節にこう書かれています。
(ゼカリヤ9:10)"わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。"
いかがでしょうか。これは人々が期待している、軍を率いてローマ帝国を打倒する王というイメージとは全然違いますね。逆です。戦車や軍馬を無くすというのです。そして諸国の民に平和が告げられる。戦争ではなく平和です。ロバの子に乗ってやってくる新しい王は、そういう王であると預言しているのです。
ですから、人々の歓呼の中をロバの子に乗られたイエスさまは、人々に対して、あなたたちの期待している者とは違うよ、ということを暗に示しておられるのです。ローマ軍と戦争する王ではない。逆に平和をもたらすのだと。そのことをお示しになっています。
平和とはヘブライ語では平安のことでもあります。平和は平安です。本当の平安というものは、神が共にいて下さること以外にはありません。ですから、イエスさまによって、神が共にいて下さるようになる。そのためには私たちの罪を贖う必要がある。罪から救う必要がある。それでイエスさまは十字架へ向かわれるのです。私たちの罪を身代わりとなって、負って下さるためです。そうしてはじめて、神が私たちと共にいて下さるようになる。平和、平安が訪れます。
イエスの栄光
もう一度16節を見てみます。「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。」
ここで「イエスが栄光を受けられたとき」というのは、イエスさまの十字架と復活のことです。復活によって十字架が栄光となりました。十字架という残酷な死刑台が栄光。それはおかしなことに聞こえます。それは栄光ではなく、恥であり、屈辱ではないのかと。しかしその十字架が、先ほど申し上げましたように、私たちの身代わりとなって罪と滅びから救うためであった。その身代わりの愛。それゆえ、十字架はイエスさまの愛の結晶となります。愛の栄光です。ロバの子に乗られたその歩みの先は、その十字架の愛に至ります。それゆえそれは栄光と呼ばれます。本当の栄光です。
そうすると、群衆が「ホサナ」救い給え、と言って歓喜の声を上げた、その救いの叫びは、実は本当の意味で実現されることとなるわけです。十字架で死んで失敗したと見えた。しかし復活にいたって、救いが実現したことが明らかとなります。それは命を与える救いです。祝福をもたらす救いです。
キリスト教放送局FEBCの3月号に、次のようなリスナーの女性の声が載っていました。
−−私は12歳の時に父を癌で亡くしました。今から50年以上前ですが、いまだに思い出します。父はまだ49歳でした。3人の子と妻をおいてこの世を去ることはどんなに無念だろうかと、当時の私は自分の寂しさを押し殺しつつ思っていました。父の死によって、私は人間の限界をまざまざと感じ、人はいつか無になるんだという虚無感を抱えてきました。進学、就職、結婚という人生の節目でも、父のいない寂しさとこの虚無感で、心から人生を喜べず 「どうせどうせ・・・」という思いを抱えていたように思います。でもイエス様に出会って、この世の死が命の最後の形ではないことを知り、私の心に初めてと言っていいような奥底から湧き出る喜びを感じたのです。死の先の命、主が身をもって与えてくださった命があるということが、どんなに希望であり喜びか。同時に、今この世で過ごす一日ー日が、イエス様がご自身の尊い命をかけてこそ実現できている、どれほど尊く重みのあるものか。 「どうせ・・・」という思いではなく、一日一日を感謝して歩みたいと思います。−−
イエスさまの栄光、十字架と復活の栄光によって、私たちに神の国と永遠の命が示されました。人生は無意味なものではなく、神の国に向かって歩む希望の道のりであることなりました。イエスさまを信じることによって。神と共に歩むことによって。あらためて、困難な中でもホサナ、お救い下さい、祝福しますと主に申し上げながら歩んでまいりたいと思います。